8ビットと白菜:中年男の内省的レトロゲーム記

黒瀬智哉(くろせともや)

プロローグ:奈良の夜、静かなる勝利

 ガツン。


 モニターの隅に表示されたカレンダーの日付が、視界の端で強く主張している。11月13日。冷たい空気が窓のサッシを微かに震わせる、夜の帳が降りた時間だ。


「ふう。」


 深く息を吐き出すと、熱い吐息が画面に一瞬の曇りを作り、すぐに消えた。目の前のデスクトップには、青と白で構成された会計ソフトの画面が広がっている。「やよいの青色申告 オンライン」。画面中央の表組みには、7月から昨日までの取引が、日付順にぎっしりと、しかし整然と並んでいる。


 五ヶ月分。その事実が、脳内で重厚な響きを立てる。


 半年近く放置していた重い扉を、今、力ずくで押し開けた感覚だ。疎かになっていた帳簿付けを、昨夜から一気に駆け抜け、ついに追いついた。その達成感は、張り詰めた肩の凝りがふっと解けるように、体の奥から広がっていく。


  偉いなぁ。確定申告のための事前準備をキッチリやるとか(やってなかったのだがw)


 心の中で自嘲気味に呟くが、その声には確かな誇りが滲んでいる。まるで、荒れ狂う嵐の海を航海し、無事に港へたどり着いた船長のような気分だった。


 この空白の五ヶ月は、ただの怠惰ではない。それは、人生の大きな舵を切るための、戦略的な一時停止だった。


 7月。大阪の喧騒を離れ、奈良の静寂へ。移住計画が始動した瞬間、複式簿記の記帳は、優先順位の階段を三段ほど降りた。やるべきことのリストは、まるで巨大なパズルのピースのように目の前に散らばっていた。


 賃貸契約、契約金の支払い、引っ越し。完了。 住民票異動、運転免許証、マイナンバーカードの住所変更。完了。 愛車のナンバープレート変更、自賠責・任意保険の手続き。完了。 そして、事業の土台の再構築。Google Pixel 8aを手に、楽天モバイルで「最強」の通信環境を整える。


 一つ、また一つとチェックマークがついていくたびに、生活の基盤がコンクリートのように固まっていくのを感じた。


 しかし、その合間には、「やりたいこと」という名の、心地よい誘惑が待っていた。小説の執筆、動画撮影、新しい庭の手入れ。それは、固まったコンクリートの上に敷く、柔らかな絨毯のようなものだ。


 全ては計画通り。一つの歯車が次の歯車を回し、すべてがスムーズに、効率よく連動した。


 デスクの脇に置かれた、飲みかけの炭酸飲料のアルミ缶が、室内の温度でわずかに汗をかいている。その冷たさが、現実感を伴って指先に伝わる。


 視線を画面に戻す。残るは、明日から始まる11月分と来月12月分の仕訳入力のみ。


「これを済ませれば、2025年分の帳簿付けは全て完了となる。」


 胸の奥が、静かに熱くなる。確定申告という、個人事業主にとっての冬の試練に向けた準備は、これでほぼ整った。あの重い作業を年内に片付けられたという事実は、何よりも大きな安堵をもたらす。


 窓の外は、もう冬の気配が濃い。夜空を見上げると、静かな奈良の夜気に、遠い星の光が瞬いている。



 年越しのカウントダウンまで、あと一ヶ月半。



「どうやら無事に年を越せそうだな。」



 モニターの光を浴びながら、彼は静かに微笑んだ。それは、困難なミッションをクリアし、新たなステージへ立つ者だけが持つ、満たされた笑みだった。


 彼はゆっくりと椅子を立ち、デスクの棚へと視線を移した。そこには、移住後の「やりたいこと」計画の一部として、今月の始めに購入したばかりのゲームソフトが鎮座している。



 HD-2D版の『ドラゴンクエストI&II』。



 そのパッケージは、古い記憶の風景に新しい光を当てたような、鮮やかで美しい輝きを放っている。手に入れたものの、画面を立ち上げられたのはオープニングの壮大なファンファーレを聞く一瞬だけだった。あの勇者の旅立ちのテーマは、新しい生活の始まりを告げるかのようで、すぐに電源を切ってしまったのが惜しかった。


「今なら、余裕がある。」


 このゲームの購入もまた、移住計画の一環だった。寒い冬を、ようやく手に入れたこの新居という名の「城」で、心置きなく快適に過ごすための、確かな事前準備。外の寒さが深まるほど、内側の暖かさと、画面の中の冒険が濃密になる。


 彼はソフトを手に取り、その重さを確かめた。


 明日からは、残りの帳簿付けを片付ける。しかし、その作業の合間や、すべての入力が完了した年末には、彼を待っている新しい世界への旅がある。それは、税務上の義務から解放された、純粋な楽しみのための冒険。


 **複式簿記という名の「現実の迷宮」を脱出した彼に、今、「ロールプレイングゲーム」という名の「自由な世界」**の扉が開かれようとしていた。


 棚に戻したソフトが、静かに、しかし確かな存在感を放っている。彼はパソコンの電源を落とし、部屋の隅の暖房器具に手を伸ばした。


 これで、すべてが整った。


 冬の夜は、まだ始まったばかりだ。

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