第5話 第五章:存在の印影

翌朝、三島は会社を休んだ。

あの夜、何が現実で、何が幻だったのか分からない。

ただひとつ確かなのは、広長の残した原稿が机の上にあることだった。


封筒の中の紙は湿っており、ところどころにインクが滲んでいた。

まるで、涙を吸い込んだ紙のようだった。

もう一度、最初から読み直す。

「見られることと、生きていることは、ほとんど同じ意味を持っている。」

その一行が胸に刺さる。

広長があの文章を書いたとき、どんな孤独を抱えていたのか。

彼の書店は、時代の流れの中で客足を失い、

SNSや電子書籍の海に埋もれていった。


“透明人間”とは、きっとその孤独のことだったのだ。


三島は静かに顔を上げた。

曇った窓の向こうに街が見える。

人々が歩き、車が走る。

それは何の変哲もない日常の光景だったが、

なぜか彼にはそれが妙に遠く感じられた。


──「今日、18時。書店で。」


そんなメールが送られてきた。

幻だったのかもしれない。

それでも行かなくてはいけない気がした。


夕方。

広長書店の前に立つと、ガラスの戸は半分だけ開いていた。

かすかに蛍光灯の光が漏れている。

中に入ると、店の奥のカウンターにひとりの女性が座っていた。

広長の妹、美佐だった。


「……三島さん、ですよね」


彼女は小さく微笑んだ。

「兄の遺品、取りに来てくれたんですね」


その言葉に、時間が止まったように感じた。

「……遺品?」


美佐は頷いた。

「兄、亡くなったんです。三か月前に。急でした。

ずっと体調が悪いのに、誰にも言わなかったみたいで」


少しの間が空き、言葉の意味が自身に染み込み胸の奥が締めつけられる。

あの夜のメールも、工場で見た印刷の記録も、

全部、残された“痕跡”だったのだ。


美佐は小さな箱を差し出した。

中には古びた万年筆とノートが入っていた。

表紙には、手書きでこう記されていた。


──『透明人間(未完)』


「兄が最後まで書いてた原稿です。

“印刷のこと詳しい友達に読ませたい”って言ってました」


三島は黙ってノートを受け取った。

広長の文字が、まだ新しい。

最後のページに、こう綴られていた。


「もしこれを読んでくれる人がいるなら、それで充分だ。

僕はもう、見られている。

だから、もう透明じゃない。」


その文字を見た瞬間、

涙が止まらなくなった。


彼はずっと、自分の存在を証明したかっただけなんだ。

誰かに「見えてるよ」と言ってほしかっただけなんだ。


美佐が静かに言った。

「兄、最後のほうで何度も言ってたんです。

“あいつだけは俺を見てくれる”って。

三島さんのことですよ」


三島は、唇を噛みしめた。

言葉にならなかった。


夜になり、書店を出るころには街の明かりが灯っていた。

ネオンが濡れたアスファルトに反射し、人々の足音が絶え間なく響く。


三島は空を見上げた。

一部切れた蛍光灯の白い光が「長書店」とぼんやりと照らしている。

その光が、彼にはどこか温かく見えた。


ポケットの中には、広長の万年筆。

帰り道、コンビニのノートを一冊買った。

家に着くと、机に座り、ゆっくりとペン先を紙にあてた。


──『透明人間(第三稿)』


そう書いて、少しだけ笑った。


「俺は今も、ここにいる。

そして、誰かを見ている。」


書き終えた瞬間、部屋の中に風が通り抜けた。カーテンが揺れ、蛍光灯がかすかに明滅する。机の上の紙が一枚、ふわりとめくれた。


その裏に、薄くインクの滲んだ文字が浮かんでいた。


──見てるよ。


三島は静かに目を閉じた。

涙ではなく、穏やかな息を吐いた。


そして、そっと蛍光灯を消した。

暗闇の中でも、紙の白さだけはぼんやりと光っていた。

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