クロノ・レコード ──特別対策室捜査譚2──
八重森 るな
プロローグ
「幸福って、なんでしょうね?」
テレビの中で、誰かがそう問いかけていた。
薄暗い六畳の部屋。ストーブの赤い光が、老いた男の頬を照らす。
「日本国憲法には、幸福追求権という言葉がありますね」
と識者が言う。咳払いをひとつ。
「『生命、自由および幸福追求に対する権利』──つまり、自分で生き方を決めること、それが『幸福』だと」
「じゃあ、『欲望のままに生きる』っていうのも、幸福ですか?」
明るい声が返る。バラエティ慣れした女性タレントの声。
識者は眼鏡を直して、少し笑う。
「ええ、人間は欲望がなければ生きていけません。
食べたい、誰かといたい、認められたい──それを失えば、生きがいを失う」
一拍置いてから、低く言葉を落とした。
「……それが、うつ病です」
テレビの光が、部屋の壁を青く染めていた。
男は黙って湯呑を持ち上げる。
湯は冷めていた。
「難しいんですね」
「ただ与えられてるだけじゃ、幸福にはなれません」
「なる人も、いますけどね」
カチ、とリモコンの音がして、テレビが闇に沈む。
しわだらけの手の甲に、蛍光灯の光が滲む。
「幸福か……」
その言葉を、誰にともなくつぶやいて、男は布団にもぐりこんだ。
夜は静かに、雪のように降り積もっていく。
名前は、長岡泰。
85歳。
明日もまた、目が覚めるだろうかと思いながら、布団に入った。
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