第2話 天井から落ちてきたのは、掃除中の天使でした
──話は、天界単独突破より少し前にさかのぼる。
魔界の中心、黒い塔の最上階。
魔王城の謁見の間は、いつも通り静かだった。
「北西の森、天界側からの偵察らしき反応が一件。すでに追い払いました」
「よし。追撃は不要だ。こちらの戦力をむやみに見せるな」
玉座の前で報告を読み上げるのは、側近のイオだ。
黒髪をひとつに結び、書類を抱えた痩せ型の魔族。
「前線の第三師団から。“光槍二十発ほど飛んできましたが、被害は木が数本折れただけです”とのことです」
「此方からも威嚇しろ。“次はない”とだけ伝えろ。」
「……また物騒な一文ですね」
「伝わりやすいだろう」
ルシアンは、淡々と答える。
黒い玉座に深く腰掛け、肘掛けに片肘をつき。
金色の瞳は冷たく静かで、声にも感情らしいものはほとんど乗らない。
情はない。
そう言われ続けてきたし、自分でもそう思っている。
「次だ」
「はっ。魔界南部の村から、“天界の光が空を横切った”との報告が……」
イオが言いかけたところで──
ゴウン、と謁見の間全体が揺れた。
「……地震?」
「ここで地震は聞いたことがないが」
ルシアンがわずかに視線を上げる。
次の瞬間。
バキィィィンッ!!
天井が、派手な音を立てて割れた。
「陛下!!」
「伏せろ!!」
イオが叫び、重臣たちが一斉に身をかがめる。
黒い石片が雨のように降り、白い光が降り注いだ。
眩しさに誰もが目を細めた、その中心に──
何か白い塊が、ものすごい勢いで落ちてきた。
「きゃああああああああああ!!」
悲鳴と共に、その白いものは見事に軌道を誤り、
魔王の頭上からまっすぐ──
玉座の前の床に、顔面から突き刺さった。
ぐしゃっ。
妙に情けない音がした。
「……」
「……」
謁見の間が、別の意味で静まり返る。
白い塊は、ぴくぴくと震えながら、ゆっくり起き上がった。
ふわふわの白い羽。
すすで黒くなった金髪。
大きな翅が片方、変な方向に曲がっている。
「……あ、床って……固いですね……」
よくわからない感想が出てきた。
イオが目を見開いて叫ぶ。
「て、天使……!?」
その声で、場の空気が一気に張り詰める。
「天使だと!?」
「天界の攻撃か!?」
「陛下の目の前に直接……!?」
重臣たちが一斉に武器に手を伸ばし、
魔力がざわりと渦巻く。
(……自ら乗り込んできたか)
ルシアンは静かに立ち上がった。
目の前の天使はまだふらふらしていて、
完全に状況を把握していない顔をしていた。
「警戒態勢。全員、下がれ」
ルシアンの一声で、魔族たちは一歩下がり、天使を囲む形になる。
殺気はまだ抑えている。
だが、一触即発の空気だった。
ルシアンは、天使を見下ろしながら問うた。
「……天使。ここがどこか分かっているか」
「えっ?」
天使はくるりと周囲を見回し、
少し考えてから、きらきらした目で言った。
「わあ……真っ黒……魔界ですね!」
「正解だが……嬉しそうに言うところではない」
イオが小声で突っ込む。
ルシアンは続けた。
「ここは魔王城だ。魔界の中心であり、前線ではない」
「へえ〜……一番危ないところですね!」
「どういう認識だ」
ルシアンの声に、わずかな苛立ちが混じる。
天使はきょとんとして首をかしげた。
「えっと……魔王さま、ですか?」
「そうだ」
「はじめまして! 天使のセラフィナですっ!」
自信満々に名乗った。
そして、なぜか胸を張る。
魔族たちがざわめく。
「自分から名乗ったぞ……」
「偽名では? いやあの頭のゆるそうな顔で偽名を使うか……?」
ルシアンはひとまず、要点だけを問うことにした。
「セラフィナ」
「はいっ!」
「どうやってここに来た」
ほんの一瞬で、謁見の間の空気がさらに重くなる。
天使が敵地の中心に現れた。
それはつまり、天界が何かしらの手段で“魔王城の座標”を掴んでいる可能性があるということだ。
天使の口から出てくる答えひとつで、魔界の安全が揺らぐ。
重臣たちも固唾を呑んで見守る。
「どうやって、ここに来た」
ルシアンはもう一度、はっきりと問うた。
セラフィナは、少しだけ考えて──
まるで天気の話でもするみたいな顔で答えた。
「掃除してたら、ここに来ました!」
「…………」
「…………?」
「…………は?」
ルシアンの眉が、ぴくりと動いた。
イオが口を挟む。
「すみません、もう一度だけいいですか。
“掃除してたら”?」
「はいっ!」
セラフィナは自信満々だ。
「お掃除してたら、気づいたら落ちてました!」
「どこを掃除していた」
「えっとですね……」
セラフィナは指をぽんと立てた。
「天界の、誰も使ってなさそうなお部屋です!」
「誰も使ってなさそうな部屋?」
ルシアンが目を細める。
イオが小声で補足した。
「……陛下、“誰も使ってなさそう”という時点で、嫌な予感しかしませんが」
「俺もだ」
セラフィナは気にせず続ける。
「なんかですね、ボタンがいっぱいあるお部屋があって!」
「ボタン?」
「はい! 壁にも床にも、ぴかぴか光る丸いのがいっぱいついてて!
すっごくホコリかぶってたんです!」
(ああ……)
イオが顔を覆った。
「心当たりがあるのか」
「たぶん昔、天界と魔界の間で使われていた“転移装置の部屋”です。
前に、あちらから魔界側への干渉を防ぐために、
『妨害結界』を張って止めたと聞いています」
「つまり、今は使えないはずの装置の部屋か」
「はい。放置されていると噂でしたが……」
イオがセラフィナに視線を戻す。
「……そこで何を?」
「掃除ですっ!」
セラフィナは胸を張った。
「誰も掃除してなさそうだったので、“あっ、これは掃除しなきゃ!”って!」
「使命感の方向がおかしい」
「はいっ!」
肯定するな、という突っ込みは飲み込まれた。
「それで?」
ルシアンが促す。
「はいっ。ボタンがいっぱいあるところって、なんか“押したらダメ”って感じするじゃないですか」
「分かる」
イオがうっかり頷いた。
「だから、押さないように、そーっと拭いてたんです!」
「……」
「そしたら、床が光って、“あっ”ってなって、“あれ?”って思って、“きゃあああ”ってなって、気づいたら天井がなくて、床があって、顔が痛かったです!」
最後まで説明になっていない。
ルシアンはこめかみに手を当てた。
「まとめると」
「はいっ!」
「使えないはずの転移装置の部屋で、
ボタンだらけの操作盤を掃除していたら、
なぜか起動して、座標がここに合って、
そのまま魔王城の天井を突き破って落ちてきたということか」
「すごいです! 魔王さま、賢いですね!」
「褒めるところがずれている」
---
謁見の間の魔族たちは顔を見合わせた。
「転移装置って……あの“昔の遺物”か?」
「妨害結界があるから、もう動かないはずだっただろう」
「てことは……魔界側の結界に穴があるってことか……?」
イオが真剣な顔に戻る。
「陛下。魔界の妨害結界に不備があるとすれば、
こちらとしても無視できません」
「そうだな」
ルシアンも表情を引き締めた。
「魔界側の防御には問題はないか、改めて確認しろ。
それと──」
彼は、セラフィナを一瞥する。
「天界について、詳しく聞く必要があるな」
「えっ、わたしですか?」
「他に誰がいる」
「なるほど!」
納得するな。
---
「イオ」
「はい」
「魔界の“転移妨害結界”の構成を調べられる者を集めろ。
魔術師でも、結界術師でもいい。“穴”がないか洗い直せ」
「承知しました」
「特に、座標干渉の部分だ。
魔王城にぴたりと繋がるなど、本来ありえん」
「天文学的確率ですね」
イオは苦笑しながらメモを取る。
「それと──」
ルシアンは、セラフィナに視線を戻した。
「お前」
「はいっ!」
「今の話に嘘はないな」
「ありませんっ!」
即答だった。
嘘をつける頭があるかどうかも怪しい。
だが、敵は敵だ。
ルシアンは、迷いなく命じた。
「牢に入れておけ」
「えっ」
セラフィナが固まる。
「ちょっと待ってください!?」
「後で尋問する。
天界と転移装置の仕組みについて、
分かる範囲で全て吐いてもらう」
「吐くって言い方やめてください、怖いです!!」
「安心しろ。必要以上には傷つけない」
「必要以上には!?」
セラフィナが涙目でじたばたする。
「陛下、殺すおつもりは?」
イオが小声で尋ねる。
「今のところはない」
「“今のところ”を付けるのやめてあげてください」
魔族の兵が二人、そろそろと近づく。
「天使セラフィナ、悪く思うな。これも戦時中だからだ」
「悪く思います!! めちゃくちゃ思います!!」
「元気だな」
「元気だから帰してほしいです!!」
「帰られては困る」
ルシアンは淡々と言い切った。
「お前は天界の鍵かもしれん。
掃除ひとつで世界の防壁を抜けるやつは、放置できん」
「それ褒めてないですよね!?」
「褒めていない」
「はいっ!」
セラフィナはなぜか誇らしげだった。
---
「連れて行け」
ルシアンの一言で、兵たちがセラフィナの両脇をそっと押さえる。
「や、やさしくしてくださいね!? 乱暴はめです!!」
「“めです”とは何だ」
「だめってことです!」
「なら最初から“だめ”と言え」
「はいっ!」
セラフィナは元気よく返事をしながらも、
ずるずると牢の方角へ連行されていく。
扉の前で、ふと振り返り、
ルシアンを見上げた。
「魔王さま!」
「何だ」
「さっき、落ちてくるとき、助けてくれてありがとうございました!」
「助けてはいない。勝手に落ちてきた」
「でも、下に床があってよかったです!」
「その理論だと、床に感謝しろ」
「床さんありがとうございます!」
謁見の間の全員が、どっと疲労を覚えた。
扉が閉まり、
天使の姿が見えなくなる。
静寂が戻った謁見の間で、イオが小さく呟く。
「……どうします、陛下」
「決まっている」
ルシアンは玉座に戻り、腰を下ろした。
「まずは、あの転移装置と結界の“穴”を潰す。
それから──」
ほんの一瞬、視線が牢のある方向へ流れた。
「天使を尋問する。
掃除の話から、天界の内部構造までな」
「“掃除の話”からなんですね……」
「そこからしか始まらんだろう」
魔王の声は、いつもと同じ冷たさだった。
だがイオには、ほんのわずかだけ、
“興味”に近いものが混じって聞こえた。
(……陛下)
側近として長く仕えてきた感覚が告げる。
(これは、ただの敵では終わらない)
その予感が当たっていることを、
このときのルシアンはまだ知らない。
牢屋に放り込まれた天使と、
そこで交わすどうでもいいような会話が──
やがて、魔王の心に“情”を芽生えさせる始まりになることを。
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