EP 9
神の問いと法曹の答え
神聖法廷(スペリオル・コート)の無限の白に、リベラの告発が響き渡る。
それは、被告人マルスという「個人」の罪を、世界を管理する「神」の責任へと拡大する、前代未聞の弁論だった。
「――私の、責任だと?」
女神ルチアナの声は、無限の空間で、怒りも動揺も感じさせない「無」として響いた。
だが、その「無」こそが、デューラ検事には神の怒りの前兆として、佐藤健義には底知れぬ法理の深淵として感じられた。
「リベラ! 貴様!」
デューラが、神の御前(ごぜん)であることも忘れ、リベラに掴みかかろうとする。
「女神ルチアナ様に対し、なんたる不敬を! 罪を犯す『自由意志』を与えられたのは人間(・・)だ! 社会がどうあれ、一線を越えたマルスの責任はマルス自身にある! それこそが『法』の前提であろう!」
「違います、デューラ検事!」
リベラは、神の威光とデューラの怒気を前に、一歩も引かなかった。
「その『自由意志』は、公正な環境において初めて意味を持つのです!」
リベラはルチアナに向き直り、その純真な瞳に、狂信的ですらある「慈悲」の炎を宿らせた。
「ルチアナ様! あなたはアナステシアに『法と秩序』を望まれました。そのために佐藤さんを召喚されました。……なぜです?」
「……」
「それは、この世界に『法』が無かったからではありませんか! 『力』(魔法や闘気)と『偏見』(差別)と『強欲』(ゴルド商会のような)だけが支配する、不公正な世界だったからです!」
リベラは被告人席で震えるマルスを指差した。
「マルスさんは、その『不公正』に押し潰された弱者です! 彼はゴルド商会という『強欲』に追い詰められ、衛兵隊という『偏見』を利用しようとし、『力』で問題を解決しようとした! 彼は、あなたが放置してこられた、この世界の『歪み』そのものが生み出した『罪人』なのです!」
「彼一人の『自由意志』に全ての罪を負わせ、彼一人の力を10年間奪って、それで何が解決するのですか! あなたの望む『法と秩序』とは、その程度のものだったのですか!」
「……リベラ」
デューラは、リベラのあまりの論理飛躍と神への冒涜に、絶句した。
(……違う。飛躍ではない)
佐藤だけが、法廷補佐官席で、冷や汗を流していた。
(リベラは、『法』を語っていない。これは『神学論争』だ。彼女は、神の『統治責任』を問うているんだ)
(そして、その論理は、俺が「慶」としてやろうとしていること――『社会の啓蒙』の必要性と、恐ろしいほどに一致している……!)
佐藤は、自分がこの法廷で「何を」問われることになるのかを悟り、身を強張らせた。
「…………」
ルチアナは、全ての弁論を聞き終え、静かに目を閉じた。
そして、ゆっくりと目を開くと、リベラでも、デューラでも、マルスでもない人物――法廷補佐官席の佐藤健義に、その神々しい視線を固定した。
「法廷補佐官、サトウ・ケンギ」
「……はっ」
佐藤は、心臓を鷲掴みにされたかのように、声を絞り出した。
「あなたの意見を求めます」
「!」(リベラ、デューラ)
「あなたは、この者たちとは違う世界、『法』がすでに確立された世界から来た。……あなたの世界の『法』は、このリベラの主張をどう判断しますか?」
神の問い。
それは、佐藤健義の「法曹」としての知識と、「慶」としての「思想」の、どちらを優先するかを試す、悪魔の質問だった。
佐藤は、魔界トウガラシの小瓶を握りしめたかったが、神の御前でそれは許されない。
彼は、震える指を隠すように強く握りしめ、立ち上がった。
「……お答えします、ルチアナ様」
佐藤は、一度、リベラとデューラを交互に見た。
「私の世界の『法』も、デューラ検事の主張を是(ぜ)とします。『行為』の責任は、行為者本人に帰属する。社会がどうであれ、殺人を犯したマルスの『罪』は、決して免除されません」
デューラが、その言葉に「(そうだ!)」と強く頷く。
「ですが」と佐藤は続けた。
