氷刃公の回想

氷は、傷を隠すには都合がよい。

痛みを凍らせてしまえば、感じずに済む。

アザル公爵家に生まれた者は、幼少よりそう教え込まれる。


私はそれを疑ったことがなかった。

理性こそがこの国を支え、感情は秩序を乱す。

氷刃公ひょうじんこう――。

その名に誇りを覚えたことはない。

ただ、己の在り方を映すには、皮肉なほど的確だと思った


若くして家督を継ぎ、領地の経営と魔物の討伐に明け暮れる日々だった。

まだ甘さの残る私を欺き、領地を奪おうとする者もいた。

信じた者に裏切られる。その繰り返しが、気づけば心までも凍らせていた。


政務に追われるなかで、婚姻の打診もいくつか受けたが、誰の名も心に響くことはなかった。

幼き日には、無垢な心で好いた少女もいたが、それも遠い昔の話だ。

貴族令嬢の誰かに心を寄せるなど、あり得ぬことだと――そう信じていた。


けれど、あの日。

薄紫の髪を持つあの娘――アリアがこの屋敷に来た時から、

長いあいだ沈黙していた心の奥底が、かすかに軋んだ。


最初は、皇家から押し付けられた厄介な存在だと思っていた。

まさか皇帝陛下が――髪の色が「適合する」という理由だけで、

血のつながりもない娘を、この公爵家に送り込んでくるとは。


その娘は、黒塗りの馬車に揺られて邸へとやって来た。

到着するや否や倒れたと聞き、さすがに肝を冷やしたが、

皇家への憤りが勝り、つい強い口調で言葉を投げてしまった。

それでも、どこか懐かしい光を宿したその瞳が――

私の氷を、まるで見透かすように揺れていた。


彼女は恐れながらも私の名を呼び、

礼を失してもなお、私の体を気遣う言葉をくれる。

彼女の言葉はなぜか――私の心に触れた。


そして、お茶会の場。

刃が閃いた瞬間、私の前へ飛び込んできたのは、他ならぬ彼女だった。


細い肩が震え、紅茶の香りは血の匂いへと変わった。

腕の中に抱きとめた時、その軽さに息を呑む。

この身体で、私を庇おうとしたのか。


「無事で良かった」と微笑む、その顔を見た瞬間――

胸の奥で、長く動かなかった何かが小さくきしんだ。


……もう、この心を、氷で覆い隠すことはできない。


氷刃公であることを誇りにしてきたはずの私が、

今はただ、あの光を護りたいと願っている。

それは義務ではなく、ただの本能のように――


――アリア。

その名を呼ぶ旅、この胸の冷たさは少しずつ和らぐ。

どうか、もう少しだけ、その光を失わぬように。

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