愛のない世界に、愛を想う

第一部 Two lives, one fate.

第一章 奏多

第1話 十九時の客

 いつからだろう。

 彼が、この店に通うようになったのは。


 駅前の、どこにでもあるコーヒーショップ。

 毎日、十九時に来店して、必ずテイクアウトでコーヒーを一杯、買って行く。


 たぶん、学生。

 カジュアルだけど、さりげなくブランドのロゴが入った、高そうな服。


「こんな時間にコーヒー飲んだら、眠れなくならない?」

 レジを打ちながら、彼に聞いた。


「コーヒーは、ついでです」

 微笑みながら、彼は言った。


「ついで?」


 意味はわからなかったけど、とりあえずコーヒーを渡した。


「また来ます、瑤子さん」


 そう言い残して、彼はドアのベルを鳴らした。

 ── あれ? 私、彼に名前……教えたっけ?


◇◇


 古いアパート。バツイチ、子なし。


 二年前、弟が交通事故で亡くなった。

 バイトへ行く途中、ハンドル操作を誤った車に巻き込まれた。


 それからすぐに、母も逝った。

 母子家庭で、弟の死を引きずったまま倒れた。


 葬式をふたつ出したあと、残ったのは静かな部屋だけ。

 考えると落ち込むけど、そんな時間も体力もない。


 二十二時。店を閉めて、制服を着替える。

 そして、孤独から逃れるように、次のバイト先へ向かう。


◇◇


「コーヒーください」


 翌日も、彼は同じ時間に現れた。

 カップを準備しながら、私は聞いた。


「なんで私の名前、知ってるの?」


 彼は、微笑みながら言った。

「教えたら、デートしてくれます?」


 すごく誘い慣れた口調だった。


「からかわないで。ちゃんと教えて」


 コーヒーを差し出すと、彼は受け取りながら言った。


「デートしてくれたら教えます」


 そして、ドアのベルが鳴り、湯気だけがその場に残った。


◇◇


「彼に何か言われました?」


 同じアルバイトの結衣が、レジの片隅で聞いてきた。

 彼に気があるらしい。


「結衣ちゃん、彼に私の名前教えた?」


 彼女は驚いて、手を横に振った。


「教えてませんよ。彼と、あまり話したことないです。

 だって彼、いつも瑤子さんが立ってる時に来るじゃないですか」


 ── そういえば、そうだ。


 スタッフは二人。カウンターに立つのは一人。

 結衣はほとんど裏にいるから、彼と会うのは大体、私。


「明日の十九時、私がカウンター立ってもいいですか?」


 結衣が、少し期待を込めて言う。


「彼に会いたいの? いいよ。その時間、私が裏に行くわ」


 そう言うと、結衣が頬を赤くして喜んでいた。

 少しだけ、微笑ましかった。


◇◇


 翌日──


「あれ、瑤子さんは?」

 彼が来て、結衣に聞いた。


「今だけ場所、交代しました。いつものコーヒーですよね?」

「うん」


 ふたりの声が、店の裏まで聞こえてくる。

 くすっと笑いながらも、少し羨ましい。


◇◇


 カラーン。

 店のベルが鳴った。彼が帰った音だ。


 カウンターに行くと、結衣が何だかそわそわしていた。


「明日、奏多さんと飲みに行く約束しました」


 結衣は、頬を赤らめながら言った。

 そして私は── 彼の名前を初めて知った。


 結衣の言葉を聞いて、胸の奥が、じんと痛んだ。

 まるで、彼を取られたみたいで──


 自分でもおかしかった。

 おかしいほど、寂しくなった。


◇◇


 翌々日。


 結衣がバイトに来た。

 そして、笑顔で話し始めた。


「奏多さんに会って来ました。近くの大学二年生で……」


 嬉しそうに話をする彼女の顔を見て、微笑ましいような羨ましいような、複雑な気持ちになった。


「二年生? まだ十九か二十才ってこと?」

「そうなりますね。また会ってくれるって」


 とても二十七才の私に興味あるはずがない。

 わかっているけど、どうしようもなく寂しくなった。


「彼、来ませんよ?」

「え? そうなの?」

「徹夜でやりたいことが終わったから、今日から早く寝るそうです」


 ── つまり、コーヒーがいらなくなった。


「そうなんだ」

「私は連絡先交換したから、会えるけど……」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが沈んだ。


 結衣の笑顔が、遠く見えた。

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