第2話 瓦礫の中の原石


 ​長沙ちょうさは、腐臭に沈んでいた。


 ​荊州南部けいしゅうなんぶに位置するこの郡は、かつては長江ちょうこうの恵みを受け、湿潤しつじゅんな風と豊かな土壌をほこる土地であったはずだ。

 ​だが、孫堅がその地を踏んだとき、鼻腔を突いたのは、れすぎた果実が地面で潰れ、そこに死臭が混じり合ったような、鼻をつく絶望の臭気しゅうきであった。


 ​城壁はいたる所で崩れ、黒煙が天をめている。道端には、かつて人であった「残骸」が無造作に転がっていた。


 ​賊将ぞくしょう区星おうせい。自らを将軍としょうし、一万の兵をようして蜂起ほうきしたこの男は、長沙ちょうさという都市の臓腑ぞうふすすり、その脈動みゃくどうを完全に止めようとしていた。


 ​太守府たいしゅふの扉を蹴破けやぶるようにして、孫堅は入室した。


 ​中にいたのは、前の太守が残していった惰弱だじゃくな役人たちである。彼らは一様に顔色を失い、ガタガタと震えながら、新任の太守を見上げた。その眼は、虎ににらまれたうさぎのそれだ。


 ​孫堅は舌打ちをした。


 ​弱い。あまりにももろい。武が足りぬのではない。背骨が、ないのだ。


 ​乱世において、権威という名の衣服をぎ取られたとき、人間はその本性をさらす。ここにいるのは、ただおびえ、保身のみをむさぼ肉塊にくかいに過ぎなかった。


 ​「……掃除だ」


 ​孫堅は低い声でうなった。甲冑かっちゅうれる音が、凍りついた室内に響く。


 ​「腐った肉は削ぎ落とさねばならぬ。役立たずどもを一掃せよ。帳簿と戸籍を洗い直せ。俺が必要とするのは、びへつらう舌ではなく、たみのために泥をすすれる『手』と『足』だ」


 ​孫堅の号令は、雷鳴らいめいのように長沙ちょうさの空気を震わせた。


 ​即座に、孫堅直属の兵たちが動き出す。役人たちは悲鳴を上げて逃げ惑い、あるいは引きずり出された。

 ​それはまつりごとというよりも、患部をえぐり出す荒療治あらりょうじであった。壊死えしした組織を冷徹れいてつに切り離し、鮮血を流させてでも生体をよみがえらせる。孫堅の治世ちせいとは、戦場の論理そのものであった。


 ​その喧騒けんそう最中さなかである。


 ​瓦礫がれきした文書庫の奥で、一人、黙々と筆を走らせる男がいた。


 ​若かった。二十代半ばであろうか。周囲の混乱など存在しないかのように、彼は散乱した木簡もっかんを拾い集め、仕分けを行っていた。その背中は、せているが、奇妙なほど真っ直ぐだった。


 ​孫堅はめた。猛獣の嗅覚きゅうかくが、反応したのだ。


 ​「貴様きさま、名は」


 ​「……功曹こうそうの、かん伯緒はくしょと申します」


 ​男は手を休めず、淡々と答えた。顔を上げると、そこにはんだ、しかし決して折れぬはがねのような瞳があった。


 ​孫堅は目を細めた。他の役人が逃げ出す中、なぜこの男だけが残っている。恐怖がないわけではあるまい。指先はかすかに震えている。だが、それ以上に、おのれすべきことに没入ぼつにゅうしている。


 ​「区星おうせいの兵が来るぞ。なぜ逃げぬ」


 ​「太守たいしゅが逃げ、主簿しゅぼが逃げ、私が逃げれば、誰がこの郡の『形』を残すのですか」


 ​桓階かんかいは静かに言った。


 ​「賊が奪えるのは金穀きんこくと命だけ。ですが、記録が失われれば、民が生きたあかし、誰が誰の親で、誰がどの土地を耕していたかという『ことわり』が消え失せます。ことわりが消えれば、復興は成らぬ。ゆえに、私は残りました」


