偽物の恋を本物にするのに魔法は必要ですか?
霰石琉希
プロローグ
手狭な部屋の中に本を捲る音が聞こえている。ローブの衣擦れ、フラスコの中で湯が沸く音、万年筆が紙を滑る音、遠くから聞こえる誰かの話し声。淹れてから時間が経って冷めたアプリコットティーに手が付けられる気配はない。炎が灯らない古びたランタンの下、数えきれない本に囲まれて一人の女が革張りの一人掛けソファに腰かけていた。窓から差し込む木漏れ日を受けて黒にも見える髪が緑色を帯びる。本を読みやすいようにと適当に纏められた髪には蝶を模したマジェステ。あしらわれたガラス玉がきらきらと輝いている。
ゴーン、ゴーン、ゴーン……
不意に重たくて鈍い鐘の音が鳴り響いた。女はその音に顔を上げると机の上を軽く片付け、本を閉じてから外へ続く扉を見つめる。その視線は何かの来訪を待っているようにも、何かの来訪に怯えているようにも見えた。
コンコンコン。
ノックの音が聞こえる。女が返事をする前に、無断で扉が開いた。クリーム色の髪をした一人の少女が扉から顔を出す。
「こんにちは、ベラドンナ先生」
「学校ではウェステリオンと呼んでください……それと勝手に扉を開けないで、ラウラさん」
女____ベラドンナ・ウェステリオンを「先生」と呼んだ少女は、ピンクパールをはめ込んだような瞳を喜色で満たしながら教官室の中へと入ってきた。そして本の積まれていない開いたソファに腰かける。
「いいじゃないですか、私と貴方の仲なのですから。それに、ここなら誰も見ていませんよ?」
「私が見ています。制服も着崩さない」
少女_____ラウラ・ジージの羽織るジャケットのボタンは全て外されて、中のシャツが見えている。ベラドンナはラウラに目もくれず簡潔な注意だけをよこした。そんなベラドンナにラウラは肩を竦め、ソファから立ち上がると部屋の隅に置いてある花瓶に近づいた。黒い陶器の器に刺さった枯れかけの薔薇を持ち上げる。
「次のお花はどれにしましょうか」
「……まだ持ってくる気ですか?」
「だって先生の教官室、彩りが少ないでしょう。緑や赤や黄色があったほうが素敵ですよ」
「だからと言って、増やしすぎなんですよ」
ベラドンナは部屋の中を見回した。積まれた本や小物の間を縫うようにして花瓶や鉢植えが所狭しと並べられている。部屋の主の趣味ではない。すべてラウラが気紛れに持ってきたものだ。
「でも先生、捨ててないでしょ?」
「……捨て方がわからないだけです」
図星を付かれてそっぽを向くベラドンナに、ラウラはうっすらと微笑んだ。じっとりと向けられる視線に居心地の悪さを感じたベラドンナは右手をラウラに向かって振る。
「ほら。用もないのにいつまでも教官室にいると、怪しまれてしまいますよ。早く帰りなさい」
「そんな寂しいこと、言わないでくださいよ」
ラウラは文机に手をついてベラドンナの傍に身を乗り出す。枯れかけの薔薇の薄まった香りが二人の間に漂った。ベラドンナの姿に影を落としたラウラは耳元で弾けるような笑い声をあげる。
「私たち、恋人なんですから」
湿度を含んだあまく優しい囁きにベラドンナは身を固くする。教官室には二人の息遣いと身じろぐたびに起こる衣擦れの音が聞こえていた。長い沈黙の後、ラウラはすっと文机から身を引いた。
「……すみません、お仕事、お忙しいですよね。また来ます」
ラウラは頭を下げると、ジャケットのボタンを綺麗に付け直して教官室を出ていった。靴音が遠ざかっていく中、体に無意識に入っていた力を抜いたベラドンナは外へ大きなため息をつく。
______また、言えなかった。
すっかり冷めたアプリコットティーは頭を冷やすのにはちょうどよかった。人の気配のない教官室で、ベラドンナは一人ラウラの姿を思い浮かべる。明るくて誰にでも優しく優秀な生徒だった。
自分がラウラの恋人などでないことを告げたら、彼女はどんな顔をするのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます