推しに会っても笑えないから。
西奈 りゆ
プロローグ: 醜いあひるは、空を飛べない?
じつは近いうちに、推しのワンマンライブに行く。大きいライブではなくて、ライブハウスで、演奏後に物販があり、推しから直接グッズを買えたり、ツーショットチェキを撮ってもらえる、そういうライブだ。
という前置きで、恐ろしい言葉を知った。その名を、「地蔵」という。きっかけは、間近に迫った、推しのライブに備えての、準備だった。
『感激すると、感情を表に出すより、固まってしまう。ライブで皆が盛り上がっているときに、こういう態度は不適切でしょうか?』
某質問サイトで、こういう類の質問を、複数見かけた。というか、探し当てた。同じような文言で適当に検索ワードを打ち込んだら、そこそこの件数がヒットした(同じような悩みを抱える人がそこそこいた)。そして、こうした質問に関連して出てきたのが、「地蔵」というワードだった。
見たところ「地蔵」に正確な定義はなく、界隈でなんとなくできた造語のようだが、おおよそ演者さんのパフォーマンスに対して、「ノリが悪い、あるいは悪く見える観客」という意味らしい。
※
上記の質問を投げかけた人は、自分はパフォーマンスの質問わず、感激すると静かに聞き入ってしまうのだけれど、周りに合わせたリアクションをするべきですか?と、質問していた。言い換えれば、「自分はお地蔵さんになってしまうのですが、それでは失礼ですか?」といったことを気にされていたのだ。
まんま、私だ。そういうことが知りたくて、そもそも私はキーを叩いたのだ。
冒頭、推しのワンマンに参加すると書いた。
じつはここに、巨大な落とし穴がある。
前回はライブハウスでのライブだったので気にしていなかったが、端っこで、見事に地蔵になっていた。だが、今回はライブハウスでの、ワンマンライブ。すみっコぐらしになるわけにはいかない。いや、すみっこでもいいのだろうけど、お地蔵様はまずい(かも)。だからこそ、通称「地蔵」として知る「固まる」問題を、気にしていたのだ。
はたして「地蔵」は、ライブにおいて、不適切な態度、ないしマナー違反なのか?
ネットでの答えは、全てではないが、ライブ参加自体が初心者(今度で、三回目)の私には、まったく優しくないものがやや優勢だった。
ある演者さんは、明確に「地蔵がいると萎える」と言った趣旨の発言をし、別の演者さんのファンも、「地蔵は場違い、来るな」と言った旨を書き込んでいた。こういうのが、けっこうな数、目立っているように見える。
比較的中立的な書き方をしている方も、最終的には「周りに合わせるのが、マナーではないかと思います」といったことを書いている。そうした返答に混じって、「どうしても地蔵になってしまうから、迷惑になるのでライブには行かないことにしました」という書き込みまである。もう、画面の前で戦意喪失というか、私まで「ごめんなさい」気分になってしまうくらいの、批判と“反省”がてんこもりだったのだ。
ハードルは、もう一つある。容姿コンプレックスと、メイク問題だ。
古参の方はご存じだろうが、私は二年ほど、宅コスならぬ、宅メイクにいそしんでいた。メイク男子(という年齢でもないが)、というやつである。美大出身で、大手美容関連企業に勤めていた経験もある妻の手腕と、Photoshopというとてもありがたいソフトもあるので、地獄少女のコスなどという巨大な荒業をかましても、わりとそこそこの出来が仕上がっていた(これは今でも、評判がいい)。
とはいえ。素顔が人様にどう見えているかはもちろん分からないが、私の自分の素顔への評価は、極めて悪い。大学時代に美容整形外科に駆け込んだこともあるし、今年も某大手美容整形外科の施術キャンペーン&カウンセリングに駆け込んで、危うく、実質永年ローンを組まされるところだった(※あとで詳しい友人数人に聞いたところによると、そこは業界内では、悪徳として有名だという。調べたら、表での輝かしいレビューの裏で、“被害”の報告が、確かにあった。しかも、私が引っ掛かりかけたのと、ほぼ同じ手口だった。なお、他の業者様の名誉のために言い添えるが、優良な業者は実際に存在し、アフターケアまで丁寧、価格も水増しせずに表示通り。良心的で、満足しているという声も直接聞いた)。
