歳月が邪魔をしない日

白瀬 柊

第1話 出会いと旋律

ルカが初めて音楽に心を奪われたのは、幼い日のミサのことだった。朝の光がステンドグラスをとおり、薄い色の斑点が石の床に散る。聖歌隊の声は祈りと同じ速さで身体を満たし、幼いルカの胸の奥にぽっかりと空いていた穴を確かにふさいだ。音はただ鳴るのではなく、呼吸のように人に寄り添い、彼の内部で静かに震えを起こした。あのときから、彼の望みは明確だった。音で何かを伝えたい、音で自分を満たしたい――作曲家になろう、と。


ルカの家は街外れにあった。父は露天商、母は洗濯婦。豪奢ではないが暖かい家庭だった。だが、貴族に愛されるような後ろ盾はない。彼の才能は目に見えていた――旋律を覚える速さ、和声の耳の鋭さ、声の伸び。しかし、才能だけでは運命は変わらなかった。やがて彼は近くの小さな教会の聖歌隊に加わり、日々の糧と音楽に触れる場所を得る。だが聖歌隊の音は、彼が心に描いていたものとは違った。教会の音楽は祈りを支えるための形を守ることに重心があり、個の感情を露わにすることを好まなかった。ルカは次第にやるせない気持ちを胸に募らせていった。


その教会に、マルコは雇われていた。マルコはかつて宮廷で名を馳せたリュート奏者だった。かつての栄光は今や影を落とし、貴族の不興を買ってこの小さな教会に追いやられていた。ひとたび鳴った噂は遠くまで届く。だが彼の腕は失われてはいなかった。指の動きは洗練され、和声に対する理解は深く、古い様式のなかにこそ彼の美学が宿っている。


ルカは初対面でマルコの技巧に驚いたが、その古めかしさを嘲る気持ちも持っていた。ルネサンスの古い形式は、彼にとって時代遅れに見えた。個の心情を浮き立たせる新しい音が生まれつつあると感じていたからだ。マルコは逆に、若者の軽率な情熱を疎ましく思った。ひと晩で全てを極めようとする者に、長年の研鑽で積み上げられた技術を見せつけることは無意味に思えた。


それでも、二人は同じ旋律を追っていた。「魂を震わせる音楽を作りたい」――その一点だけは、一致していたのだ。


ある休日の夕暮れ、マルコはいつもの散歩路を少し外れて歩いていた。街外れの広場に差し掛かったとき、聞き覚えのあるざわめきが耳に入った。声の輪――子供たちが囲んで何かを言い合っている。近づくと、そこにルカがいた。小さな群れの中心で彼は熱を帯びていたが、周囲の言葉は辛辣だった。


「作曲家だって? 笑わせるな。俺たちは働かなきゃだめなんだ。歌で飯は食えない」


誰かがそう吐き捨てると、ルカは顔を強張らせた。音楽を侮蔑されることが、何よりも彼を抉ったのだ。言葉は拳へと変わり、彼と相手の子供はぶつかり合った。騒ぎはすぐに人々の注意を引き、やがて喧嘩は鎮まる。広場には次第に人影が消え、残されたのはルカと、静かに立つマルコだけだった。


ルカは息を切らしながら膝をつき、悔しさで震えていた。瞳は赤く、声は震えている。マルコはその姿を見て、心の奥に忘れていた何かが蘇るのを感じた。長年、彼の内で乾いていた情熱が、若者の剣幕で燃え返ったのだ。かつて宮廷で称賛を浴びていた折の昂りと同じ種類のものが、身の内に戻ってくるのを、彼は認めざるをえなかった。


「何をしている、子よ」


最初の言葉は淡々としていた。ルカは顔を上げることなく、「なんだよ」とだけ返した。二度目、マルコは声の調子を変えずに言った。


「着いて来い。君が必要としているものが、そこにある」


不思議と、ルカは言葉を求めなかった。足音を合わせて歩くこと自体が、約束になったのだ。やがて辿り着いたのはマルコの居室だった。扉を開けると、楽譜が無造作に積まれ、リュートが壁に掛けられ、予備の弦や修繕道具が所狭しと置かれていた。薄暗い室内に埃とニスの匂いが混じり、時間の重みが滲んでいる。


ルカの目は興奮で亮いていた。手を伸ばして楽譜をめくり、弦を指で弾く。マルコはぼそりと言った。


「君の音楽への思いは本物だ。もし学びたいのなら、私の全てを与えよう。どうするかは君次第だ」


ルカはためらうことなくひざまずき、頭を下げた。「お願いします。全部、教えてください」


その夜、話は尽きなかった。マルコは古い様式の和声法やリュートの調弦の妙、宮廷での作法や楽譜の読み方を語った。ルカは吸いつくように聞き、時折自分の思い描く旋律を口に出しては、マルコの反応を仰いだ。二人の間で交わされるのは単なる教えと学びを超えたものだった。師と弟子――しかし同時に、互いを刺激する同士でもあった。


それからの時間は早かった。聖歌隊の練習日には誰よりも熱心に声を出し、休みの日にはマルコの元へ通ってリュートの手ほどきを受けた。ルカは次第に技術を身につけ、和声の裏にある理性を学んだ。マルコは若さの尖りを磨く術を教える一方で、若者の燃えるような情熱に自分の枯れた感性が潤されていくのを感じた。


ある日の夕べ、二人は練習を終え、疲れた身体で残響の残る小さな礼拝堂に座った。ルカがぽつりと言った。


「音は、神に捧げるものだと言うけれど、僕はそう思わない。神にでも、人にでもない。魂そのものだ」


マルコはその言葉を受け止めながらも、完全に理解したわけではなかった。だが胸に小さな光が灯った。時代は変わろうとしている。新しい風が町を吹き抜け、音楽もまた形を変えつつある。二人は気づかぬうちに、その変化の最前線に立っていた――互いの師であり弟子であり、友でありながら。


初めて出会った日の広場の風景は、もう昔話のように遠い。だがルカの瞳に宿る決意と、マルコの手に残る古い指の痕は、これから始まる物語の予感をはっきりと示していた。


夜が更け、マルコの部屋の窓からは街の灯が遠くにまたたいていた。

ルカは机に広げた楽譜の余白に、震える手で音符を書き込んでいた。

マルコはそれを黙って見つめながら、昔の自分を重ねる。

無謀で、眩しく、そして怖いほど真っ直ぐだった頃の自分を。


「マルコさん、これでいいと思いますか?」

ルカが問いかける。

マルコは少しだけ微笑み、首を横に振った。

「まだ違う。けれど、もうすぐ“音楽”になる」


その言葉に、ルカは顔を上げた。

小さな蝋燭の炎が、二人の間に揺れる。

その光の中で、古い時代と新しい時代が、静かに交わった。

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