家事代行の断片-誰かの暮らしを守る仕事の話-
@YuikiHal
序章
序章:経営企画部の私
シンクの中で、水が静かに流れていた。
その向こうのリビングから、赤ちゃんの泣き声が聞こえる。
私はスポンジを握ったまま手を止めて、「あ、私、この瞬間のためにここにいるんだ」と思った。
──私は、家事代行サービス会社の経営企画部長だ。
◇
パソコンの画面の中には、いつも同じような数字が並んでいる。
売上、客単価、稼働率。キャンセル率に、クレーム件数。
週次の会議用にきれいなグラフにしてしまえば、どの月もそれなりにそれっぽく見える。
私は家事代行サービス会社の経営企画部で働いている。
仕事内容を一言で説明しろと言われれば、「数字を見る人です」と
実際、私の一日は、数字と表と報告書でできている。
◇
現場のスタッフは、訪問が終わるたびに日報を送ってくる。
業務アプリの画面には、担当者名と訪問時間、それから短いコメントの欄。
「キッチン、水まわり汚れ強め」
「ペットの抜け毛多め。粘着テープ使用」
「依頼者様、今日は少し元気がない様子」
最初の二行は、仕事の話だ。
三行目は、仕事とそうでないもののあいだにある、なにか。
決算書には載らない。
報酬にも反映されない。
でも、私はこの三行目をいつもつい、読み返してしまう。
誰にも、言われていない。そもそも、この報告書を読むこと自体、経営企画の仕事ではない。
◇
ある家のコメント欄には、月に一度だけ「お花の水替え」と書かれていた。
業務範囲ではないから、「可能な範囲で対応」とスタッフが追記している。
別の家には、「玄関の靴は、そのままで」と太字で注意書きがあった。
散らかってはいるが、家主にとってはそれが落ち着くらしい。
洗面所にきれいに並べられた歯ブラシの本数とか、 リビングの片隅で、誰も座っていないのにいつもクッションがくぼんでいる椅子とか。
スタッフの短い文章の向こう側に、見たことのない部屋の空気がふっと立ち上がる瞬間がある。
それはまるで、そこにいるかのよう。嗅覚まで錯覚する。
私はそれを勝手に、「家事代行の断片」と呼んでいる。
◇
経営企画という立場上、私は滅多に現場に出ない。
お客様と直接顔を合わせることもほとんどない。
私の知っているお客様は、
「40代共働き夫婦・週1回2時間」
「70代一人暮らし・隔週3時間」
といった属性と、
月次レポートに並ぶ数字と、
たまに日報に紛れ込む一、二行の文章だけだ。
それでも、ときどき頭から離れなくなる案件がある。
スタッフが何気なく書いたひと言。
クレームでも、特別な事件でもない。
ただ、「ああ、この人はこういう暮らしをしているのかもしれない」と思ってしまう一行。
会議室でグラフを指さしているときより、
そういう文章を読んでいるときのほうが、
この仕事の意味に少しだけ近づいている気がする。
◇
だからある日、私は日報アプリとは別に、自分用のノートを作った。
案件番号と、お客様の名前の頭文字と、短いメモを一行だけ書き留めるノート。
「いつも決まった曜日だけ、カーテンを開けてほしいと頼む人」
「子どもに家事をさせたくないと言う母親」
「誰も座らない椅子にクッションを置き続ける家」
仕事には直接関係のない情報だ。
売上も予算も、このノートを見ても一円も動かない。
それでも、こうして並べてみると、
同じ「家事代行サービス」という名前の下に、とんでもなく違う暮らしが幾つも重なっていることが分かる。
その重なりを、少しだけ誰かと共有してみたくなった。
これは、経営企画部の机の上でこっそりと綴られていく、
家事代行の現場から届いた、いくつかの断片の記録だ。
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