Oh my devil !

紫ヶ丘

第1話 悪魔との出会い


 初めて悪魔と会った時、俺は死の淵にあった。


 亡き伯父と同じ黒い目が心底気に食わないらしい両親により、日々殴る蹴るの虐待を受けてきた俺は、七歳にして心身共に限界だったのだ。


 その日もワイングラスが空になったというくだらない理由で父親に蹴り飛ばされ、グラついた本棚が自分に倒れてくるのを見て、ついに俺の心は折れてしまった。


 痛む体を押してまで必死で逃げる必要があるのか?

 死に抗うよりも、このまま死んだ方が楽になれるのではないか?


 瞬き一つの僅かな時間。

 けれど満身創痍な俺にとっては致命的な遅れだった。


 あ、死んだな。


 本能で理解した。

 濃厚な死の香りと言うか、夜の帳が下りるように、自分の生の終わりを感じたのだ。

 もうすぐ死ぬというのに心は落ち着いていて、



 「──小奴らは、そなたに必要か?」



 と聞こえた時も、



 「全く必要ない」



 と間髪を入れずに答えていた。


 答えてから、今の声は何だ?と目を開けると、そこには闇があった。

 生まれて初めて目にする純黒。

 世界中を探しても、これ以上の黒はないと言い切れるほど、それは黒かった。



 「……六年分といったところか」



 ドサドサッと物音がした方に顔を向けると、丸々と肥え太っていた父親と、毳々しかった母親が、全身の水分を奪われたのか、枯れ木のような姿で事切れていた。


 血の繋がった両親が目の前で死んだというのに、心に浮かんだのは感傷や恋慕ではなく、人はここまで縮むのかという驚きだけだった。



 「……それ、あんたがやったの?」


 「必要ないのだろう?」



 純黒が人の形をとって、僕を倒れかけの状態で止まった本棚の下から引っ張り出す。


 髪も目も服も手袋も黒一色の中、病的なほど白い肌がより現実味を薄れさせ、相手が人ならざるものだという印象を強めた。



 「うん。……一応礼を言っとく。助けてくれてありがとう」


 「礼は不要だ」


 「……さっき六年分って言ってたよね?もしかして、あんたは命を奪うっていう悪魔?」


 「さてな。それよりも先に治療だ」



 悪魔の手のひらから黒い光が放たれ、みるみる怪我が癒えていく。

 体が痛まないなんて何年ぶりだろう。



 「……悪魔なのに治癒魔法が使えるの?」


 「簡単なものならな。先程下僕を呼んだ。アレらの片付けも、そなたの襲爵も、屋敷内の大掃除も全て其奴に任せればいい。移動するぞ」


 

 悪魔の小脇に抱えられながら、来客用に掃除されている部屋のベッドに寝かされる。

 この悪魔、ずいぶん我が家に詳しいらしい。



 「下僕がいるなんて、悪魔はお偉いさんなの?」


 「さてな。……しばらく休め。これから忙しくなる。起きたら食事だ」



 食事。

 温かい料理を美味しそうに食べる両親を、お腹を鳴らしながら給仕するのが苦痛だった。


 僕が食べていいのは硬いパンと冷めたスープだけだったから。


 でも二人が居なくなった今なら、一番食べたかったあの料理を食べられるかもしれない。



 「ねぇ、悪魔はご飯作れる?僕、ふわふわのオムレツが食べたい。チーズが入った熱々のやつ。父さん達が食べてるのを見て、いつも美味しそうだと思ってたんだ」


 「……善処する」





 起床後、再び悪魔の小脇に抱えられて食堂に移動すると、見知らぬ男が待ち構えていた。



 「お初にお目にかかります。ブランク侯爵家の執事長を拝命いたしましたフォンセと申します」



 年齢は三十代くらい。

 礼儀正しく頭を下げる姿がスマートで、如何にも仕事が出来そうだ。

 これで執事服を着ていれば完璧なんだけど……。



 「……黒を基調とした神官服に、ブランク侯爵領の紋入りサッシュを付けているってことは、フォンセはうちの領内にある闇の神殿の上級神官だよね?上級神官なのに悪魔の下僕をしていいの?」


 「悪魔とは?」


 「フォンセの後ろで椅子にふんぞり返ってる悪魔のことだよ」



 悪魔は見目麗しい姿と甘い言葉で人を惑わすと本に書いていた。


 長い黒髪にゆったりしたローブ姿の悪魔は、確かに顔が整っていて、男か女か分からない見た目をしているけど、僕を小脇に抱えて歩いたり、上座で偉そうに足を組んでいるから多分男だと思う。


