EP 8
上告、そして神の法廷
リベラの高らかな「上告宣言」は、白亜の法廷を絶対的な沈黙で凍りつかせた。
「……ッ!」
佐藤健義は、裁判官席で、その人生で経験したことのないレベルの「想定外」に直面し、思考が停止しかけていた。
魔界トウガラシの灼熱の痛みが、もはやこの事態の異常性を中和する役に立たない。
「(……リベラ。貴様……何を言っている?)」
「(法秩序の構築を怠った、ルチアナ様の責任? 馬鹿な。それは法治(ルール)ではない。無秩序(アナーキー)への回帰だ!)」
最初に我に返ったのは、検察官デューラだった。
「ふざけるなッ!! リベラァァ!!」
神聖法廷が、デューラの怒号で震える。
「貴様、正気か! 自らの勝利を捨て、あまつさえ、我らを召喚されし女神ルチアナ様ご本人を『被告』とすると申すか!」
「違いますよ、デューラ検事」
リベラは、デューラの怒気をものともせず、純真無垢な笑顔で振り返った。
「私は、ルチアナ様を『被告』にしたいんじゃない。『本当の裁き』をお願いしたいんです」
「何だと……?」
「マルスさんを『懲役10年』にして、この事件を終わらせていいんですか? 彼は『加害者』であると同時に、ゴルド商会との不公正な取引や、この街の差別意識に追い詰められた『被害者』でもあります」
リベラは、法廷に召喚されていた衛兵隊長や、野次馬(裁判員)たち、そして無罪となったリオを指差した。
「この『歪んだ社会』そのものを正さない限り、第二、第三のマルスさん、第二、第三のリオ君が生まれるだけです! 根本的な『病巣』を裁かずして、何が神の法廷ですか!」
「それは……!」
デューラは言葉に詰まる。彼もまた、この世界の「常識」の歪さには気づいているからだ。
「……リベラ弁護士」
佐藤が、かろうじて裁判官としての仮面を保ち、低い声で問うた。
「君の主張は『法』ではない。それは『革命』の思想だ。君は、法廷を政治(まつりごと)の道具にするつもりか」
「いいえ」
リベラは首を振った。
「慈悲(じひ)なき法は、力による支配と同じです。……佐藤裁判官。あなたも、あの民意(裁判員)の声を聞いたはずです。あなたの『法(ルール)』が、この世界の人々の『感情(こころ)』と、どれほど乖離(かいり)しているか」
「……」
「だから、お願いするんです。法と慈悲の頂点におわす、ルチアナ様に。この矛盾した世界で、本当の『救い』とは何かを、示していただきたいのです」
「…………」
佐藤は目を閉じ、長く、息を吐いた。
もはや、この天使弁護士の暴走を、下位裁判官である彼が止めることはできない。
このシステム(天上天下唯我独尊)は、「上告」の権利を認めてしまっている。
佐藤は、人生最大の屈辱と敗北感を噛み締めながら、宣告した。
「……被告人マルス側弁護人、リベラによる『上告』を、受理する」
その瞬間。
佐藤が木槌を打ち鳴らすよりも早く、世界が「白」に塗りつぶされた。
「ここは……?」
次に目を開けた時、彼らは佐藤が作り出した「模倣(イミテーション)の法廷」にはいなかった。
そこは、床も壁も天井も、物理的な境界が一切存在しない、無限に続くかのような「純白の空間」だった。
大理石ですらない。光、そのもの。
被告人マルス、衛兵隊長、リオ、そしてデューラまでもが、その神々しすぎる空間の「圧」に気圧され、膝をつきそうになる。
「(……これが、『神聖法廷』の上位……?)」
佐藤だけが、法曹としての意地で、まっすぐに立っていた。
空間の遥かかなた、光が最も強く集う場所に、一体の影が立っていた。
それは、彼らを召喚した女神、ルチアナだった。
普段の「経費が……」と悩む気さくな姿ではない。
感情を一切排した、完璧な「美」と「秩序」の具現。
彼女がそこに『存在する』だけで、空間が法(ルール)として定義されるかのような、絶対的な存在感。
彼女の前に、佐藤が召喚した時と同じ、裁判官席、検察官席、弁護人席が、光によって自動的に構築されていく。
ただし、裁判官席は一つだけ。
「……佐藤健義。デューラ。リベラ」
ルチアナの声は、耳で聞いたのではなく、魂に直接響いた。
「『上告』、受理しました」
ルチアナは、自らその中央の裁判官席に着いた。
「佐藤健義は、第一審の裁判官として、法廷補佐官の位置につきなさい」
「……はい」
佐藤は、自らが「裁判官」ではなく「補佐」に降格されたことを受け入れ、ルチアナの脇に設けられた席に着いた。彼の顔には、タバスコを求める時以上の苦渋が浮かんでいる。
「デューラ検事。あなたの論告(ろんこく)は、第一審の判決(懲役10年)を是(ぜ)とするものですね?」
「はっ……! も、勿体無きお言葉……。ですが、神の御前(ごぜん)なれど、私の主張は変わりません。懲役10年ですら甘すぎる! 悪は断罪されるべきです!」
デューラは、神の威光を前にしても、検察官としての信念を曲げなかった。
「結構です」
ルチアナは、そのデューラの気概を静かに受け止めると、最後の人物に視線を移した。
「――弁護士リベラ」
「はいっ!」
リベラだけが、この神威の中で、嬉々として背筋を伸ばしていた。
「あなたの主張を述べなさい」
女神ルチアナは、一切の感情を見せず、被告人マルスを救おうとする天使に、問いかけた。
「なぜ、この男の罪が、私の『責任』だと?」
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