第2話 面影

 どうして彼に惹かれたのか、自分でもわからない。

 毎日、店に現れるようになって——あんな言葉を残したから。


『瑤子さん、付き合ってくれたら教えますよ』


 これを本気にしたわけじゃない。

 それでも、正直に言えば少しだけ嬉しかった。


 それに……彼を見ていると、弟を思い出す。


 紙カップの蓋を、人差し指で軽く押さえる癖。

 いつも、そうやって飲み物を受け取る。


 あれは、弟・悠人とまったく同じ癖だった。


◇◇


 弟とは、仲が悪いわけではなかった。

 二才下で、小さな事務所で働いていて、夜は友人のバーでバイトしていた。


「手伝ってくれって言うからさ」

「会社にバレたらダメじゃない?」

「そうなったら、その時考えるよ」


 弟は、親しい人間関係を大事にする人だった。


 高校を卒業して、妊娠して結婚した私は、入社してすぐに会社を辞めた。

 だが、流産した。


「そんなことなら、急いで結婚する必要なかった」


 仕事でうまくいかなかった旦那は、それを私のせいにした。


「妊娠したのは、あんたの責任もあるだろうが!」


 弟が、私の代わりに怒ってくれた。


 会えばいつも喧嘩になるし、弟は旦那をよく思ってなかった。

 そして、私はあまり実家に帰らなくなった。


 結局、旦那は勤めた会社を二年で辞めた。

 それからは、お互いに派遣とバイトを繰り返した。


 それでも二人だけなら生活できた。

 そんな旦那を、ますます弟は嫌った。


 私が旦那と離婚すると、弟は何故か、私に対して罪悪感を持った。


「離婚したのが、俺のせいならごめん」


 理由は旦那の浮気なのに。

 たぶん離婚後の私が、苦労しているように見えたのだろう。


「もし生まれ変わったら、悠人が私の恋人になってよ」


 冗談半分で言った言葉だった。

 けれどあれは、孤独の中でつい漏れた本心だったのかもしれない。


 嫌味を返されるのかと思ったら、違った。


「いい女だったらな」


 その笑顔の奥に、身内を思う優しさと、どこか罪の匂いが混ざっていた。


 ── そんな弟も、もういない。


◇◇


 二十二時──


 店が終わり、二軒目のバイトがないので、アパートに向かって歩いていた。


 通りすがりの居酒屋の前で、彼に会った。


「こんばんは」


 彼は迷いもせず、私に声をかけてきた。


「久しぶりね。最近、店に来ないから」


「結衣さんと親しくなったので、もう行くのやめました。よかったら入りません?」


 そう言って、彼は後ろの居酒屋を指差した。


「だって、あなたまだ十代でしょう?」


 私がそう言うと、彼がくすくす笑った。


「もう二十才です」


 言いながら、私の腰に手を回して、強引に店の中まで押し込んだ。


「ちょっと……」


 普通なら抵抗するはずなのに、結衣に対する嫉妬と、彼に弟をダブらせてしまったのもあって、私は結局、流されるように彼に従った。


「奢りますよ」


 彼は、そう耳元で囁いた。

 その声は、甘く、そしてどこか懐かしかった。


◇◇


 居酒屋なんて場所に、何年ぶりで来たのもあって、嬉しいというより、なんだかそわそわした。


 それを察したのか、彼は私を優しくエスコートしてくれた。


「なんか、ホストみたい」


 そう言うと、彼は少し考えながら、意味深な発言をした。


「なかなかクセが抜けないもので。嫌ですか?」

 

「嫌じゃないけど……クセって、夜のお店で働いているの?」


 すると彼は、少し声を落として言った。


「友人の手伝いで、ホストじゃないけどやったことあります。弟の悠人さんと同じですよ」


「……え?」


 心臓が、一瞬止まった。


「あなた、悠人を知ってるの?」

「ええ、まあ」


 彼は、ただ微笑っていた。


「だから瑤子さんのことも知ってます。バイトで忙しいことも、頼れる人がいないことも」


 サラッと核心をつく言葉を投げつける。


「……弟は、あなたにどこまで話したの?」


 すると彼は、その問いを受け流すように静かに言った。


「だから必要になったら頼ってください。できる限りのことはするんで」


 二十才のわりに、落ち着いていて大人に見えた。


 ── え? この人を頼る? ……何で?


 いきなりそんなこと言われても、パニックになるだけだった。


 それでも、相手は七歳も下。

 私は大人の女性を演じた。


「くすっ。気持ちだけ受け取るわ。ダメよ、誰にでもそういう事言ったら。利用されるから」


「いいですよ、瑤子さんに利用されるなら」


 彼は顔を近づけて、どこか真剣な口調で言った。


 嬉しかった。

 弟が彼に、私の何をどう伝えてくれていたのかわからない。

 だけど、思わずときめいてしまった。


 そして、少し考えて言った。


「ありがとう。考えておくわ」


 カラン。

 手に持っていたコップの氷が解けて、鈍い音がした。

 その音が、何故か胸の奥で、いつまでも響いていた。

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