第2話 調和が崩れる時
あれからしばらく経ち、時代は静かに、しかし決定的に変わり始めていた。
マルコの居室から見える街の灯りが、遠くで瞬いていた。あの夜、ルカが頭を下げた瞬間から、二人の間に流れる時間は急流のように速くなった。マルコは約束通り、彼の持つ全てをルカに注いだ。
もはやルカは単なる弟子ではなかった。ルカは、マルコが長年かけて築き上げたルネサンスの厳格な和声の城壁に、新しい情熱の風穴を開ける相棒コンパーニョだった。
「音を紡ぐのにも作法がある、ルカ」
マルコがそう言って、リュートの弦を弾く。彼の指は、まるで古い石造りの彫刻のように、正確で揺るぎない。奏でられる音は澄み切っていて、どの旋律も他の旋律とぶつからず、完璧な調和の中に収まっていた。
「これが理ことわりだ。神に捧げる音とは、個人の感情の爆発ではない。全てが等しく美しく、交わることのない真理の光だ」
ルカはマルコの教えに心酔したが、すべてを受け入れたわけではない。彼の胸の内には、もっと泥臭く、もっと生々しい「人間」の感情を叫ばせたいという欲求が渦巻いていた。
マルコのリュートの音は、ルカにとって**「磨き上げられた石像」**のようだった。完璧で、冷たく、永遠に崩れることがない美しさ。しかし、ある日、マルコの居室を辞して街の路地裏を歩いていたルカの耳に、一つの音が飛び込んできた。
それは、ヴァイオリンの音だった。
「理性を持たない獣の叫び」。弓が弦を激しくこすり、きしむような高い音は、貴族の館で聞く静謐なヴィオール(ヴィオラ・ダ・ガンバ)とはまるで違う。それは、人間にしか出せない剥き出しの嘆きであり、同時に酔いどれの歓喜にも似ていた。その**「うるさい」音**の粗野さこそが、ルカの庶民的な背景と魂に強く響いた。
「でも、マルコさん」
ルカは傍らに置いてある、父から誕生日にもらった古びたヴァイオリンのケースを撫でた。それは、場末の喧騒を知る、彼の庶民的な魂が宿る楽器だった。
「僕が本当に弾きたいのは、あれ(ヴァイオリン)です。人の声のように、激しく鳴る。あの音は、街の喧騒や、僕たちの怒りや喜びの全てを包み込める気がする」
「泣くことを求めるのは、世俗の劇場だけで十分だ」
マルコは軽く首を振る。
「あれは粗野だ。教会に持ち込める品位はない。君の魂の叫びは理解するが、その道具は場末の酒場で踊るためのものだ」
「教会は、魂を静寂に導く場所だ。君のいう感情の叫びは、**デコールム(品位)**を欠く」
「デコールムですか」
ルカは苛立ちを隠さなかった。「僕たちの人生は、いつも美しく調和しているわけじゃない。裏切りがあり、貧しさがあり、叫びがある。その全てを音にしなければ、神様にも僕たち自身の魂にも届かない!」
二人の音楽は、ルカの自由な旋律と、マルコの緻密な構成力が交わることで、誰も聞いたことのない響きを生み出し始めていた。その中で二人は、「いつか共に一つの曲を作る」という、友情の証としての約束を交わした。それは、古い時代と新しい時代が手を組むことを象徴する、秘められた誓いだった。
しかし、二人の間に立ち込める霧は、日々の喧騒と共に濃くなっていった。
時代は、彼らの議論を待ってはくれなかった。
フィレンツェの空気を変えたのは、教会の手のひら返しだった。かつて「品位がない」と渋っていたはずのカトリック教会が、ルカのような若き作曲家が生み出す、感情に直接訴えかける新しい音楽を全面的に推し始めたのだ。
「ルカのカンタータは、まさに奇跡だ!」
「あの感情の波!信者の涙腺を刺激し、信仰心を呼び覚ます!これこそ、プロテスタントに対抗するための強力な武器だ!」
ルカの名は、若き革新者として街に広まった。彼の音楽は、人々が抱える抑圧された感情を解放する力を持っていた。聖歌隊の練習にも、彼の新しい旋律が採用され始めた。それはルカにとって、最高の栄誉だった。
初めての共作について話すため、ルカがマルコの居室を訪れた日のことだった。ルカは興奮に頬を染めていた。
「聞いてください、マルコさん!大司教様が僕に大きな曲の依頼をくださったんです!新しい様式で、思いっきり感情を爆発させていいと!」
マルコは窓辺でリュートの手入れをしていたが、その手が止まった。
「……よかったな、ルカ」
その声は、蝋燭の炎のように微かだった。ルカはマルコの変化に気づかなかった。
マルコはゆっくりと振り返り、冷たい目でルカを見た。
「私に教わった理性を、君の世俗的な情熱の引き立て役にしろと?教会に背を向けていたお前が、今や教会の英雄か。時代の風に乗って、新しいものを生み出すのは結構だ。だが、古いものを蔑ろにしていい道理はない!」