 ​「……理、か」


 ​孫堅は口の中でその言葉を転がした。


 ​武人の自分にはない発想だ。自分は剣で敵を殺し、身体しんたいを守ることはできる。だが、この若者は、筆一本で、土地の記憶と未来を守ろうとしているのだ。


 ​腹の底が、熱くなった。


 ​これだ。俺が求めていたのは、こういう「硬さ」を持った男だ。


 ​孫堅は、無骨ぶこつな手で桓階かんかいの肩をつかんだ。


 ​「桓階かんかい貴様きさま孝廉こうれん推挙すいきょする」


 ​桓階かんかいの目が、初めて大きく見開かれた。孝廉こうれんへの推挙すいきょ。それは官僚としての出世街道しゅっせかいどうが開かれることを意味する。


 ​「な……着任早々、何をおっしゃいますか。私はまだ何の功績も……」


 ​「功績など、後からついてくる。俺が見込んだのは、その眼だ。貴様のような男が上に立たねば、この国は腐り落ちる」


 ​孫堅は獰猛どうもうに、口端くちはしを吊り上げた。


 ​「俺はこれから区星おうせいを殺しに行く。貴様はその間に、俺が戻るべき『座』を整えておけ。……できるな?」


 ​「……御意ぎょい


 ​桓階かんかいは深く頭を垂れた。その瞬間、二人の間に、主従を超えた奇妙な共犯関係にも似た「義」の糸が結ばれた。

 ​後に孫堅がしかばねとなったとき、命をしてそのむくろを引き取りに来る男の、これが原点であった。


 ​数日後。


 ​長沙ちょうさの郊外にて、孫堅軍と区星軍おうせいぐんが激突した。


 ​戦いと呼ぶには、あまりにも一方的な蹂躙じゅうりんであった。区星おうせいは一万の兵を集めたとはいえ、所詮しょせんは飢えた農民や逃亡奴隷の寄せ集め。

 ​対する孫堅軍は、北方ほっぽうの戦乱をくぐり抜けてきた歴戦の精鋭せいえいである。


 ​先頭を駆けるのは、孫堅その人であった。


 ​「邪魔だッ!!」


 ​孫堅の佩刀はいとう一閃いっせんするたびに、敵兵の首が宙を舞う。血飛沫ちしぶきびて、孫堅の姿は朱に染まった鬼神きしんしていた。


 ​指揮官が最前線で剣を振るう。兵法からすれば下策げさく。だが、江東こうとうの虎がひきいる軍においては、それが最強の戦術となる。

 ​大将の背中こそが、最大の軍旗ぐんきなのだ。孫堅がえれば、兵もえる。孫堅が殺せば、へいも殺す。恐怖という感情が麻痺まひし、れ全体が一つの巨大な牙となって敵陣を食い破っていく。


 ​程普ていふ長矛ちょうぼうで敵将を串刺しにし、黄蓋こうがいが重い刃を叩きつけて頭蓋を砕く。韓当のはなつ矢が、正確無比せいかくむひに指揮官の喉を射抜く。


 ​区星おうせいの軍勢は、雪崩をって崩壊した。わずか数刻すうこく長沙ちょうさを恐怖で支配していた一万の軍勢は、孫堅という暴力的なまでの「義」の前に、塵芥ちりあくたのように消し飛んだのである。


 ​夕陽ゆうひの中、孫堅は死体の山の上に立っていた。


 ​足元には、賊魁ぞくかい区星おうせいの首が転がっている。かぶとを脱ぎ、汗と血にまみれた髪を風にさらしながら、孫堅は遠くを見つめた。


 ​勝った。だが、終わっていない。長沙ちょうさは平定されたが、東の空――揚州ようしゅうの方角が、どす黒くよどんでいる気配がした。


 ​(……宜春ぎしゅんか)


 ​戦いの高揚感こうようかんが引くと同時に、次なる飢えが孫堅を襲う。休む暇などない。乱世は、常に次の獲物を差し出してくるのだ。


 ​孫堅は太刀たちについた脂をぬぐうと、再びさやに収めた。


 ​その金属音が、次なる戦場への合図のように鳴り響いた。

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