セッターの隣の風景
比絽斗
孤独なセッターと250㏄の誓い
燃え尽きたトス
高校に入学したばかりの4月、
星野雫の周囲は春特有の浮ついた熱気に包まれていた。
真新しい制服、SNSで話題のカフェ、そして誰もが口にする「恋バナ」
だが、雫にとって、この熱気は遠い世界の出来事だった。彼女の視線は常に冷めていた。
雫は中学時代
バレーボール部のセッターとして、県大会出場に貢献した。
彼女のトスは精密で、チームメイトの最高打点を正確に捉える。
そのクールでストイックな姿は、特に同性の部員や後輩から熱烈な視線を集めていた。彼女はチームの司令塔であり、精神的な柱だった。
しかし、引退後、彼女は急に目標を失った。
(私は、もう誰のためにトスを上げればいいんだろう?)
引退後の喪失感は、想像以上に大きかった。
ボールに触れない手のひらが虚しく、毎日が灰色に感じられた。友人たちが流行のリップの色で悩む中、雫は、自分自身の魂の熱量をどこに向けるべきか、その出口を探しあぐねていた。
「雫ってさ、高校入ってから笑わなくなったよね」
幼馴染の美咲が、心配そうにそう言った。
美咲は、中学時代からずっと雫の良き理解者であり、バレーコートで輝く雫の姿に憧れていた。
「別に。笑う理由がないだけ」
「理由?」
「うん。セッターは、トスを上げる理由が明確じゃないと、最高のボールは上げられないから」
従兄弟の鉄馬と、自由の誘惑
そんな雫の日常に、一筋の光を差し込んだのが、大学生の従兄弟、健太(けんた)だった。
ゴールデンウィークの親戚の集まりに、颯太は錆びついたような黒いバイクに乗って現れた。
その無骨で古風なスタイルに、雫は目を奪われた。
「なんだ、そのボロいバイク」
「ボロいって言うなよ。こいつは相棒だ。中古の250cc。車検がないから維持が楽でな」
颯太はヘルメットを脱ぎ、笑った。彼は旅の話を始めた。日帰りで高速道路を走り、遠くのサービスエリアで海鮮丼を食べた話。誰も知らない山奥の絶景を、夜明けに独り占めした話。
「高速に乗れる250cc以上だと、日帰りでも行動範囲が格段に広がるんだ。遠くに行かなくても、日常の風景がアップデートされる。誰にも邪魔されない、お前だけの視界が手に入る」
その言葉が、雫の心臓に響いた。
(誰にも邪魔されない、私だけの視界…!)
かつてセッターとして、コート全体を把握し、一瞬で最高のトスコースを導き出すことに全てを賭けていた雫の集中力が、今度はバイクのハンドルと道の先に向けられた。
彼女にとって、バイクは、チームメイトの最高打点に合わせる義務も、仲間の期待に応える責任もない、「自分だけのトス」を上げるための自由な手段に思えた。
目標が決まった。
中型自動二輪免許を取得し、250ccのバイクを手に入れる。
過酷なバイトと母の契約書
目標金額は約60万円。教習所の費用、中古の車体代、任意保険代、ヘルメットや装備代を合わせた、高校生には途方もない金額だった。
雫はすぐにバイトを探し、掛け持ちを始めた。
放課後はファミレスのホールで動き回り、週末はコンビニの深夜シフトに入った。
指先は荒れ、制服の下には疲労でできた青アザが絶えなかった。
友人たちが
「カラオケ行こう」
「新作コスメ見に行こう」と誘ってきても、
彼女は常に「シフトがあるから」と断り続けた。
美咲は寂しそうに言った。
「雫、バイクってそんなに大事? 私たちとの時間が、そんなにどうでもいい?」
「どうでもよくない。でも、自分で決めた目標が、今の私には一番大事なんだ」
そんなある日、深夜バイトを終えて疲労困憊で帰宅した雫を、母親が厳しい顔で待ち構えていた。母親は、雫の貯金通帳の残高を見て、事態を把握していた。
「バイクなんて、絶対に許しません」
母親の反対は猛烈だった。
「危ない」
「女子高生が乗るものじゃない」「学業がおろそかになる」
しかし、雫は譲らなかった。
汗と油にまみれたバイト代の束をテーブルに叩きつけた。
「これは、私が自分で稼いだお金です。誰にも迷惑をかけてない。私は、自分の意志で決めたことに責任を持ちたいだけです」
最終的に、雫の頑なな決意と、お金を自力で稼いだ事実は、親を折れさせたが…!
母親は雫に一枚の「契約書」を突きつけた。
【星野雫 バイク所有の条件】
①学業成績の維持(平均点以下は即時没収)
乗車は週末と長期休暇のみ。
②夜間走行は禁止。
③高速道路を含む遠方へ行く際は、必ず事前に連絡し、GPS共有をすること。
④車体費用の一部(20万円)は親が補助するが、残りの費用と維持費は全て自己負担とすること。
⑤通学での使用は厳禁。
雫は、その厳しい制約を突きつけられた契約書に、迷うことなくサインをした。
それは、自由を手に入れるための、孤独なセッターが自分自身と交わした、最初のトスだった。
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