※
( )閉じにしたが、随分と話が逸れた。日常生活が送れるようになっただけ、マシだ。
じつは私はいろいろあって、学生時代は自分が極度に醜いと思い込む、醜形恐怖症そのものだった。そのため、旧称センター試験では、開始ギリギリまで、目深ニットと大マスクで顔の露出部分を極限まで減らし(季節が違えば、サングラスも追加したかった)、ミイラのようにして過ごしていた。
あるあるだが、逆に目立って、会場入りする前に、嘲笑を受けた。この時点で、正直、試験どころではなかった。
実害の報告として記すが、安全な環境(単位制高校の室内で、担当教諭に設定してもらった時間内で、一人で解いた)では、初見の有名大学の過去問でもそこそこの点数が取れた、国語関連科目、各種。それが、試験本番の蓋を開ければ、それぞれ全体の三割も得点できなかった。
繰り返しのようになるが、集団の中で沸いた醜形恐怖と、それに伴う希死念慮、動悸、吐き気、発汗、その他で、虚飾抜きで、試験どころではなかったのだ。
自分が醜いと確信するということは、そして、そのまま生きなければならないということは、もちろんこれが全てではないが、こういうことでもある。
そしてこの「自分は醜い」という感覚から、私はまだ自由になれていない。
※
さて、ようやく本題だ。推しのライブには、これまで二回行っている。一回目、某所での、ミニライブ。二回目、ライブハウスでの対バンライブ。そして三回目が今回の、ライブハウスでの、ワンマンライブだ。
一度目は、素顔で行った。想像よりはるかに輝かしい推しを含め、複数の方に初めて顔を出してお会いすることになった。その結果、センター試験と同じような感情がぶり返し、ライブ後にしばらくの間、かなり体調を崩した。
二度目、不自然にならない程度の中性的なナチュラルメイクにウィッグで、行った。素顔で行きたくなかったし、推しとツーショットチェキを撮ることができるとファンの方から教えていただき、素顔では絶対に、絶対に、死んでも写りたくないと思ったからだ(言うまでもないが、卒業アルバムや、幼少期のアルバムまで、目についたものは、自分ですべて処分している。病的なのは百も承知だが、どうしてもエイリアンの幼体か何かにしか、見えないからだ)。
結果。チェキを撮るという点でのみ、目標は達成した。推しの方もファンの方も、類は友を呼ぶというのはこのことかというくらい、初心者にもフレンドリーで、さりげなく誘導してくれたり、順番を譲ってくれたり、いろいろ気遣いをしていただいた。
なので、実在の推しを前に、それこそ地蔵になってしまったけれど、それなりに素敵な思い出になる時間を過ごすことができた。そのとき推しの方が、目の前でサインしてくれたCDは、今でも大事に保管している。
ただ、また課題が出た。笑えないのだ。いや、声に出して笑いたいわけではない。いっそ作り物でもいいが、とにかく笑みを浮かべられないのだ。
冒頭にあげた「地蔵」問題は、私の中で二つの意味を持つ。感激すると固まってしまう。そして、自分の醜さが怖くて、固まってしまうのだ。
二回目のライブ。当日はギリギリまで迷ったが、チェキはマスクをしたまま撮ってもらった。口元のコンプレックス。詳細には書けないが、これが一番大きかった。
加えて純粋な緊張もあり、それに容姿コンプレックスが伴って、立っているのがやっとだった。
※
じつは、事情があって、推しのライブに行くのは、今回を一区切りにして、しばらくの間は機会がない。なので、推しの生演奏を聴くのも、チェキも、次回がほぼラストに近いのだ。そこにきて、この課題、容姿コンプレックスが、改めて露呈した。
大げさなと思われるかもしれないが、私には生活の問題と同じくらい、容姿というのは、死活問題なのだ。ルッキズムに与したいわけではないが、自分に対しては、言葉通りの容姿至上主義を掲げていると、思ってもいい。
理由など、もはやない。それは、そういうものだからだ。思えば、幼いころから、その萌芽はあった。摘みようがない、痛みの芽が。
逢魔が時のような話だ。そしてこの話に、明確なハッピーエンドは、今のところない。ただ、チャンスが残されているので、最後にそれを書こうと思う。
