最終話

 翌朝宇田川は、いつも通り出勤した。

 何の変化も見せず、いつも通りの作業に没頭した。

 お昼休憩になり、宇田川はロッカー室へ向かった。ロッカー室の中には見かけない顔の、おそらく宇田川が地下室に篭っている間に入って来たニューフェイスであろう若者が数人いたが、宇田川は気にせず中に入った。

 一応宇田川のロッカーも、まだここにあったからだ。

 若いのがいなくなるまで宇田川は自身のロッカーを整理する振りをして、ゴソゴソやっていたが、全員が出払った途端自分のロッカーキーではない鍵を取り出した。

 会社に保管してあるマスターキーからコッソリ型を取り、自作した専務のロッカーキーだ。

 鍵を開けるのに三秒と掛からない。

 用意しておいた軍手を素早く嵌め、開けたロッカーの中に血の付いた手袋とナイフを放り込み、素早く施錠した。全部の作業は十秒も掛からなかった。

 外した軍手を宇田川自身のロッカーへ放り込んで施錠し、すぐさまロッカー室を出た。

 宇田川はなるべく早足で先ほどのニューフェイスに追いつくよう歩いた。

 気付かれないよう距離を詰めて、粗い息遣いに気付かれないようなるべく息を殺して同じエレベーターに乗り込んだ。

 ニューフェイスは食堂のある二階で降りて行ったが、宇田川は地下室まで乗っていた。

 これでもし自分が疑われるような事になったとしても、あの短時間で『キーなど持たない宇田川が』ロッカーを開けて凶器を放り込む芸当など出来るはずがないという証言が得られるはずだ。

 宇田川はエレベーターを降りると、ゆっくりとした足取りで地下室へ戻った。





 翌日の朝、犬を散歩させにあの公園を訪れた老婆が、和美の遺体を発見したのだというニュースが流れた。

 和美とまだ完全に縁が切れていない宇田川のところへドヤドヤと警察が押し掛けて来た。

 一通りのアリバイは聞かれたが、宇田川は澱みなく答えた。

  

「ああ、あの雪の酷い日ですか?ええ、確かに和美と…妻と会いましたよ。離婚届を渡す為に。いや、私はずっと…離婚したくはなかったんです。それでずっとズルズルと…。でも何故かね、あの日…あの大雪の日は、妻の為にも別れてやらなければ…って何故か決心が付いたんですよ。気が変わらないうちに妻に連絡したら、やっぱり妻も気が変わらないウチに会って渡して欲しいと言いましてね。駅前まで出向きました。そして妻にその離婚届を渡して、そのまま別れました。それが…あんな事になるなんて……。私があの日に決心したばっかりに…私が駅前になんか呼び出したばっかりに…ううっ…妻をちゃんと家まで送り届けるべきでした…ううっ…和美が死んだのは私のせいです…ううっうっ…」


「まぁまぁ、ご主人…気を強く持って…。ちなみにご主人、その駅まではどのように?」


「うっ…うっ…。あの日は豪雪の為、電車が運休になってしまったので…うっ…何とかタクシーを拾いまして…帰りはもうタクシーも拾えなかったので、仕方なく歩いていましたら、親切な方が声を掛けてくださって…何とか乗せてもらって自宅付近まで辿り着きました…。」


