第33話 ドレスを破り捨てて現れたのは、白銀の殺意と筋肉だった
鉤爪の先端にこびりついた泥と、古い血の塊が、ピナの瞳孔の奥に映り込んでいた。
ワイバーンの太い指は、痙攣するピナの頭蓋を握り潰すために振り上げられている。
黄ばんだ爪の隙間から、粘着質の液体が糸を引いて垂れ落ち、彼女のピンク色のドレスに新たな染みを作った。
ピナの喉がひきつり、悲鳴さえ形にならない。
ただ、ヒューヒューという頼りない呼吸音だけが、目前に迫る死の足音と重なっていた。
私は、足元のバケツに視線を落とした。
灰色に濁った水面に、波紋が走っている。
ワイバーンが踏みしめた振動が、水面を揺らしていた。
せっかく泡立てた洗剤の泡が、振動で弾けて消えていく。
(あーあ……)
洗剤の配分、完璧だったのに。
私は柄を握る手に力を込めた。
このままでは、私の掃除対象が「台座の汚れ」から「ピナの死体処理」に変わってしまう。それは業務外だ。
だが、私がブラシを構えるよりも早く、頭上から奇妙な音が降ってきた。
ビリィッ!!
布が裂ける音だ。
それも、一枚や二枚ではない。
分厚く、高価な織物が、物理的な力で強引に引きちぎられる破壊音。
ドォォォン!!
直後、ワイバーンの巨体が横にスライドした。
いや、弾き飛ばされたのだ。
数トンはあるはずの肉塊が、まるで蹴られたボールのように空中を滑り、闘技場の石壁に激突してへばりついた。
遅れて、衝撃波が砂煙を巻き上げる。
ピナの目の前に、銀色の杭のようなものが突き刺さっていた。
ヒールだ。
金属で補強された、戦闘用のブーツ。
それが地面のアスファルトを粉砕してめり込んでいる。
「……掃除の」
地を這うような低い声が、砂煙の奥から響いた。
「邪魔を、するな」
煙が晴れる。
そこに立っていたのは、レオナ団長だった。
ただし、先ほどまでの観戦スタイルではない。
彼女が着ていたはずの青いシルクのドレスは、腰から下が無惨に引きちぎられ、上半身も袖が弾け飛んでボロ布のように垂れ下がっていた。
その隙間から覗くのは、柔肌ではない。
鈍く輝くミスリルの胸当てと、関節を覆うチェインメイル。
彼女はドレスの下に、完全武装を仕込んでいたのだ。
「だ、団長……? その格好……」
私が声をかけると、彼女は肩越しに振り返った。
整っていたはずの銀髪は乱れ、瞳は獲物を
「シズ様。申し訳ありません」
彼女は自身の上半身に残っていたドレスの残骸を、煩わしそうに引き剥がした。
ブチブチと糸が切れる音がして、高価なレースが地面に捨てられる。
「我慢できませんでした。シズ様の神聖な清掃作業が、害虫の羽音で汚されるのを黙って見ているなど……騎士の恥です」
言い終わる前に、彼女は地面を蹴った。
爆発的な加速。
壁際で
だが、レオナ団長はすでにその鼻先にいた。
剣は抜いていない。
彼女は白銀のガントレットを嵌めた拳を、ハンマーのように振り上げた。
グシャ。
濡れた雑巾を絞るような音がした。
ワイバーンの頭部が、眼球ごと陥没する。
緑色の血液と
「……次!」
レオナ団長は返り血を拭おうともせず、次なる獲物を探して首を巡らせた。
観客席の方からも、布を引き裂く音が連続して響いていた。
バリバリバリッ!
「暑苦しいドレスなど、動きの邪魔だ!」
バリア副団長が、着ていたワインレッドのドレスを筋肉の膨張だけで弾け飛ばした。
下着姿ではない。
彼女もまた、鋼鉄のすね当てと戦術ベストを着用している。
彼女は観客席の手すりを乗り越え、空中に躍り出た。
狙いは、上空を旋回していたハーピーだ。
「落ちろぉッ!!」
空中でハーピーの足首を掴むと、そのまま遠心力でブン回し、地面に叩きつけた。
ベチャリ。
ハーピーがトマトのように潰れる。
「ひぃぃぃっ!?」
「な、なんだあの女たちは!?」
「脱いだぞ! 中から鎧が出てきたぞ!」
逃げ惑う観客たちが、魔獣への恐怖も忘れて足を止めた。
無理もない。
着飾った貴族の令嬢たちが、次々とドレスを破り捨て(物理的な変身シーンだ)、中から重装備の女戦士が現れては、素手や隠し武器で魔獣をミンチに変えていくのだから。
シュパッ。
新人のリリィちゃんが、スカートの裏に隠していた短剣を
刃は正確にガーゴイルの眉間を貫き、石像の怪物は砂となって崩れ落ちた。
「シズ様の! お掃除を! 邪魔しないでくださぁぁい!!」
彼女は泣きながら(でも手元は正確に)、次々と短剣を放つ。
リリスも翼を広げ、上空から援護射撃を行っていた。
「あらあら、汚いトカゲさんたち。私のシズ様に唾を飛ばすなんて、万死に値しますわよ♡」
彼女が指を鳴らすと、不可視の衝撃波がワイバーンの翼膜を引き裂き、墜落させた。
闘技場は、別の意味での地獄絵図と化していた。
魔獣の
飛び散るのは鮮血と肉片。
そして、無残に散らばる高級ドレスの残骸。
「あ、あ、あ……」
ピナは腰を抜かしたまま、目の前で繰り広げられる一方的な虐殺劇を見上げていた。
彼女の頬に、ワイバーンの返り血が点々と付着している。
自分の呼び寄せた魔獣が、手も足も出ずに解体されていく様は、彼女の理解の範疇を超えていた。
ドサッ。
最後に残っていたワイバーンの死体が、私の目の前に投げ出された。
首から上がない。
切り口からドボドボと溢れる体液が、私が磨き上げたばかりの大理石の台座に流れ込み、白い表面を緑色に染めていく。
「……あ」
私は思わず声を出した。
まだ半分しか終わっていないのに。
洗剤の泡も、濯ぎ用の水も、すべて魔獣の体液と砂埃で汚染されてしまった。
「シズ様! ご無事ですか!」
レオナ団長が駆け寄ってくる。
彼女の鎧は緑色の血でべっとりと濡れ、鉄の臭いと獣臭さを撒き散らしていた。
だが、彼女の瞳は興奮でギラギラと輝き、頬は高揚で紅潮している。
「掃除は完了いたしました! 害虫はすべて駆除済みです!」
彼女は血塗れのガントレットを胸に当て、誇らしげに報告した。
後ろでは、バリア副団長がガーゴイルの首をボールのように弄び、リリィちゃんが死体を蹴って生死を確認している。
「……団長」
私は足元の、緑色に染まった台座を指差した。
「汚れてる」
「え?」
「さっきより、ひどく汚れてる」
私の指摘に、レオナ団長はキョトンとして、自分の足元と、周囲に散らばる肉片を見回した。
腐臭。血の海。
そして、腰を抜かして震えるピナと、呆然とする数万の観衆。
掃除用具を持ったまま立ち尽くす私を、血まみれの騎士団が囲んでいるという、シュールかつ凄惨な構図。
正午の鐘が鳴るまで、まだ時間はあった。
だが、この状況をどう収拾すればいいのか、元社畜の私のマニュアルにはどこにも載っていなかった。
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