 僕としては悪魔の性別よりも、全身黒ずくめ過ぎて、夜道を歩くと顔だけが浮かび上がる不審者にしか見えない方が気になるけど。



 「下僕は下僕だ。それよりも早く食べろ。冷めるぞ」



 悪魔が顎で示すのは、僕の目の前の皿に乗った焦げ臭い黒い塊。

 作りたてなのか、湯気が立っている。



 「……悪魔、もしかしてこの消し炭がチーズオムレツだと言うつもり?いくら悪魔が黒好きだからって、これはないよ」


 「見た目は悪いが、材料は正しかった。腹に入れば同じだろう」


 「……悪魔にご飯を頼んだ僕が悪かったよ。人とは食事の概念が違うもんね」



 あの時の僕はどうかしていた。

 悪魔と料理なんて対極にありそうなのに、疲労困憊で熱々のチーズオムレツの事しか考えられなかったんだ。



 「──僭越ながら、部下に料理を作らせましたので、そちらを召し上がられますか?熱々のチーズオムレツもございます」



 しょぼくれる僕の耳に届いた救いの言葉。



 「本当!?色は?悪魔みたいな黒色じゃないよね?」


 「もちろん卵の色でございます」


 「やったー!流石フォンセ!仕事が出来る執事長!」



 万歳する僕を面白くなさそうに見る悪魔。



 「……ふん。教本が悪かったのだ。材料を混ぜて火にかけろと書いていたのに、消し炭になるとは」


 「主、主は材料を混ぜたのではなく一塊にして燃やされたのです。ホールチーズを切り分けず、卵の殻も割らず、調味料も瓶ごとまとめて圧縮して燃やせば消し炭になって当然でございます。今度絵付きの教本をお渡しいたしますので、是非ダーク坊ちゃまに美味しいチーズオムレツをお作りになってくださいませ」



 何て事だ。

 この黒い塊に、まさか一週間分くらいの材料が使われているなんて。



 「悪魔、無理しないで。うちは貧乏だから材料を無駄にされたら困る」


 「ふん。余が居るのに貧しくなるはずがないだろう」


 「……それって、もしかして僕の両親の寿命を使って願いを叶えてくれるってこと?」


 「何だそれは?」


 「本にさ、悪魔は願いを叶える代わりに命を奪うって書いてたんだ。だから奪った命で願いを叶えるのかなって。だったら今まで重税で苦しんでいた領民や、ブランク領を豊かにしてくれたら嬉しいなって」


 「……ふん。そなたの願いを叶えるのは吝かではない」


 「うん、全体的な生活の向上が優先で、チーズオムレツは余裕が出来たらでいいよ。……ところでフォンセ、確認なんだけど、フォンセは神官なんだよね?うちの執事長なんてしていいの?」


 「問題ありません。闇の神殿総出でブランク侯爵家の後ろ盾となりましたから。ダーク坊ちゃまの襲爵の承認もここに」



 フォンセが差し出した重厚感のある木箱を開けると、丸まった羊皮紙が入っていた。

 青いリボンを解き、羊皮紙を広げると、真っ先に目に入る青く光る印章。



 「すごい、王家の印章なんて初めて見た。本当に光るんだね。ダーク・ブランク侯爵か。……うん?この瘴気問題って?ちゃんと封印出来てるよね?」


 「ダーク坊ちゃま。王家に坊ちゃまの襲爵を申し出る際、前侯爵夫妻は結界の保全を怠った事で漏れ出した瘴気により死亡したと届け出たのでございます。証拠として遺体を提示しましたら、刺激が強かったのか、ろくな議論もなく承認いただけました」


 「そっか。悪魔のことは隠さなきゃだもんね。うん、分かった。だから瘴気の専門家である神殿が後ろ盾になったんだね」


 「さようでございます」


 「……心強いけど、フォンセが悪魔の下僕だってバレたら闇の神殿から破門されるんじゃない?」


 「ご安心ください。私めが神殿長でございますので」



 ……通りでやり手だと思った。

 悪魔の手助けがあったにせよ、この短時間で王宮とブランク侯爵領を往復した上に襲爵をもぎ取ってくるんだもん。



 「……フォンセを下僕にした悪魔って、相当悪知恵が働くんだね」 


 「褒めても構わないぞ」


 「……やめとく」



 熱々のチーズオムレツは絶品だった。

 一度は諦めた命だけど、この世界はまだ捨てたものじゃないと思えるくらい美味しくて、ちょっと泣いてしまった。

 

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