「リベラ弁護士の主張……すなわち『社会的背景』は、『刑罰』を決定する上で、極めて重要な要素として考慮されます」
「!」(リベラ)
「私の世界では、法は『罰する』ためだけにあるのではありません。『更生(こうせい)』させるため、そして『社会を改善する』ためにも存在するのです」
「マルスのような人間を生み出した『社会の歪み』を、法廷が公式に認め、その『歪み』を正すよう、立法府(社会)に勧告することすらあります」
佐藤は、福沢諭吉の教えを、自らの「法」の言葉で語っていた。
「……つまり、補佐官。あなたの答えは」
ルチアナが、静かに促す。
「はい」
佐藤は、神である裁判長を真っ直ぐに見据えた。
「デューラ検事の『断罪』も、リベラ弁護士の『慈悲(社会改善)』も、両方とも『法』であり、どちらも欠けてはなりません。それが、私の学んだ『法』です」
法廷は、再び絶対的な沈黙に包まれた。
天使二人の対立する正義の、そのど真ん中を射抜く答え。
それが、異世界から来た「法曹」佐藤健義の回答だった。
「…………」
ルチアナは、初めて、その完璧な美貌に、人間的な「笑み」――満足そうな、あるいは、意地の悪い笑み――を浮かべた。
「見事な回答です、補佐官」
ルチアナは、被告人マルスに向き直った。
「被告人マルス。あなたの罪は、決して社会のせいだけで許されるものではありません。デューラ検事の言う通り、あなたは一線を越えた。その事実は揺るがない」
「しかし」とルチアナはリベラを見る。
「リベラ弁護士の言う通り、あなたのような弱者を生み出す『歪み』を、私が、そしてこの法廷が放置することも、また『悪』でしょう」
「よって、上告審における最終判決を言い渡します」
ルチアナは、木槌(それはただの光の具現だった)を手に取った。
「被告人マルスに対し、第一審の『懲役10年』の判決を、破棄する」
「!」(全員)
「被告人マルスに、懲役5年(5年間の闘気剥奪)を命じる」
「(やった!)」
リベラが、小さくガッツポーズを取る。減刑を勝ち取ったのだ。
デューラは「甘すぎる!」と怒りに震える。
だが、ルチアナの判決は終わっていなかった。
「――ただし。その刑期5年を満了した後、被告人マルスには、追加の『更生プログラム』として、懲役(ほうし)20年を命じます」
「……は?」
リベラの間抜けな声が漏れた。減刑どころか、合計25年の重罰だ。
「その『更生プログラム』の執行監督官(かんとくかん)として――」
ルチアナの視線が、補佐官席の佐藤健義を射抜いた。
「法廷補佐官、佐藤健義を任命します」
「…………はい?」
「あなたが、あなたの世界の『法』がそうであると述べたのです。刑罰は『更生』と『社会改善』のためにある、と」
ルチアナは、完璧な笑顔で言い放った。
「マルスを更生させ、彼のような人間を二度と生まない『社会』を、あなたが作りなさい。これは、この神聖法廷(スペリオル・コート)からの『命令』です」
「……な」
「もちろん、その活動に必要な経費は、公金から『妥当な範囲で』支出することを認めましょう。……あなたの『サロン』運営にも、役立つのではありませんか?」
「(!! 知っていたのか!?)」
佐藤は、自らのオフタイムの活動――「慶」としてのゴルド商会との契約――が、この女神に筒抜けであったことを知り、絶句した。
「被告人マルスは、あなたの『啓蒙サロン(塾)』の、記念すべき生徒第一号です。佐藤裁判官」
神の判決。
それは、真犯人マルスに罰を与えると同時に、リベラの「社会を救え」という理想を認め、そして、佐藤の「オン(法廷)」と「オフ(啓蒙)」の二重生活を、強制的に統合させる、恐るべき「一手」だった。
「そんな……! それでは、佐藤さんが過労で死んでしまいます!」
リベラが慌てて抗議するが、もう遅い。
「異議は認めません」
ルチアナは、神々しいまでの笑顔で、光の木槌を振り下ろした。
「これにて、閉廷」
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