透明人間

おげんさん

第1話 第一章:印刷の音

信号が赤になれば止まり、青になれば進む。

顔が西を向けば背中は東。北に近づけば南が遠い。

そうした当たり前のことを、三島は時々、意味もなく考える。印刷工場の窓のない部屋で、機械の唸りに耳を澄ませながら。


印刷の匂いが好きだ、と思ったのはいつの頃だったか。

紙とインクと油の混ざった、少し甘いような、焦げたような匂い。

機械の音が鳴り止まない時間の中にいると、自分の存在が薄まっていくのがわかる。誰かの本に印字される文字のひとつになったような気がして、少しだけ安心するのだ。


三島修司、三十五歳。

未婚、恋人なし。

印刷工場に勤めて十年目。最近は、工場の外壁が新しく白に塗り替えられたくらいで、生活に大きな変化はない。


昼は無言で働き、夜はアパートに戻り、コンビニで買った缶チューハイを飲みながらテレビを眺める。ニュースキャスターが誰かのスキャンダルを真顔で報じるのを見て、チャンネルを変える。そうして、一日が終わる。


ある日の夜だった。

印刷機を止め、いつものように帰り支度をしていると、玄関の自動ドアの前に立つ男がいた。

見覚えのある顔だった。

広長――広長雄太。高校の同級生だ。


「……三島か?」

声をかけられて、三島は思わず立ち止まった。

「広長?」

「そうだよ、覚えてたか。十年ぶりくらいか?」

「そんなになるか」


広長は目を細め、じっと三島を見た。

「お前……老けたな。いや、悪い意味じゃないんだけどさ。なんか“色”が抜けたっていうか」

「仕事のせいだよ。インクにまみれてるから」

三島は苦笑した。

「そっちは変わらないな。昔から陽に焼けてた」

「いやいや、俺だってもう三十半ばだぞ。目の下のクマ見ろよ、寝不足続きでさ」


二人の会話はぎこちなかった。

時間の隙間に錆がこびりついていて、うまく動かない古い歯車のようだった。

それでも、どこか懐かしかった。


「この近くで働いてんの?」

「いや、たまたま通りかかっただけ。三島、今もここの工場?」

「うん。変わってないよ」

「相変わらずだな」


広長がポケットから煙草を取り出した。

火をつけながら、ふと顔を上げる。

「よかったら飲みに行かないか?」


三島は一瞬、時計を見た。

午後七時半。

いつもなら家に帰って風呂を沸かし、ニュース番組の時間に合わせてビールを開ける頃だった。


「悪い。今日はちょっと、疲れててさ」

「そうか……」

広長は煙を吐きながら笑った。

「まあ、また今度な。こっちも無理言った」


三島は軽く手を振って自転車へ向かった。

後ろで、広長の煙草の火が小さく光っていた。


ペダルを踏みながら、三島は思った。

“また今度”なんて言葉ほど、次がない約束もない。

だが、その夜はなぜか、帰宅してからも広長の顔が頭を離れなかった。


数日後の朝。

工場に出勤すると、社内の掲示板に貼られた一枚のチラシが目に入った。

地元の書店が閉店するという告知だった。


その書店は、広長の実家が経営していた場所だ。

学生の頃、よく立ち読みをしては店主である広長の父に怒られた。

「買う気がないなら帰れ!」と大声で言われ、二人で顔を見合わせて笑ったのを覚えている。


昼休みにスマートフォンで調べ、三島は驚いた。

閉店したのは一週間前。――つまり、広長が現れたのはその直後だった。


夜、どうしても落ち着かず、彼の名前をSNSで検索してみた。

ほとんど更新はされていなかったが、一年前に投稿された文章があった。


「最近、人の目を見て話すのが怖い。

みんな、俺を見ていないような気がする。」


三島はスマホを閉じ、暗い部屋の中でしばらく動けなかった。

心の奥がざわついて、息が浅くなっていた。

誰かが見えなくなる感覚――それが、ほんの少しだけ自分にも分かる気がしたのだ。

この数年、自分も誰かに“見られていない”ような時間を生きていた。

透明な水の中に沈んでいくような、静かな孤独。

その感覚が、広長の言葉に重なっていた。


カーテンの隙間から、街灯の光が細く差し込んでいた。

外では誰かの笑い声が聞こえる。だが、その声も遠く感じられた。

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