第40話 夜明けと、騎士の最敬礼

東の空が墨色から淡い群青へと溶け変わり始めていた。


 灰色の路地にも、ようやく夜明けが来る。


 石畳には血の代わりに打ち水の跡と、踏みしめられた足跡だけが残っていた。

 暴走していた十二人は、それぞれ毛布をかけられ、路地の端や家の中で静かな寝息を立てている。


 死者ゼロ。


 それが、この悪夢の総括だった。


『対象個体群:深層呪詛根 除去完了』

『状態:正常な睡眠状態へ移行』

『再起動可能性:ゼロ』

『推奨:休息および栄養補給』


(……やった)


 その場に座り込み、壁に背を預けて大きく息を吐く。

 全身が鉛みたいに重い。【アイテムボックス】の奥が、まだ鈍く痛んでいる。


 けれど、胸を占めているのは疲労じゃない。安堵だ。


「アレンさん、これを」


 ミリーが駆け寄ってきて、温かいスープの入った椀を差し出してくれた。

 彼女もほとんど寝てないはずなのに、その瞳は夜明けの光みたいに澄んでいる。


「ありがとう。助かります」


 一口飲むと、塩気と野菜の甘みが、空っぽの胃にじんわり染みた。


 周囲では、バートン隊長の指示を受けた騎士たちが、後始末に走り回っている。

 負傷者の確認、壊れた屋台の片付け、住民への声かけ。


「おい、その男は慎重に運べ。乱暴に扱うな、ただの病人だ」

「毛布をもっと持ってこい! 夜明けは冷える!」


 昨夜までの刺々しさより、どこか「守る側」の声だ。


「アレンさん、こっちの方も……」


 ミリーが別の男の額に手を当てる。


「熱も下がってます。さっきまであんなだったのに……」


「もう大丈夫です。『根っこ』は全部抜きました」


 胸に軽く触れ、【アイテムボックス】の感覚を滑り込ませる。

 さっきまでまとわりついていた黒いざらつきは、もうない。


(よし)


 別の老人、別の女。順に確かめても、結果は同じだった。

 みんな生きてる。



「報告!」


 路地の入口で、騎士団員が声を張り上げる。


「暴走者十二名、全員生命反応安定! 周辺に二次汚染なし! 非戦闘員の負傷は打撲と擦り傷のみ、死者ゼロ!」


 ざわっと安堵の波が広がった。


「よくやった!」


 バートンの怒鳴り声が飛ぶ。


「治療班は引き続き診ろ! ――アレン、そっちはどうだ」


「問題ありません。もう“根”は残ってません」


 顔を上げると、バートンがこちらを凝視していた。


 いつもの皮肉でも疑いでもない。

 何かを必死に咀嚼している目だ。


「なんだかんだで……やってのけやがったな」


「やるしかなかったので」


「軽く言うな」


 一歩近づき、低く言う。


「さっき、お前の言葉を信じて“殺すな”と命じた。もし誰か死んでたら、俺は一生お前を恨んだだろう」


「そうですね」


「だが――」


 そこで一度、彼は息を吐いた。



 ふと、路地の別の家から、あくびを噛み殺しながら出てきた少女が、母親に手を引かれてこちらを見る。


「あれ……? なんか騒がしい?」


「しーっ。昨日、変な音しなかった?」


「ううん。ぐっすり寝てたもん」


 三日前に俺が治療した子だ。

 悪夢にうなされてたはずの子が、昨夜も朝までぐっすり。


 その少女の姿を、バートンがじっと見つめる。

視線は、その子と、さっきまで暴走していた男のそばで震える息子とを、何度も行き来した。


(見えてるな)


 俺の「非効率」を受けた者と、間に合わなかった者。

 その差が、静かな夜明けの光の下で残酷なほどくっきりしている。


「隊長」


 別の騎士が報告に来た。


「暴走した十二名の家族への聞き取り、終わりました。“悪夢を見ていたようだ”と……。暴走しなかった家は、“アレンさんの治療のおかげで昨夜ぐっすり眠れた”と」


「……そうか」


 短く答えたバートンは、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。


 俺の前で立ち止まり、何も言わず路地を見渡した。

 眠る元暴走者と、泣き笑いで寄り添う家族たち。

 何も知らずに走り回る治療済みの子供たち。


「……“ゴミ拾い”」


 ぽつりと呟く。


「“非効率な慈善事業”“気休めの呪い”」


 それは、彼自身が口にした言葉だ。


「俺は、君のやっていることを、そう呼んでいた」


 自嘲混じりの低い声。


「騎士とは街を守る者だと信じていた。鎧を着て、剣を振るうことだけがやり方だと思っていた。だが君は……鍬と、手と、意味の分からん箱で、この街に城壁を築いていた」


 視線が俺を捉える。

 そこにはもう、侮蔑も義務感もない。

 一人の騎士として、事実に頭を垂れようとしている目だけ。


「昨夜、暴走しなかった家の子供は、自分の寝台で眠っていた。暴走した家の子供は、物置の隅で震えていた」


 静かな声が、朝の冷気に溶ける。


「その差を作ったのが、君の“非効率”だった。違うか?」


「……結果として、そうなっただけです」


「結果が全てだ」


 きっぱりと言い切る。


「俺は……君という男の価値を、何一つ理解していなかった」


 次の瞬間、バートンは無骨な兜を外した。


 汗の滲む額。短く刈られた髪。

 刻まれた皺が、そのまま彼の歳月と矜持だ。


 ガン、と金属音が響く。


 片膝をついた。


 右拳を左胸に当て、深く、深く頭を垂れる。


 騎士が、王か恩人にのみ捧げる、最上級の礼。


 騎士の最敬礼。


「なっ――」


「隊長!?」

「バートン様……!」


 周囲の騎士も、路地の住民も、一斉に息を呑む。

 エルザさえ、目を見開いている。


(ちょっと待てちょっと待てちょっと待て)


「バートンさん、やめてください! 顔を上げてください!」


「断る」


 頭を下げたまま、低く言う。


「これは、騎士バートンとしての謝罪であり、感謝だ。君がいなければ、この路地は地獄になっていた。俺の部下も、守るべき住民も、もっと多くが死んでいた」


「そんな、大げさな――」


「大げさではない」


 顔を上げた彼の瞳は、曇りなく俺を射抜いていた。


「アレン・クロフト。君を侮り、行動を妨げようとした俺の非礼を許してほしい。そして、改めて頼む。この街を……俺たちが守るべき人々を、君の力で守ってくれ」


 それは命令でも取引でもない。

 ただ真っ直ぐな頼み。


(この人は、俺を“道具”じゃなく、“仲間”として見てる)


 胸が少し熱くなる。


『外部評価:バートン/信頼度 急上昇→忠誠に近接』

『補足:保護意識 最大化/対外的“盾”として機能予測 高』


(うるさい、今だけ黙ってろ)


 ふらつく足で一歩踏み出し、彼の肩に手を置いた。


「分かりました。じゃあ、顔を上げてください、バートン隊長。俺も、あなたを頼りにしてます。そんなところじゃなくて、隣に立ってください」


 一瞬、驚いたように目を瞬かせ――深く頷く。


「……承知した」


 立ち上がるバートン。


 ぱち、ぱち、とどこかで小さな拍手が起き、それが波のように広がった。


「隊長さん!」

「アレン様!」

「聖人様と騎士様だ!」


「だから“聖人”は――」


 言いかけて、飲み込む。

 今はいい。


 エルザは腕を組んだまま、それでもどこか誇らしげな目でその光景を見ていた。



 少し時間が経ち、仮設診療所の片隅で、バートンが部下に向かって報告書を口述していた。


「星喰教団と思しき術式による強制起動を、アレン・クロフトの事前処置と現場対応により阻止。暴走者十二名は全員生存、二次汚染なし。これはそのまま記載しろ。異論はないな」


 わざと、路地全体に聞こえる声量。

 誰が何をしたか、ぼかさせない気だ。


(徹底してるな)


「アレン」


 エルザが近づいてくる。


「倒れなかったな」


「倒れたら怒られそうですし」


「顔色は最悪だ」


「否定できないのが悔しいですね」


 俺の軽口に、彼女はほんの少しだけ口元を緩めた。


「だが、よくやった」


 短くて、不器用で、それでもまっすぐな賛辞。

 変にこそばゆい。



「アレンさん!」


 ミリーが駆け寄る。

 涙で潤んだ瞳は、恐怖ではなく安堵で震えていた。


「本当に、ありがとうございました……!」


「俺は自分の都合で動いてるだけですよ」


「それでもです!」


 食い気味に否定される。


「偽薬を作った誰かがいて、見捨てた誰かがいて……でもアレンさんは来てくれました。あの人たち、殺させたくなかったから……ありがとうございます」


 周囲からも声が上がる。


「アレン様がいなかったら、俺はもう……」

「うちの人も助けてくれて……」

「聖人様、これからもここにいてくだせぇ!」


「だから、アレンで」


 いつものやり取り。


 今度は、誰かが笑いながら叫んだ。


「聖人様がアレンだってことくらい、みんな知ってるさ!」


 笑いと涙が混じる。


(“都合のいい勘違い”なんてもう言えないな)


『評価:灰色路地=アレン個人への強固な支持基盤 化』

『政治的コスト:当該人物への露骨な拘束・排除行為=高リスク化』


(うん。最高の盾になってくれる)



 太陽が完全に顔を出す頃、路地の入口でバートンが俺の肩を叩いた。


「アレン・クロフト。改めて礼を言う」


「騎士様に頭を下げられると、くすぐったいですね」


「慣れろ」


 即答するあたり、本当にこの人は。


「それと――」


 少し声を落とす。


「今後、ギルドや王都の連中がお前に何か言ってきたら、まず俺に通せ。監視役の権限を使って、できるだけ前に出る」


「そんなことして大丈夫ですか」


「俺は俺の職務を果たすだけだ。“街を守った者を守る”のも仕事だ」


『バートン:対外交渉における“アレン防衛カード”として機能予測 強』


(頼もしすぎる)


「ありがとうございます、隊長さん」


「鳥肌が立つ呼び方だ」


「却下されなかったので続行します」


「……好きにしろ」



 後始末と引き継ぎを終え、俺とエルザはギルド本部へ報告に向かうことになった。


「ミリーさん、後はお願いします。暴走してた人たちの様子、こまめに見ておいてください」


「はい……! 任せてください!」


「何かあったらすぐ隊長さんに。俺は、ちょっと偉い人たちと話してきます」


 ミリーは一瞬、不安げに眉を寄せる。


「……ちゃんと戻ってきてくださいね」


「もちろん」


 本当に。



 ギルド本部へ向かう道すがら、エルザがぽつりと言う。


「バートンが膝をつくのを、初めて見た」


「そうなんですか」


「ああ。あの男は、自分より上に立つ者にもあまり頭を下げない」


「ただの扱いづらいベテランでは」


「だからこそ信頼される。簡単には靡かないが、一度認めた相手には徹底して剣を向ける」


 そこで一拍置き、じっと俺を見る。


「今、彼は君に剣を“向けない”と決めた。……その意味は、分かるな」


「はい」


 分かってる。


 俺を「危険物」じゃなく「守るべきもの」と見なす人間が増えるほど、好き勝手には動けない。

 俺が暴走すれば、今度はその人たちが矢面に立つ。


(だから余計に、選び方を間違えられない)



 ギルドの重い扉をくぐると、中はすでにざわついていた。


「おい、灰色の路地で教団の呪いが――」

「でも死人は出てねぇってよ」

「また“聖人”だろ。追放者のくせに、何者だよ」


「その呼び名、公式には禁止って通達きてるぞ! 勝手に広めるな!」


「へいへい」


(……来たか)


 胸の奥で、淡い警告色。


『外部通知:王都監査局/公爵家より通達案』

『要旨:「星喰い」等俗称の使用制限/対象情報の一元管理要請』


(“名”を締め付けに来る。予想通りだ)


「アレン・クロフト殿、お呼びがかかっています!」


 若い職員が駆け寄る。


「第二会議室へ。王都から監査官がお見えです」


「早いな」


 エルザが小さく舌打ちする。


「夜明けと同時とは。準備が良すぎる」


「行きます」


 階段を上がる途中で、【アイテムボックス】がざらりと震いた。


『観測:星喰教団系統 通信断片』

『内容:「灰色路地ルート不全確認」「トレス村起動条件 前倒し検討」』


(やっぱりそっちに圧をかけるか)


 すぐ重なる、別の文字列。


『――第三種識別コード【灰の星】より告』

『鍵“リリア”侵蝕度:閾値接近/抑制猶予:30日未満』


(分かってる。急がせたいならなおさら、俺が盤面を選ぶ)


「行くぞ、アレン」


 エルザが振り返る。


「ここからは剣ではなく、舌と札の戦いだ」


「そっちはあまり得意じゃないんですけど」


「君ほどよく喋る切り札も珍しい」


「それ褒めてます?」


「事実だ」


 第二会議室の扉の前に立つ。


 ノックしようとした瞬間、中から声が漏れ聞こえた。


「――“星喰いポーション”などという俗称は、即刻やめていただきたい。我らが王都としても、危険な呼称の独り歩きは看過できませんのでな」


 よく通る、作り物めいた穏やかさを帯びた声。


「誰だ?」


 エルザが眉をひそめる。

 側にいた職員が小声で囁いた。


「王都監査局付き、公爵家派遣の監査官です。“ブランド管理”の専門家と……」


 胸の奥で、【アイテムボックス】が警戒色を灯す。


『新規タグ検知:王都監査局/公爵家系統 “管理者候補”』

『注意:友好を装った束縛リスク 高』


(灰色の路地という防壁。バートンという盾。教団の不発。リリアとトレス村の刻限。そして今度は、王都の枷か)


「――入るぞ」


 エルザが扉を押し開けた。


 窓から差し込む朝日を背に、一人の男が振り向く。

 整った笑み。冷たい銀の光を宿した瞳。


「初めまして、アレン・クロフト殿。“聖人”と呼ばれているそうですね――いえ、その呼称についても、本日ご相談に伺った次第ですが」


(やっぱり、簡単には済まないな)


 俺は静かに椅子を引き、盤上に差し出された新しい鎖とカードを見据えた。

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