乱世を駆ける猛虎の血縁~孫堅・孫策・そして未来の神眼の君主~

武陵隠者

第1章:江東の虎、義に吼える

第1話 朱色の宴と不穏な風


 ​夜が、くれないに染まっていた。


 ​中平四年ちゅうへいよねん(一八七年)、十月。揚州九江郡ようしゅうきゅうこうぐん寿春じゅしゅん


 孫堅の屋敷は、むせ返るごとき熱気と、眼をくようないろどりに満ちていた。

 ​あちらこちらにかかげられた紅提灯べにちょうちんが、夜風に揺れるたびに集まった人々の顔を赤く濡らす。うたげ喧騒けんそうは波のように押し寄せ、幾千の笑い声が夜空へ吸い込まれていく。


 ​今日は、孫堅の娘の婚儀こんぎであった。


 ​相手は揚州丹陽郡ようしゅうたんようぐんの豪族・弘咨こうし。まだ十四になったばかりの娘をとつがせる儀式「親迎しんげい」。

 ​それは政略であり、同時に、この乱れた世において娘が生き残るための、父としての苦渋くじゅう防壁ぼうへきでもあった。


 ​上座に座する孫文台そんぶんだいは、手酌でさかずきした。


 ​強い酒が喉を焼き、胃のへと落ちる。だが、酔えぬ。


 ​三十三歳、男盛り。その体躯は岩石のように硬く、分厚い胸板はころもの上からでも猛獣のごとき圧力をはなっていた。

 ​人々は彼を「江東こうとうの虎」と呼ぶ。だが今夜の虎は牙を隠し、愛想笑あいそわらいという慣れぬ芸当をいられている。


 ​「殿との。飲みすぎでございますぞ」


 ​背後から、しわがれた、しかし鉄芯の入った声がした。


 ​振り返れば、古参こさん程普ていふが呆れ顔で控えている。

 ​その隣には無言で周囲を警戒する韓当かんとう猪首いくびをすくめて苦笑する黄蓋こうがいの姿もあった。

 ​彼らも祝いの席にあっても、どこか血の匂いを漂わせている。それが孫堅には心地よかった。


 ​「めでたい席だ、程普ていふ。今日ばかりは、俺もただの父親に戻らせてもらう」


 ​「戻っておられませぬな。その眼は、獲物を探す獣のままでござる」


 ​「……ふん」


 ​孫堅は鼻を鳴らし、視線を広間へ戻した。そこには、二人の息子がいる。


 ​長男の孫策そんさく。十三歳にして、すでに若武者のごと精悍せいかんさをまとっている。

 ​祝いの席だというのに、その両眼は退屈そうに宙をにらみ、手元の小刀で卓上の肉塊にくかいを幾度も突き刺しては不満げにため息をつく。

 ​食欲からではない。肉の弾力を敵の肉体に見立て、さきから伝わる感触で飢えをしのいでいるのだ。

 ​あふれ出る闘争心を抑えきれず、苛立ちに膝を揺するその姿は、まるで檻に入れられた幼獣ようじゅうだ。


 ​対照的に、次男の孫権そんけんは静かだった。まだ六歳の幼子おさなごだが、兄の粗野そやな振る舞いには目もくれず、端然たんぜんと座して茶をすすっている。

 ​その碧眼へきがんとらえているのは、酔っ払って足元をふらつかせる武官ぶかんたちの姿だ。


 ​「……すきだらけだ」


 ​ぽつりと漏らした言葉は、大人たちが酔いれる醜態しゅうたい冷徹れいてつ値踏ねぶみするものであった。


 ​(さくほのおけんこおりか。……どちらも、俺の血だ)


 ​孫堅は口元を緩め、再びさかずきをあおった。


 ​平和だ。だが、この平和はもろい。薄氷うすらいの上に築かれた楼閣ろうかくぎぬ。


 ​遠く洛陽らくようでは、霊帝れいてい寵愛ちょうあいかさに着た宦官かんがんどもが国をむしばみ、たみ膏血こうけつすすっている。

 ​黄巾こうきんの嵐は過ぎ去ったというが、その残火ざんかいまだ野にくすぶり、飢えた民が賊へと変貌へんぼうし続けている。


 ​――俺のけんが、びつきそうだ。


 ​孫堅の奥底で、どす黒い衝動が鎌首かまくびをもたげた、その時である。


 ​「――急報!」


 ​祝いの音曲おんぎょくを切り裂くように、一頭の早馬はやうまが屋敷の門前もんぜんいなないた。


 ​朱色のうたげが、凍りつく。


 ​砂埃にまみれた伝令でんれいが、転げ込むようにして孫堅の御前ごぜん平伏へいふくした。その背には、朝廷の公文書こうぶんしょを収めたつつくくり付けられている。


 ​「報告しますッ! 荊州長沙郡けいしゅうちょうさぐんにて、賊魁ぞくかい区星おうせいが決起! みずからを将軍とし、その数一万! 城邑じょうゆうを攻め落とし、暴虐ぼうぎゃくの限りをくしております!」


 ​広間がどよめいた。一万の兵となれば、もはや局地的な暴動ではない。戦争である。


 ​伝令でんれいは息を継ぎ、震える手で文書を差し出した。


 ​「朝廷より勅命ちょくめい! 議郎ぎろう・孫堅を長沙太守ちょうさたいしゅにんず! ただちに現地へおもむき、これを討伐せよとのおおせにございます!」


 ​静寂が落ちた。数瞬すうしゅんののち、孫堅が立ち上がる。


 ​ガタリ、と椅子が倒れた。その音だけが響く。


 ​もはや、そこには娘をとつがせる父親の顔はなかった。全身からはなたれる殺気が周囲の空気をねじ曲げる。祝いの紅提灯べにちょうちんが、不意に、戦場の篝火かがりびへと変貌したかのような錯覚を、誰もが覚えた。


 ​孫堅は、ゆっくりと広間を見渡した。


 ​震える客たち、目を輝かせる孫策そんさく、そして、静かに夫の覚悟を受け入れる妻・呉夫人ごふじんの姿。


 ​彼は短く、一言だけえた。


 ​「程普ていふ韓当かんとう黄蓋こうがい! ……行くぞ」


 ​「はっ!!」


 ​三将さんしょうの声が重なり、屋敷を震わせる。


 ​孫堅はふところから娘への祝いの品を取り出すことなく、太刀たちつかんだ。


 ​そのてのひらには、馴染んだつかの感触があった。血と鉄の感触。それが、孫堅という男の生きる場所であった。


 ​「は、我々にあり」


 ​つぶやきは風にかき消され、江東こうとうの虎は、乱世という名の荒野へふたたびその身をとうじたのである。

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