家事代行の断片-誰かの暮らしを守る仕事の話-

@YuikiHal

序章

序章:経営企画部の私

 シンクの中で、水が静かに流れていた。

 その向こうのリビングから、赤ちゃんの泣き声が聞こえる。

 私はスポンジを握ったまま手を止めて、「あ、私、この瞬間のためにここにいるんだ」と思った。

 ──私は、家事代行サービス会社の経営企画部長だ。



 パソコンの画面の中には、いつも同じような数字が並んでいる。


 売上、客単価、稼働率。キャンセル率に、クレーム件数。

 週次の会議用にきれいなグラフにしてしまえば、どの月もそれなりにそれっぽく見える。


 私は家事代行サービス会社の経営企画部で働いている。

 仕事内容を一言で説明しろと言われれば、「数字を見る人です」とくしかない。


 実際、私の一日は、数字と表と報告書でできている。



 現場のスタッフは、訪問が終わるたびに日報を送ってくる。

 業務アプリの画面には、担当者名と訪問時間、それから短いコメントの欄。


「キッチン、水まわり汚れ強め」

「ペットの抜け毛多め。粘着テープ使用」

「依頼者様、今日は少し元気がない様子」


 最初の二行は、仕事の話だ。

 三行目は、仕事とそうでないもののあいだにある、なにか。


 決算書には載らない。

 報酬にも反映されない。

 でも、私はこの三行目をいつもつい、読み返してしまう。

 誰にも、言われていない。そもそも、この報告書を読むこと自体、経営企画の仕事ではない。



 ある家のコメント欄には、月に一度だけ「お花の水替え」と書かれていた。

 業務範囲ではないから、「可能な範囲で対応」とスタッフが追記している。


 別の家には、「玄関の靴は、そのままで」と太字で注意書きがあった。

 散らかってはいるが、家主にとってはそれが落ち着くらしい。


 洗面所にきれいに並べられた歯ブラシの本数とか、 リビングの片隅で、誰も座っていないのにいつもクッションがくぼんでいる椅子とか。


 スタッフの短い文章の向こう側に、見たことのない部屋の空気がふっと立ち上がる瞬間がある。

 それはまるで、そこにいるかのよう。嗅覚まで錯覚する。


 私はそれを勝手に、「家事代行の断片」と呼んでいる。



 経営企画という立場上、私は滅多に現場に出ない。

 お客様と直接顔を合わせることもほとんどない。


 私の知っているお客様は、

 「40代共働き夫婦・週1回2時間」

 「70代一人暮らし・隔週3時間」

 といった属性と、

 月次レポートに並ぶ数字と、

 たまに日報に紛れ込む一、二行の文章だけだ。


 それでも、ときどき頭から離れなくなる案件がある。


 スタッフが何気なく書いたひと言。

 クレームでも、特別な事件でもない。

 ただ、「ああ、この人はこういう暮らしをしているのかもしれない」と思ってしまう一行。


 会議室でグラフを指さしているときより、

 そういう文章を読んでいるときのほうが、

 この仕事の意味に少しだけ近づいている気がする。



 だからある日、私は日報アプリとは別に、自分用のノートを作った。

 案件番号と、お客様の名前の頭文字と、短いメモを一行だけ書き留めるノート。


「いつも決まった曜日だけ、カーテンを開けてほしいと頼む人」

「子どもに家事をさせたくないと言う母親」

「誰も座らない椅子にクッションを置き続ける家」


 仕事には直接関係のない情報だ。

 売上も予算も、このノートを見ても一円も動かない。


 それでも、こうして並べてみると、

 同じ「家事代行サービス」という名前の下に、とんでもなく違う暮らしが幾つも重なっていることが分かる。


 その重なりを、少しだけ誰かと共有してみたくなった。


 これは、経営企画部の机の上でこっそりと綴られていく、

 家事代行の現場から届いた、いくつかの断片の記録だ。

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