マルコの言葉は、彼の奥底に潜んでいた嫉妬と、自らが信じた美学を時代に否定された屈辱に満ちていた。
「僕は蔑ろになんかしていません!けれど、あなたは変わることを拒んでいる!自分の城に閉じこもって、新しい時代を嘲笑っているだけだ!」
「私の城だと?この秩序こそが、何百年も神の言葉を守ってきた品位だ!君の新しい音は、ただの気まぐれな流行だ。一時の快楽を求め、すぐに消える泡のようなものだ!」
「君の新しい音は、ただの気まぐれな流行だ。品位を欠くその音は、あの粗野なヴァイオリンのように、すぐに忘れ去られる!」
ルカの瞳が激しく燃えた。
「ヴァイオリンは人の心臓の音だ!あなたは恐れているんだ、マルコさん。あなたのリュートの調和が、ヴァイオリンのたった一つの情熱の旋律に負けることを!」
その言葉が、マルコの心臓を抉った。激しい怒りが、マルコの静寂を打ち破った。
「出て行け、ルカ!」
マルコはそう叫び、壁に立てかけてあったリュートを掴んだ。楽器は彼の長年の相棒であり、美学そのものだった。それを握りしめるマルコの姿は、古い時代の権威そのものだった。
ルカはマルコの剣幕に、初めて恐怖を覚えた。彼の瞳は、かつて広場で喧嘩をした時と同じ、悔しさと怒り、そして悲しみで赤く燃えていた。
「わかったよ。さようなら、マルコさん」
ルカはそう言って、未完成の譜面も、古びたヴァイオリンケースも手に取らず、激しく扉を閉めて教会の外へ飛び出した。
外は、土砂降りの雨だった。
二人の友情は、雨の夜の口論と共に、激しく崩れ去った。理性と情熱。秩序と自由。ルカは教会を、マルコは居室を、それぞれが信じる孤立の城とした。
⸻
数日後のことだった。
マルコはルカが出て行ってから、一度もリュートに触れていなかった。埃が薄く積もった机の上に、ルカが残していった未完成の譜面があった。大司教から依頼された、新しいバロック様式での曲の断片だ。
マルコはそれを無意識に広げた。五線譜の最初には、ルカらしい、感情の起伏に富んだ激しい旋律が書き込まれていた。しかし、その旋律を支えるために書き込まれた和声の構造は、マルコが口を酸っぱくして教えたルネサンスの厳格な対位法に基づいていた。
マルコの目が、その和声構造を追う。それは、ルカが自分の教えをただ捨て去ったのではなく、受け入れ、そして昇華させた証拠だった。ルカは、彼自身の言葉通り、自分の音をただの騒音にはしていなかった。
「……馬鹿な子だ」
マルコは震える手で、壁に掛けてあったリュートを取った。弦を弾く。彼の指は、もうルカを拒絶した時の硬さではなかった。譜面に書かれた旋律を、彼は和音でゆっくりと追い始めた。
リュートの澄んだ音色が、マルコの居室を静かに満たす。それは理性と技術に裏打ちされた、古い時代の美しさだった。
突然、音色が二重になった。
マルコがハッと顔を上げる。扉の向こう、教会の礼拝堂の隅から、もう一つの弦楽器の音が重なってきた。ヴァイオリンだった。
それは、マルコがリュートで奏でる和声の隙間を縫うように、激しく、しかしどこか不安げに、ルカの旋律を奏でていた。
言葉も謝罪もない。ルカは扉を開けず、マルコも居室から出なかった。ただ、音だけが、二人の間に交わされていた。
マルコはリュートの和声の厚みを増した。ルカの旋律が迷いなく高揚し、そのヴァイオリンの音色には、もはや以前の荒々しさだけでなく、マルコから学んだ優雅さが加わっていた。
二人は、未完成の曲を音だけで弾き切った。
最後の音の残響が消えると、礼拝堂も居室も静寂に包まれた。
マルコは立ち上がり、扉を開けた。ルカが、そこに立っていた。瞳にはもう怒りはなく、ただ疲労と、音楽への渇望だけがあった。彼の傍らには、古びたヴァイオリンケースが置かれていた。
マルコは何も言わず、ルカを迎え入れた。ルカもまた、何も言わなかった。二人は再び、机に広げた譜面の前に座る。
蝋燭の炎が、二人の間に揺れる。古い時代の音楽家と、新しい時代の若者の影が、静かに重なる。
マルコは静かに呟いた。
「時代は変わる。新しい音は、いつも古い音を踏み越えて生まれる。だが、音が人を繋ぐことだけは変わらない」
ルカは頷き、震える手で譜面の余白に新たな音符を書き加えた。
「だから、僕たちはまだ同じ音を探しているんだな。どちらの時代にも属さない、僕たちだけの音を」
マルコは微笑み、その手つきを見つめた。
それは、歳月が邪魔をすることを許さなかった、二人の友情の和音だった。
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