第一章

第一話:冷蔵庫

その案件に気づいたのは、月曜の朝いちばんだった。


 かったるいセキュリティの先にある基幹システムマイページ。

 そこから、家事代行事業ページの「新規依頼」の通知をまとめて開いていく中で、ひとつだけ、備考欄の文字数が妙に多いものがあったのだ。


週1回・2時間/掃除・洗濯

依頼者:七十三歳・男性・一人暮らし

備考:冷蔵庫の中には、一切手を触れないでください


 私は画面をスクロールして、もう一度その一行を読み返した。


 冷蔵庫。


 家事代行の依頼で「ここは触らないでください」という指定は、それなりにある。

 書斎の机、個人の引き出し、ベッドの下。


 でも「冷蔵庫」に線を引いてくる人は、そう多くない。


 案件はすでにオペレーションチームによってスタッフに割り振られていて、ステータスは「初回訪問予定」となっている。

 私がなにかを決める場面ではない。ただ、一覧の中で、そこだけが細い棘のように目に残った。



初回訪問の翌日、日報アプリに新しい行が増えていた。

 全部を読むのは仕事ではないけれど、時間のあるときにはときどき、眺める。

 現場の状況を知っておくと、今後の経営判断の材料を提供できるヒントがあるかもしれない。現場はお客様とつながっている。日報は現場と私をつなぐ。つまり、日報そのものがお客様と私をつないでいるのだ。


 そして、あの案件の日報を見つけた。


【初回】

・リビング:床にうっすら埃あり

・キッチン:シンク水垢、コンロ周りに油汚れ

・冷蔵庫:外側のみ拭き掃除(中身には触れず)

・依頼者様、とても穏やか。奥様の話をよくされる


 最後の一文に、カーソルを合わせる。


 奥様の話をよくする、一人暮らしの男性。

 それだけなら、どこにでもありそうな日常だ。


 私は画面を閉じかけて、ふと思い直し、自分用のメモアプリを開いた。


No.2025102314 「冷蔵庫には触れないでください」と依頼した人。


 数字の役に立たない情報ほど、なぜか書き残しておきたくなる。



 二回目、三回目の訪問も、似たような日報が続いた。


「今日は、あの人が好きだったメニューなんですって」

「この時間があると助かります、と笑顔」


 冷蔵庫については、毎回「外側のみ拭き掃除」とだけある。

 中身のことは、何も書かれない。


 私は、特に深く考えず、「ま、そうそう冷蔵庫の中まで掃除してほしいとは思わないよね。」とだけ思い、前日の実績管理に戻った。



 その家のことをもう一度はっきり意識したのは、五回目の訪問のあとだ。


【5回目】

・冷蔵庫のドアを拭いていたところ、端に小さな付箋がいくつも貼られているのが見えました

・「10月27日 卵焼き」「10月28日 きんぴら」など料理名と日付が手書き

・依頼者様、「中は、あの日のままなんです」と一言

・本日も中身には触れず、外側のみ清掃


 「あの日のまま」。


 その言葉の意味を、私は特に深掘りしなかった。

 忙しいときに読む日報は、どうしても「変わったところはないか」「トラブルはないか」を確認するためのものになりがちだ。


 付箋と料理名の並びを目で追って、「几帳面な人だな」と思い、メモアプリに一行書き足す。


付箋いっぱいの冷蔵庫。中は「あの日のまま」


 それで、その日は仕事を終えた。



 十回目の訪問の数日前、支店長からチャットが飛んできた。

 月1回の支店営業報告会の際、彼女が本社に来たとき、立ち話で彼の話をしたことがある。それでわざわざ連絡をしてきたのだろう。


『No.2025102314のお客様、覚えてますか? 冷蔵庫NGの方』

『えぇ、なにかありましたか?』

『次回、「中もお願いできますか」とのことです』


 私はキーボードの上で手を止めた。


『理由、何かおっしゃってました?』


 しばらくして返事がくる。


『支店に電話がかかってきたんですよ。私が対応したんですけどね。病院の話をされてました。検査結果が思った以上に良かったとかどうとか……』

『ほう。』

『「そろそろ、あの人も怒らなくなってきた気がするんですよ」って笑ってました。』


 チャットを閉じてから、私はしばらく画面を見つめた。

 それでもまだ、その「怒らなくなってきた」が、具体的に何を指しているのかまでは、ピンと来ていなかった。



 十回目の訪問が終わった月曜日、夕方に日報の通知が届いた。


 いつものように、数字のチェックを終えてから、なんとなくその案件を開く。


【10回目】

・リビング・水回りとも良好

・依頼者様のご希望により、冷蔵庫内の清掃を実施

・中身はタッパーや保存容器多数、調味料など

・一つずつ「これはあの人の◯◯」「これは最後に作ってくれた△△」とお話されながら確認

・すべて処分についてご同意いただき、廃棄

・作業中、「これでようやく、あの人の料理を思い出で味わえる」との発言あり

・作業後、冷蔵庫ドアの付箋もすべて外す(依頼者様のご希望)


 私は最初、仕事モードのまま読んでいた。


 オプション作業の有無。追加時間。最終的な追加請求額。

 経営企画として気にするのは、そのあたりだ。


 スクロールして一番下まで行き、ふと、真ん中あたりの一文に視線が戻る。


「これは最後に作ってくれた『肉じゃが』」


 容器を手に取りながら話す男性。

 それを聞きながら、一つひとつ中身を捨てていくスタッフ。


 頭の中で、遅れて場面が再生される。


 あの日のままの冷蔵庫。

 貼られたままの付箋。

 病院の検査。

 「怒らなくなってきた気がする」という言い方。


 そこでようやく、「冷蔵庫には触れないでください」という最初の一行が、線でつながった。


 ああ、そうか。


 あの冷蔵庫は、保存場所じゃなかったのだ。

 その人にとっては、たぶん、「まだ一緒に暮らしている」と思うための。思い出が詰まったタイムカプセルだったんだ。



 会社のシステムに残っているのは、「冷蔵庫内清掃オプション利用 500円」という数字と、作業時間のログだけだ。


 会議室で見る月次レポートには、おそらくこう記載される。


・高齢単身世帯のオプション利用実績

・既存顧客におけるクロスセル成功例


 そこには、「あの日のまま」の冷蔵庫も、

 付箋に書かれた料理の名前も、

 「これでようやく、思い出で味わえる」という一言も、載らない。


 私はノートアプリに新しい行を足した。


No.2025102314 「冷蔵庫には触れないでください」と書いたお客様

→ 十回目の訪問で、中身を全部手放した日


 仕事には役に立たない。

 数字も、グラフも、これを知らなくてもきちんと整う。


 それでも、こうしてどこかに書いておかないと、

 あの一行に込められていた意味ごと、世界から静かに消えてしまいそうだった。


 モニターの隅では、今月の売上予測の線が、いつも通りの角度で伸びている。


 私はそのグラフから目を離し、日報の画面に戻って、もう一度だけ最初の備考欄を開いた。


冷蔵庫の中には、一切手を触れないでください


 最初に見たときより、ずっとやさしい声に聞こえた。


 ありがとう––。元気でね。

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