セッターの視界と、影を持つライダー

教習所の孤独

梅雨が明け、夏休みに入ると同時に、雫は教習所通いを始めた。


 母親との契約で許された夏休みという限られた期間内に免許を取得しなければならないプレッシャーは重かった。


 しかも、取得を目指すのは中型自動二輪免許。教習費用も高く、実技時間も長い。


教習所のコースは、雫にとって、かつてのバレーコートに似ていた。


周囲の確認、速度の維持、パイロンへの正確なライン取り――全てが精密な判断を要求される。


 雫は、セッター時代に培った瞬間的な状況把握能力と完璧なラインを予測する集中力を、全てバイクの運転に注ぎ込んだ。


「星野さん、どうしてそんなに急いでいるんだ? もっと楽しめばいいのに」


 教官はそう言って苦笑いした。


他の高校生たちは、友達と連れだって教習に来て、終始楽しそうに騒いでいた。


しかし、雫は常に一人だった。


 彼女はバイクの免許を、友人との繋がりや娯楽としてではなく、自分の人生を取り戻すための「切符」として捉えていたからだ。


(天の声・中型も限定解除も試験場で学科試験受けて合格してのからの実技試験も一発試験を受けて取得したから教習所での内容知らんし費用は安くすんだし無免で乗り回してたら慣れてたな無免で検挙されたのは今は笑い話)




朝倉蓮という影

 そんな教習所の日々で、雫は一人の男子生徒と視線を交わすようになる。


彼の名は、朝倉 蓮(あさくら れん)。同じ高校の二年生だ。


 蓮は雫と対照的に、いつも独りでいるが、その雰囲気には人を寄せ付けない鋭い影があった。


 彼は常に静かで、教習車(中型バイク)のエンジン音以外、彼の声が聞こえることはほとんどない。


しかし、ひとたびバイクに跨ると、その姿勢と集中力は、雫と同じ、あるいはそれ以上のものがあった。彼の運転は完璧な模範走行のようで、雫は思わず見惚れた。


 彼もまた、バイクに乗る時だけ、外界との関わりを断ち切っているようだった。


ある日、


 休憩中に雫がパイロンの配置図を熱心に眺めていると、蓮が静かに隣に立った。


「セッターだったんだってな」


蓮の唐突な一言に、雫は驚いて顔を上げた。


「……どうして知ってるの?」


「お前の目の動き。コートを全体を見渡す目だ。獲物を狙う鷹みたいで、ちょっと怖い」


蓮はそう言うと、自嘲するように口元を歪めた。


「俺は、お前がトスを上げる理由を知りたい。お前は、誰かに頼まれたわけじゃなく、自らこの面倒くさいバイクを選んだ。なんでだ?」


 雫は戸惑ったが、すぐに真剣な目になった。


「誰かのためじゃない。私自身が、どこまで行けるかを知りたいから。あと、私は、人を信じるセッターの目が、バイクの道の先を見据えるライダーの目に似ていると思う」


 蓮は、雫の答えに一瞬、目を見開いた。そして、少しだけその影が薄くなったように見えた。


「そうか。俺は……どこにも行けないから、バイクに乗っている」


 蓮はそれ以上語らず、自分のヘルメットを持って立ち去った。蓮がバイクに乗る、切ない理由と深い影。それは、韓国ヒューマンドラマ的な切なさの始まりだった。


リベロ号と初めての逸脱

夏の終わり、雫は試験に合格した。母親との約束を守り、成績も落とさず、免許を取得


 颯太が教えてくれた中古車サイトで、人気のない少し年式の古い250ccネイキッドを見つけ、残りの資金で購入した。


颯太は「燃費も良くて頑丈だ。人気がない分、状態の割に安かった。良い買い物だ」と言った。


雫は、その黒くて落ち着いたバイクに、「リベロ号」と名前をつけた。


初めてのリベロ号での週末。


 母親に「隣町の図書館まで」と偽り、雫は一人、高速道路の入り口を目指した。


 母親との「契約」を早速破る、小さな反逆だった。


料金所をくぐり、一気に加速するリベロ号 風がヘルメットを叩き、全身でエンジンの振動を感じる。


 制限速度を超えないように慎重に速度を上げても、その開放感は中学時代のバレーボールの勝利の瞬間をも超えていた。


(これだ。この視界だ!)


 視界の端を流れる風景は、いつもの日常とは全く違う。


景色が、音速でアップデートされていく。


 サービスエリアで飲む缶コーヒーの味は、バイト先のファミレスのそれとは比べ物にならないほど甘く、そして苦かった。


 雫はそこで、ローカルグルメの「豚丼」を堪能し、その地味だが確かな喜びをスマートフォンで写真に収めた。


この写真が、


 彼女の「誰にも見せない自由の証」となっていく。


4. 蓮からの誘いと秘密のツーリング

数日後


 雫は駐輪場でリベロ号を磨いている蓮に会った。


 彼のバイクもまた、カスタムされた古い250ccのマイナー車だった。


「お前のリベロ号、いいな。派手じゃなくて、お前に似合ってる」


蓮は静かにそう言った。


「蓮こそ。そのバイク、見たことない」


「乗っている奴は少ない。だからいいんだ。誰にも邪魔されない」


蓮は唐突に、雫に告げた。


「今度の日曜、隣の隣の県まで行かないか? 高速を使う。あそこに、誰にも教えたくない絶景と、美味いローカルなラーメンがある」


「隣の隣の県?」


それは、


 母親との契約の「遠方への移動は事前に連絡」を完全に破る、危険な提案だった。


 日帰りで往復400kmは、高校生にとって体力も資金も危険な挑戦だ。


蓮は雫の躊躇を見抜き、静かに言った。


「来なくていい。だけど、お前のトスは、本当に安全な場所にしか上がらないトスなのか?」


 蓮の言葉は、雫のセッターとしての魂を揺さぶった。セッターは、時に危険な場所へも、勝利のためにトスを上げる勇気が必要だ。


 雫は、蓮の目を見つめ返した。その瞳の奥には、彼女と同じように、日常からの逃避と、自分自身の存在価値を探す切ない渇望が宿っていた。


「行く。ただし、絶対に誰にも知られないこと。そして、もし何かあったら、二人で責任を取ること」


 二人の孤独なライダーは、校則と親の制約を破る、秘密のツーリングを決行する約束を交わした。


 それは、互いの魂に、最初で最後のトスを託し合うような、切なくも危険な約束だった。


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