第一章
第一話:冷蔵庫
その案件に気づいたのは、月曜の朝いちばんだった。
かったるいセキュリティの先にある基幹システムマイページ。
そこから、家事代行事業ページの「新規依頼」の通知をまとめて開いていく中で、ひとつだけ、備考欄の文字数が妙に多いものがあったのだ。
週1回・2時間/掃除・洗濯
依頼者:七十三歳・男性・一人暮らし
備考:冷蔵庫の中には、一切手を触れないでください
私は画面をスクロールして、もう一度その一行を読み返した。
冷蔵庫。
家事代行の依頼で「ここは触らないでください」という指定は、それなりにある。
書斎の机、個人の引き出し、ベッドの下。
でも「冷蔵庫」に線を引いてくる人は、そう多くない。
案件はすでにオペレーションチームによってスタッフに割り振られていて、ステータスは「初回訪問予定」となっている。
私がなにかを決める場面ではない。ただ、一覧の中で、そこだけが細い棘のように目に残った。
◇
初回訪問の翌日、日報アプリに新しい行が増えていた。
全部を読むのは仕事ではないけれど、時間のあるときにはときどき、眺める。
現場の状況を知っておくと、今後の経営判断の材料を提供できるヒントがあるかもしれない。現場はお客様とつながっている。日報は現場と私をつなぐ。つまり、日報そのものがお客様と私をつないでいるのだ。
そして、あの案件の日報を見つけた。
【初回】
・リビング:床にうっすら埃あり
・キッチン:シンク水垢、コンロ周りに油汚れ
・冷蔵庫:外側のみ拭き掃除(中身には触れず)
・依頼者様、とても穏やか。奥様の話をよくされる
最後の一文に、カーソルを合わせる。
奥様の話をよくする、一人暮らしの男性。
それだけなら、どこにでもありそうな日常だ。
私は画面を閉じかけて、ふと思い直し、自分用のメモアプリを開いた。
No.2025102314 「冷蔵庫には触れないでください」と依頼した人。
数字の役に立たない情報ほど、なぜか書き残しておきたくなる。
◇
二回目、三回目の訪問も、似たような日報が続いた。
「今日は、あの人が好きだったメニューなんですって」
「この時間があると助かります、と笑顔」
冷蔵庫については、毎回「外側のみ拭き掃除」とだけある。
中身のことは、何も書かれない。
私は、特に深く考えず、「ま、そうそう冷蔵庫の中まで掃除してほしいとは思わないよね。」とだけ思い、前日の実績管理に戻った。
◇
その家のことをもう一度はっきり意識したのは、五回目の訪問のあとだ。
【5回目】
・冷蔵庫のドアを拭いていたところ、端に小さな付箋がいくつも貼られているのが見えました
・「10月27日 卵焼き」「10月28日 きんぴら」など料理名と日付が手書き
・依頼者様、「中は、あの日のままなんです」と一言
・本日も中身には触れず、外側のみ清掃
「あの日のまま」。
その言葉の意味を、私は特に深掘りしなかった。
忙しいときに読む日報は、どうしても「変わったところはないか」「トラブルはないか」を確認するためのものになりがちだ。
付箋と料理名の並びを目で追って、「几帳面な人だな」と思い、メモアプリに一行書き足す。
付箋いっぱいの冷蔵庫。中は「あの日のまま」
それで、その日は仕事を終えた。
◇
十回目の訪問の数日前、支店長からチャットが飛んできた。
月1回の支店営業報告会の際、彼女が本社に来たとき、立ち話で彼の話をしたことがある。それでわざわざ連絡をしてきたのだろう。
『No.2025102314のお客様、覚えてますか? 冷蔵庫NGの方』
『えぇ、なにかありましたか?』
『次回、「中もお願いできますか」とのことです』
私はキーボードの上で手を止めた。
『理由、何かおっしゃってました?』
しばらくして返事がくる。
『支店に電話がかかってきたんですよ。私が対応したんですけどね。病院の話をされてました。検査結果が思った以上に良かったとかどうとか……』
『ほう。』
『「そろそろ、あの人も怒らなくなってきた気がするんですよ」って笑ってました。』
チャットを閉じてから、私はしばらく画面を見つめた。
それでもまだ、その「怒らなくなってきた」が、具体的に何を指しているのかまでは、ピンと来ていなかった。
◇
十回目の訪問が終わった月曜日、夕方に日報の通知が届いた。
いつものように、数字のチェックを終えてから、なんとなくその案件を開く。
【10回目】
・リビング・水回りとも良好
・依頼者様のご希望により、冷蔵庫内の清掃を実施
・中身はタッパーや保存容器多数、調味料など
・一つずつ「これはあの人の◯◯」「これは最後に作ってくれた△△」とお話されながら確認
・すべて処分についてご同意いただき、廃棄
・作業中、「これでようやく、あの人の料理を思い出で味わえる」との発言あり
・作業後、冷蔵庫ドアの付箋もすべて外す(依頼者様のご希望)
私は最初、仕事モードのまま読んでいた。
オプション作業の有無。追加時間。最終的な追加請求額。
経営企画として気にするのは、そのあたりだ。
スクロールして一番下まで行き、ふと、真ん中あたりの一文に視線が戻る。
「これは最後に作ってくれた『肉じゃが』」
容器を手に取りながら話す男性。
それを聞きながら、一つひとつ中身を捨てていくスタッフ。
頭の中で、遅れて場面が再生される。
あの日のままの冷蔵庫。
貼られたままの付箋。
病院の検査。
「怒らなくなってきた気がする」という言い方。
そこでようやく、「冷蔵庫には触れないでください」という最初の一行が、線でつながった。
ああ、そうか。
あの冷蔵庫は、保存場所じゃなかったのだ。
その人にとっては、たぶん、「まだ一緒に暮らしている」と思うための。思い出が詰まったタイムカプセルだったんだ。
◇
会社のシステムに残っているのは、「冷蔵庫内清掃オプション利用 500円」という数字と、作業時間のログだけだ。
会議室で見る月次レポートには、おそらくこう記載される。
・高齢単身世帯のオプション利用実績
・既存顧客におけるクロスセル成功例
そこには、「あの日のまま」の冷蔵庫も、
付箋に書かれた料理の名前も、
「これでようやく、思い出で味わえる」という一言も、載らない。
私はノートアプリに新しい行を足した。
No.2025102314 「冷蔵庫には触れないでください」と書いたお客様
→ 十回目の訪問で、中身を全部手放した日
仕事には役に立たない。
数字も、グラフも、これを知らなくてもきちんと整う。
それでも、こうしてどこかに書いておかないと、
あの一行に込められていた意味ごと、世界から静かに消えてしまいそうだった。
モニターの隅では、今月の売上予測の線が、いつも通りの角度で伸びている。
私はそのグラフから目を離し、日報の画面に戻って、もう一度だけ最初の備考欄を開いた。
冷蔵庫の中には、一切手を触れないでください
最初に見たときより、ずっとやさしい声に聞こえた。
ありがとう––。元気でね。
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