「タクシーの会社は覚えていらっしゃいますか?」


「いえ…和美に…あ、いや、妻に会う事で頭がいっぱいでしたので…」


「お帰りの際乗せて貰った…とおっしゃいましたが、どなたに?」


「さあ…どこかの通りすがりの方で…」


「車種とか車の色とかは…」


「妻に会って酷く動揺してたこともあり…何せあの日は凄い雪だったでしょう?車に雪が積もってましたし視界も良くなかったので正確には…」


「…そうですか。ありがとうございました。ではまだ伺う事があるかも知れませんが、我々はこれで…。」


「あっ、あの…和美を…妻を殺した犯人、絶対捕まえてくださいね。お願いします。雪の日に…あんな寒い日に殺されるなんて…妻が可哀想で可哀想で…ううっ…。」


「ご主人…我々もこれから色々調べて犯人を突き止めて行きますので…」


「よろしく…お願いします…ううっ…」


 ダンゴムシのように丸まって泣き崩れる宇田川に、「ご主人、お気を確かに…」と気の毒そうな目線を寄越しつつ、刑事達は引き上げて行った。



 地下の総務室に戻り、宇田川はため息を吐いた。

 頑張って、あの証拠を専務より早く見付けてくれよな、刑事さん。

 あいつは普段ロッカーなんて使いやしないからまぁそんな心配も要らないとは思うがな。

 和美の近隣住民は、専務と和美の頻繁な喧嘩を見聞きしたとちゃんと証言してくれることだろうし、専務に疑いが向くのは時間の問題だ。

 あの日俺は時間よりも二時間早めに着いている。それはタクシーの運転手が証言するだろう。離婚届を渡して帰るだけに、死亡推定時刻まで…そんなに長居するのは不自然だと思ってもらえるはずだ。加えてあの寒さだ。正確な死亡時間が割り出せるとも思えない。

 徒歩での帰りも、何度となく通ったあの道の防犯カメラの位置は調べ尽くしてあった。防犯カメラに顔が映るようなヘマはしていない。顔を覚えられるようなタクシーなど以ての外だ。行きずりの車に…なんて調べもつかないだろう。

 それに俺は手袋の下に更にビニール手袋を嵌めていた。だがそれはもう焼き捨ててある。その辺で拾った傘も、課長を脅した時に納屋に転がっていたナイフも手袋越しにしか触れていない。そこからアシがつくはずもない。俺の着けた足跡も雪で埋もれてしまっただろう。

 俺が殺った証拠はない。復縁を望んでいた俺に殺人の動機などあろうはずもない。専務のロッカーキーも既にバーナーで溶かしてしまって影も形もない。ロッカーキーのない俺に、証拠品をあの短時間で放り込むのは無理であることは、ニューフェイスが証言してくれるだろう。

 あとはボロが出ないよう、妻を殺された可哀想な冴えない主人を演じるだけだ。専務と和美との関係も、たった今知らされましたとショックを受けた顔をして驚いて見せればいいだろう。


 刑事さん方、あとはよろしく頼んだよ。







 それから何日かは刑事が数人訪ねて来たが、憔悴した可哀想な夫を演じ続け…食事も碌に摂れず過労で倒れるという芸当もやって見せ…疑いはますます専務に向いたらしい。

 あと、もう少し。もう少しで長い長い俺の復讐が終わる。もう少しだ。




…ちりん…ちりん………ちりん…


 窓の外で木枯らしに吹かれた風鈴が、寒空に歌っていた。




 数日後、専務が逮捕された。

 頻繁に起こる喧嘩・血の付いた凶器の所持・当日のアリバイが無いこと等が逮捕へ繋がったと聞かされた。

宇田川は『笑いを禁じ得ない』とはこういうことかと思ったが、まだだ。まだ、笑うのは早い。ちゃんと俺の罪を被って裁かれてもらわないと。


 ずっと俺をバカにし続けたようだが、これからのお前に自由などあるはずがない。何故なら俺がお前のパソコンに侵入し、横領の罪もちゃんとオマケしてやったからな。お前が入社してからずっと、長きに渡って会社の金を横領し続けたように、親切にも改ざんしてやったんだ。もともとあった横領の事実に、俺がちょっと味付けしてやっただけだ。不自然なことは何も無い。金の所在を問われても、どこからともなく出てくるだろう。上手く行けば横領が俺にバレた為に俺を地下室に遠ざけた…と読んでくれるかも知れない。

 タップリとムショ生活を楽しんで欲しい。ああ、量刑が重くなるように、ちゃんと金額も増やしてあげている。抜かりはないさ。俺は数字に強いからな。もう二度と、ゼロの数を間違えることは無い。あの日のことは、本当に今の俺にとっていい教訓になったよ。

さぁ。俺の長年の…積年の恨みを…ずっと舐めさせられた辛酸を、思う存分味わって欲しい。



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