地味な法務部の彼が、ある日突然「別人」になった件(水無瀬美優 視点)
氷室涼介(ひむろりょうすけ)は、完璧な「夫」になるはずの男だった。
大手広告代理店で営業として働く私、水無瀬美優(みなせみゆう)。
華やかな世界で、常に人から注目されて生きてきた自信があった。仕事は順調だし、容姿にも気を使っている。
そんな私が、数ある選択肢の中から選んだのが、涼介だった。
彼は中堅メーカーの法務部。
正直、最初に所属を聞いた時は「地味」だと思った。
でも、彼はいつも穏やかで、感情的になることがなく、私の話を優しく聞いてくれた。何より、彼の安定した職業と真面目な性格は、将来の「夫」として最高の条件だった。
「すごいね、美優は。いつもキラキラしてる」
そう言って微笑む彼は、私にとって「安全地帯」そのものだった。
この人は、絶対に私を裏切らない。
この人となら、私は一生、楽に、優位に立って生きていける。
交際5年。私たちは順当に婚約し、涼介がローンを組んだ新築マンションで同棲を始めた。
すべてが、私の思い通りに進んでいた。
……そう。すべてが、少し「退屈」だったことを除けば。
「美優さ、本当にあんな地味な男でいいわけ?」
転機は、同棲を始めてすぐのことだった。
同僚の火野翔(ひのかける)が、飲みの席で私にだけ聞こえるように囁いた。
「俺なら、美優をもっと楽しませてやれるけど」
翔は、私と同じ営業部で、ノリが良くて刺激的な男だった。
涼介とは正反対。
最初は、婚約者がいる身だからと拒否していた。
でも、翔のアプローチは強引で、魅力的だった。
「涼介さんって、法務部だっけ? カタブツで、面白み、なさそー」
「そんなことないよ。優しいし……」
「優しさでメシが食えるかよ。なあ、美優。結婚前の、最後のお遊び。どう?」
その言葉は、私の心の隙間にスッと入り込んだ。
最後のお遊び。
そう、ただの遊び。
どうせ涼介にはバレっこない。彼は真面目だけど、鈍感だから。
法務部の人間なんて、契約書をチェックするのが仕事で、人の心の機微なんてわかりっこない。
一線を越えるのに、時間はかからなかった。
スリルが、退屈だった日常を彩っていく。
涼介の大阪出張が決まった時、翔は笑って言った。
『なあ、美優の新しいマンション、行ってみたい』
『だめに決まってるでしょ! 涼介の家だよ!』
『いいじゃん。どうせバレねえって。婚約者の城でイチャつくとか、最高に興奮しねえ?』
背徳感は、最高のスパイスだった。
涼介が選んだ高級なソファで、涼介の悪口を言いながら翔と飲むビールは、蜜の味がした。
『なあ、これ、すげー高いんだろ? 美優の婚約者、趣味悪ぃのな』
翔が、リビングの隅にある気味の悪い観葉植物を指差した。
涼介が「イエローマリリン」とか言って、やたら大事にしている鉢植えだ。
『やめなよ、翔。涼介の大事なやつなんだから』
私の制止も聞かず、翔は飲みかけのビールをその鉢植えに注ぎ込んだ。
『いいじゃん、栄養だって。ほら、飲め飲めー』
その時は、おかしくてたまらなかった。
涼介が大事にしているものを、私と翔が踏みにじっている。
私たちは、涼介より「上」にいる。そんな気がした。
涼介の家族カードで、翔に18万円のマッサージチェアを買ってあげた時も、同じだった。
「会社で使う備品だから」
そう言えば、カタブツの涼介は何も疑わなかった。
ああ、なんてチョロいんだろう。
出張から涼介が帰ってきた日。
私は完璧な婚約者を演じた。
観葉植物のことは、慌てて水をやって誤魔化した。涼介は少し眉をひそめていたけれど、
「処置すれば間に合う」
と言っていたから、きっと大丈夫なんだろう。
「結婚式、楽しみだな。人生で一度きりの、特別な日になる」
あの夜、涼介が私を抱きしめてそう言った時、私は勝利を確信していた。
この男は、何も知らない。
私は、刺激的な「恋人」と、安定した「夫」の両方を手に入れたんだ、と。
だから、あの日の午後。
結婚式の一ヶ月前に、涼介が「両家の親を呼んだ」と言った時も、私は何の疑いも持たなかった。
「もう、涼介ってたまに強引なんだから。わかったよ、ちゃんとお化粧しなきゃ」
きっと、式の演出か何かの、嬉しいサプライズだと思っていた。
お義父さんたちが緊張した顔でリビングに入ってきた時も、まだ、気づかなかった。
「これより、氷室涼介・水無瀬美優 両家の結婚式に関する、緊急動議を行います」
涼介が、聞いたこともないような冷たい声でそう言った。
法廷ドラマみたいなセリフ。
彼が法務部だということを、私はその時、初めて本当の意味で思い知った。
テーブルに並べられた「資料」。
私と翔がキスをしている、あの日の写真。
ホテルに出入りする、生々しい報告書。
「…………は?」
頭が、真っ白になった。
なんで? どこで? いつの間に?