二度目のライブの際は夏で、発汗を抑える薬を飲んだり、メイク崩れを防止する諸々の手段を講じて、最低限のメイクで会場入りした。チェキは、その流れである。
さて、三度目だ。正確には書かないが、ライブの開催日は、もうカウントできるくらいには、近い日時だ。
そして今の季節は、いちおうは秋。ありがたいことに、それなりに、寒くなってきてもいる。となると、今度は乾燥が気になるが、高級リップとワセリンで、一番のネックである、唇は対策済みだ。
黒リップでもさしたいところだが、ギリギリまでそこは悩もう。
そして、さらに今回は、季節的なメリットがある。汗をかきにくい。つまり、顔をいじる道具を使いやすいのだ。
といっても、厚化粧をしようというわけではない。私自身は、どちらかといえば、薄化粧を好むし、推しはどちらかというとゴスロリかつV系に近いが、ファンだとしても、そちらに寄せたいわけでもない。
ただ、メイクに使える道具はけっこう増える。これは、実際に施してもらって分かったが、道具の自由度が増すと、楽しさは増す。
そしてもう一つ。季節が合うので、かなりお気に入りの、ユニセックスのパーカーを着ていける。これが、わざとらしくない程度に、控えめ、かつ絶妙に可愛らしい。
じつはこの点も、けっこう大きい。分かる方には分かると思うが、お気に入りの服は、まとえばけっこう味方になる。スナフキンの毛布みたいなものだ。
もう一つは、古参のファンの方から聞いた話。推しの方は、地蔵でも何でも、ライブを楽しんでくれたら、それだけでいいと公言しているという。気後れしてしまい、ご本人とお会いしたのは、今までほんの少しの時間だが、変な垣根がない人だということは、肌感覚で感じた。今が、本当に楽しいんだということも。
本当に最後にするが、最近推しがラジオで話していたことを書きたいと思う。
ご本人はきりっとしたゴスロリ衣装が似合う、デビュー十年以上のベテランだが、デビューしたころは、あれはゴスロリじゃないと散々貶され、ライブを開いても、自分が出演した瞬間、目の前で携帯(当時)をいじられる期間が、続いたという。
なりたい姿になる。綺麗になりたい。
これは、私の生きざまだ。意味だ。理由だ。そしておそらく、自分を踏んだ世界に対する、プライドだった。
「だった」のだ。
以前、機会があって、ある有名作家さん(この場合、お名前を出していいのか分からなかったので、伏せています)から直接、私の『綺麗になりたい』という姿勢に、応援の言葉をいただいた。けれど私は最近、控えめに言って、あの言葉を蔑ろにし始めている気がしている。
別の言い方をすれば、あきらめたのだ。あまり言い訳を書きたいわけではないが、自分の思う「綺麗」を追うとき、年齢、そして性差という壁は、想像以上に大きい。
あるとき、推しの方が言っていた。『六十歳になっても、この格好で歌い続けたい』と。
※
ここに、ここだけの秘密を書いて、ようやく筆を置こうと思う。
一つ目。いつか私の作品が、公的に世に出ることがあったとき。
推しに主題歌を、お願いしたいと思っている。
二つ目。なんとか新人賞受賞の会場に、そこそこ「綺麗」になれた自分がいる。という空想を、よくしている。ご丁寧に、会見までしている。たまに空しくなるが、たまに面白く遊べる。願望の影絵のようなものだ。このくらいの無邪気さは、忘れないでいたい。
おそらく、飛翔する必要はない。世界は狭く、同時に広い。
私はどこかで、それを分かりたかった。けれど、今は分からない。分かってしまうと、自分が自分でなくなる気がするのだ。それは、重大な裏切りに近い。
そしてそれは、合わせ鏡が結ぶ像のように、終わりのない世界なのかもしれない。
だからせめて、自分のプライドの、そして願望の区切りは、自分で見届けたい。
今は、そう思っている。
「地蔵」の話が、こんなところに行きついてしまった。正直、書きものの構成としては、崩れまくっている。これでは、黒歴史の上塗りになるかもしれないが、勢いのまま、この話を公開し、同時に、ひとまずここで完結としたい。
もし書きたくなるような続きがあれば、少しの未来を信じながら、この場に追って、記したいと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます