第34話 巨大な影が落ちても、彼女はそれを「羽虫」としか認識しない

 ねっとりとした緑色の液体が、白大理石の表面をゆっくりと滑り落ちていく。


 私がさっきまで必死に磨き上げ、鏡のような光沢を取り戻していた台座の角。そこに、ワイバーンの切断面から溢れ出た体液が、新たな汚れの層を作っていた。

 鼻を突くのは、腐った卵を夏の日に放置したような悪臭だ。

 私は手にしたデッキブラシの柄を強く握りしめた。木製の柄がミシミシと音を立てる。

 洗剤の泡は消え、バケツの水はドブのように濁っている。


「……はぁ」


 肺の底から重い空気を吐き出した。

 視線を上げると、レオナ団長が期待に満ちた目でこちらを見ている。

 彼女の頬には緑色の血が跳ねており、それが興奮の紅潮と混じり合って、なんとも言えない凄惨な化粧になっていた。


「いかがですか、シズ様。これで邪魔者はおりません」


 彼女は血塗れのガントレットを胸に当て、誇らしげに言った。

 足元には、肉塊と化した元・魔獣たちが転がっている。


「団長」


 私は指先で、台座の汚れを拭ってみた。

 粘着質の液体は伸びるだけで、落ちる気配がない。


「散らかしすぎ」


「……へ?」


 レオナ団長の動きが止まった。

 彼女はきょとんとして、自分の足元と、緑色に染まった台座を交互に見た。

 そして、ようやく事態を理解したように顔面を蒼白にさせた。


「も、申し訳ありません! 敵を排除することに夢中で……神聖な清掃現場を、このような汚物で……!」


「いいよ、もう。水で流すから」


 私はブラシを置き、近くにあったホース(魔石動力のポンプ式)を引きずってきた。

 その間も、観客席からは悲鳴とも歓声ともつかないざわめきが波のように押し寄せている。

 彼らは、目の前で起きた一方的な虐殺劇をどう処理していいかわからないのだ。


 貴賓席では、宰相が手すりを乗り越えようとして足を滑らせていた。

 彼の顔色は、死人のように白い。

 震える指が、空の一点を指していた。


「く、来る……。血の匂いを嗅ぎつけて……奴が来る……!」


 宰相のうわ言は、風に乗って私の耳にも届いた。

 

 ザァァァッ……。


 突如、闘技場に冷たい風が吹き込んだ。

 砂埃が舞い上がり、私のスカートを激しく叩く。

 太陽が雲に隠れたわけではない。

 なのに、足元の影が急速に濃くなり、周囲が夕暮れのように薄暗くなった。


 バサッ、バサッ。


 重厚な羽音が、空気を圧縮して鼓膜を圧迫する。

 私はホースの蛇口を捻る手を止めて、空を見上げた。


 そこに、山があった。


 いや、山ではない。

 鋼鉄のような黒い鱗に覆われた、巨大な生物が旋回していた。

 翼開長は闘技場の直径ほどもあるだろうか。

 太い首。槍のように尖った牙。

 そして、溶岩のように赤く燃える瞳。


 エンシェント・ドラゴン。

 宰相が用意した「演出用」の檻には到底収まりきらない、食物連鎖の頂点。

 それが、新鮮な血の匂いに誘われて、王都の上空に降臨していた。


「ひ……ぃ……」


 近くで腰を抜かしていたピナが、喉の奥から空気が漏れるような音を出した。

 彼女の目は焦点が合わず、ただ絶望だけを映している。

 レオナ団長たちが即座に反応し、私を囲むように陣形を取った。


「総員、構えッ! シズ様をお守りしろ!」


 彼女たちの声には緊張が混じっていた。

 さっきのワイバーンとは格が違うことを、肌で感じ取っているのだ。


 ドラゴンが大きくあぎとを開いた。

 喉の奥で、紅蓮の炎が渦を巻く。

 

 ゴオォォォォォォ……ッ!


 熱波が降り注ぐ。

 観客席の旗が燃え上がり、人々が逃げ惑う。


 私は眉をひそめ、顔の前で手を振った。


「……煙たい」


 私の目には、その光景が少し違って見えていた。

 恐怖はない。

 あるのは、掃除中に窓から入ってきた「巨大な銀蝿ぎんばえ」を見た時のような、純粋な不快感だけだ。


 せっかく綺麗にしようとしているのに。

 ゴミを増やし、騒音を撒き散らし、悪臭を漂わせる害虫。

 それが、私の平穏な作業を妨害している。


(しつこいなぁ……)


 私はホースを置き、右手で何かのスプレー缶を持つような形を作った。

 イメージするのは、実家の台所に置いてあった、強力な殺虫剤。

 狙いは、空中の黒い点。


「……シューッ」


 口で擬音を唱えながら、私は空に向かって「見えない霧」を噴射した。


 【全範囲祝福・極】――応用形態:【対害虫結界・噴霧式】。


 カシュッ。


 私の指先から、圧縮された魔力が霧状になって放出された。

 それは目には見えない。

 だが、空気が歪み、蜃気楼のような波紋が上空へと駆け上がっていく。


 ドラゴンが、まさに炎のブレスを吐き出そうとした瞬間だった。


 ビクンッ!!


 巨体が空中で硬直した。

 喉の奥の炎が、酸欠になったようにプスンと消える。

 赤い瞳が、焦点の定まらない動きでぐるぐると回転し始めた。


 キ……キキ……ッ。


 ドラゴンの口から、虫が喘ぐような情けない音が漏れる。

 強靭な翼が痙攣し、羽ばたく力を失った。


 ヒュルルルル……。


 落下。

 数トンの質量が、重力に従って真っ逆さまに落ちてくる。

 制御不能の回転落下だ。


 ズズーーーーーンッ!!!


 地響きと共に、ドラゴンは闘技場のど真ん中――汚れた台座のすぐ横に墜落した。

 砂煙が舞い上がり、衝撃で観客席の最前列に亀裂が走る。


 シーン。


 静寂が戻った。

 数万人の人間が、呼吸を忘れてその光景を凝視していた。

 砂煙が晴れると、そこには仰向けになり、手足をピクピクと痙攣させているドラゴンの姿があった。

 白い腹を見せ、舌をだらしなく垂らしている。

 完全に、殺虫剤を浴びてひっくり返ったゴキブリの姿そのものだった。


「……あ、あれ?」


 レオナ団長が、構えていた剣を下ろした。

 彼女は信じられないものを見る目で、私とドラゴンを交互に見ている。


「シズ様……今、何を……?」


「虫除けスプレー」


 私は服についた砂を払いながら答えた。


「夏場は虫が多いからね。……リリス、そこの雑巾取って」


 私はドラゴンにはもう興味がなかった。

 死んではいないだろうが、当分は動けないはずだ。

 それよりも、飛び散った砂埃でさらに汚れてしまった台座の方が問題だった。


 リリスが震える手で雑巾を渡してくる。

 彼女の視線は、ピクピク動くドラゴンの太い脚に釘付けになっていた。


「シズ様……。エンシェント・ドラゴンを……ハエ叩きみたいに……」


「大きいだけで、ハエはハエだよ」


 私は雑巾をバケツの水に浸し、固く絞った。

 ポタリ、と滴る水滴が、静まり返った闘技場に冷たく響いた。

 私の背後では、まだ誰も言葉を発することができずにいた。

 ただ、痙攣するドラゴンの爪が石畳を引っ掻く、カリカリという乾いた音だけが、気まずい空気を埋めていた。

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