「この男、火野翔。君の同僚だ。先月、俺が出張中、君はこの男をこの家に招き入れた。違うか?」
いつもの穏やかな涼介は、どこにもいなかった。
私を見下ろす彼は、まるで罪人を尋問する検事のようだった。
「あ……そ、それは、仕事の相談で……」
「仕事の相談で、俺の観葉植物にビールを飲ませるのか?」
心臓が凍りついた。
バレていた。全部。
「待って! 待ってよ涼介! ごめんなさい! 私が悪かった! 翔とは、遊びだったの! 本当に、出来心で……!」
私は、泣きながら彼の足にすがりついた。
この「安全地帯」を失うわけにはいかない。
でも、彼は私を虫ケラでも見るような目で一瞥し、振り払った。
「遊びで、婚約者がいる男の家に上がり込むのか。遊びで、俺の金でプレゼントを買うのか。遊びで、人の大切なものを壊すのか」
そして、彼が突きつけた「損害賠償請求書」。
キャンセル料、450万円。
家具代とクリーニング代、150万円。
慰謝料、500万円。
合計、1100万円。
「ふざけないで! そんなお金、払えるわけないじゃない!」
私の悲鳴は、彼には届かなかった。
「払えるかどうかは、君と火野翔が相談することだ」
「ああ、そうだ。念のため、君たちの勤務先である広告代理店の人事部にも、同じものを『参考資料』として送っておいたよ」
目の前が、真っ暗になった。
会社。そうだ、会社はどうなる?
私と翔の、エリートとしての未来は。
「う、うわああああああ……!」
泣き叫ぶ私を、父が殴り、母が泣き崩れ、涼介の両親が冷たい目で見ている。
地獄だった。
私が「地味でカタブツ」と見下していた男によって、完璧に仕組まれた、地獄の舞台だった。
……すべてを失った。
会社には居場所がなくなり、実質的な左遷辞令。翔は会社を辞めた。
両親は慰謝料の一部を肩代わりしてくれたけれど、私を「勘当だ」と突き放した。
涼介がローンを組んだあの新築マンションも追い出され、今は都落ちした地方の、狭いワンルームで暮らしている。
スマホの電話帳から、「氷室涼介」の名前を探す。
何度か非通知で電話をかけた。
でも、彼は一度も出てくれない。
『もう一度やり直したい』
『助けて』
『私が本当に愛していたのは涼介だけだったの』
伝えたい言葉はたくさんあるのに、もう、彼に届くことはない。
私は、法務部の人間を甘く見ていた。
彼らが、どれだけ冷静に、どれだけ執拗に、そしてどれだけ合法的に「証拠」を集め、相手を「破滅」させることができるのか、知りもしなかった。
後悔しても、もう遅い。
私の「完璧な人生」は、あの観葉植物が枯れた日と同時に、終わっていたのだ。
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