雨の教室

すぱとーどすぱどぅ

第1話 雨の教室

 夕方、激しい雨が校舎の窓を叩いていた。

 放課後の教室には、彩花ひとりしか残っていない。机の上には、返却されたばかりの赤い点だらけのテスト。

 彼女は拳を握りしめた。


 ——絶対に、もう逃げない。


 そう呟いた瞬間、教室の扉が強い風に押されるように開いた。


「まだいたのか、彩花」


 入ってきたのは、同じクラスの凜。誰よりも頭が良く、誰よりも冷静で、そして誰よりも彩花にとって“遠い存在”の少年だった。


「……置いていこうと思ったけどさ。なんか、気になって」


「気にしなくていいよ。私なんか、凜とは違う」


 彩花の声は雨に消えそうだった。

 凜は歩み寄り、濡れた髪をかき上げながら言う。


「違うって何だよ。お前、去年の文化祭で泣きそうになりながらもステージ立ってたじゃん。あれ見てたから知ってる。——お前、めちゃくちゃ強いよ」


 彩花の胸が熱くなる。

 誰にも言われたことがない言葉だった。


「でも……私、ダメなんだよ。何やっても中途半端で……」


「中途半端でもいいだろ。逃げなかったら。それだけで十分、俺には眩しい」


 凜がそう言った瞬間、激しい雷が校庭を照らした。

 まるで、彩花の心の深い闇を切り裂くように。


 涙が溢れた。

 抑えていた感情が崩れ落ちるように。


「……ありがとう。私、もう一回ちゃんとやってみる」


 凜は微笑み、彩花の頭を軽く叩いた。


「それでいい。俺も、一緒にいる」


 ふたりの影が、夕闇の教室でゆっくり重なった。

 雨音はまだ続いていたが、彩花の世界には一つだけ確かな光が灯っていた。


 ——もう、逃げなくていいんだ。





 翌朝、雨は嘘みたいに止んでいた。

 新しい光に包まれた教室で、彩花は早めに席につき、ノートを広げていた。

 昨日とは違う自分でいたかった。


 そこへ、扉が開く。


「おはよう、彩花」


 凜が声をかけてきた。

 なぜか、その声だけで胸が温かくなる。


「おはよう。あの……昨日、ありがとう」


「気にすんなよ。——あ、これ」


 凜は小さなメモを差し出した。


『放課後、図書室で勉強しよう。

 お前だけの敵じゃない。俺も一緒にやる。』


 彩花は驚き、そしてとっくに諦めていた“誰かと並んで努力する未来”が急に目の前に現れた気がした。


「……迷惑じゃない?」


「お前、迷惑って言葉好きだな。俺は、自分がやりたいからやるだけだよ」


 その瞬間、教室の後ろから鋭い声が飛ぶ。


「ちょっと凜、その言い方どういう意味?」


 振り返ると、クラスの人気者・美弥が立っていた。

 凜とは幼なじみで、ずっと彼に寄り添ってきた存在だ。


「最近、彩花のことばっかり気にしてるよね。なんか……変」


 空気が一気に重くなる。

 彩花は思わず席を立った。


「ごめん。私のせいで——」


「違う!」

 凜の声が教室に響いた。


「これは俺が決めたことだ。誰にとやかく言われる筋合いはない」


 美弥は悔しそうに拳を握り、目を伏せる。


「……凜がそんな顔するの、初めて見た」


 その横顔には、長い時間の中で積み上げた感情が滲んでいた。

 彩花は胸が痛んだ。

 自分が踏み込んではいけない場所を壊してしまったような気がして。


 でも——

 昨日のあの言葉が、彼女の背中をそっと押した。


「……私、ちゃんと頑張りたい。誰のせいでもなく、自分のために。

 だから、美弥さん……嫌わないでほしい」


 美弥は驚いたように彩花を見た。

 そして、ふっと力の抜けた笑みをこぼした。


「……あんた、案外強いんだね」


 その瞬間、チャイムが鳴り、張り詰めた空気はすっと溶けていった。


 放課後。

 彩花は小さなメモを握りしめ、図書室へ向かう。


 そこには、椅子に寄りかかって彩花を待つ凜の姿があった。

 夕陽に照らされる横顔は、昨日よりもずっと近く感じる。


「よし。今日から、本気出そう」


 凜の言葉に、彩花は強くうなずく。


 大きなドラマなんてなくていい。

 ただ、“逃げない自分”になれるなら、それでいい。


 ふたりの時間は静かに流れ始めた。


 図書室の静けさには、心のざわつきを吸い取ってくれる不思議な力があった。

 彩花は凜の横でノートを開き、必死に問題へ向かっていた。


 凜は横から覗き込む。


「お、さっきより計算早くなってるじゃん」


「ほんと? なんか……今日は頭が働く気がする」


「そりゃあ昨日、あんなに泣いたんだからな。感情の大掃除だよ」


「やめてよ……!」


 彩花は頬を染め、凜の肩を軽く叩く。

 その自然なやり取りに、自分でも驚いた。


 ——こんなふうに笑える日が来るなんて。


 しかし、平穏は長く続かなかった。


 図書室の入口で足音が止まり、凜の名を呼ぶ声が響いた。


「……凜、ちょっといい?」


 美弥だった。


 凜は小さく息をつき、立ち上がる。


「少し話す。ごめん、彩花」


「う、うん。大丈夫」


 美弥は凜を連れて図書室の外に出ていった。

 ふたりの背中が扉の向こうに消える。


 彩花は心臓の鼓動が速くなるのを感じていた。

 勉強どころではない。


 ——私、邪魔……なの?


 そんな不安が胸に沈んだ頃、ふたりの声が廊下から漏れ聞こえてきた。


「凜、あんた……本気で彩花のこと……?」


 美弥の声は震えていた。


「……本気とかじゃない。あいつは今、頑張ってる。それを支えたいだけだ」


「私じゃ……ダメなの?」


 図書室の外の空気が、ひりつくように張りつめる。


 凜の返事は少し遅れた。


「美弥は大事だよ。でも……彩花は放っておけない」


 その言葉は、彩花の胸に落ちると同時に、痛みと温かさを同時に生み出した。


 美弥は押し殺した声で言った。


「……わかった。

 でも、もし彩花があんたの人生を曇らせるようなことがあったら、私は絶対に許さない」


 足音が遠ざかる。


 凜が図書室へ戻ってきた時、彩花はペンを握る手が少し震えているのに気づかれないように、必死にノートへ視線を落とした。


「……大丈夫か?」


 凜が隣に座り直す。


 彩花は、迷った末に小さな声で言った。


「美弥さん……泣いてた」


 凜の表情が曇る。


「ごめん。俺がもっと気をつければよかった」


「違う、そうじゃなくて……私……」


 胸の奥の言葉がせり上がる。


「私のせいで誰かが傷つくの、嫌だよ」


 凜はゆっくり首を振った。


「誰かが傷つくのは、お前が頑張ってるからじゃない。

 変わろうとしてるからだ。

 それは悪いことじゃない」


「でも……」


「彩花。

 俺は、お前が逃げないでいてくれることが……嬉しいんだ」


 その言葉に、彩花の心の奥で何かがほどけた。


 泣きたくなるほど、まっすぐだった。


 夕陽は完全に沈み、図書室には夜の気配が漂い始めていた。


 ふたりの距離は、昨日より確かに近づいていた。

 けれど、同時に新しい痛みも生まれていた。


 その痛みが、物語を大きく動かすことになるとは、まだ誰も知らなかった。

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