女上司と結婚しました

モグぅ

女上司と結婚しました

結婚届を提出した翌朝、目が覚めた瞬間、自分の腕の中で眠っている人を見て、あらためて思った。


俺は本当に女上司と結婚したのか。


薄いカーテン越しの朝日を浴びながら静かに寝息を立てているのは、職場では「鉄仮面・鬼部長」と恐れられ、営業部を立て直したやり手の部長・香坂由美こうさかゆみ


そして今、俺―橘陸たちばなりくの妻になった人だ。


普段の姿を知る同僚が見たら腰を抜かすだろう。あの鋭い視線も、冷たい声色も、いまは影もない。眉は緩み、唇にはかすかな寝癖の跡まである。




正直に言えば、このギャップに毎朝やられている。




―――――




俺が香坂さんの下についたのは三年前。


入社三年目で大きなプロジェクトを任され、初回の会議は惨敗だった。


「橘くん、こんな資料小学生でも作れるよ」


バッサリ切られ、会議室では笑っている人もいた。


でも、終わったあとに残っていた俺に、香坂さんはふっと肩の力を抜いて言った。




「悔しいなら、見返しましょう。あなたは数字を読む目がいい。それを生かせる形にしましょう」


その夜、資料作りに付き合ってくれた。


コーヒーを二人で飲みながら、深夜の会議室で。


そこからだ。


俺は彼女を見るたび、胸の奥が変にざわつくようになった。


そして、失敗した日には必ず一言だけ寄越す。


「大丈夫。あなたならできる」


他の誰にも言われたことがなかった。




―――――




交際のきっかけは、俺のほうからだった。


当時は上司と部下という関係のまま、互いに線を越えるつもりはなかったはずだ。


だがある雨の日、終電ギリギリまで仕事を片づけていた香坂さんが、珍しく弱音を吐いた。


「…頑張っても、全部が報われるわけじゃないのね」


その横顔が泣き出しそうで、俺は気づいたら傘を差し出していた。


「…俺が、支えますよ」


その瞬間、香坂さんが息を呑んだ気配があった。


でも、すぐに表情を整えてしまう。

その強がりを崩したくてたまらなくなった。




交際を申し込んだのは、その翌週だ。


「…ほんとに私でいいの?」


「香坂さんじゃないとダメなんです」




プロポーズは一年後。


レストランで手が震えて、練習した言葉は全部吹っ飛んで、結局はこんな一言しか言えなかった。


「一緒に、人生の先まで行ってほしいです」


香坂さんは驚いたあと、ゆっくり微笑んだ。


「はい。…私も、あなたと行きたい」


思えばあの瞬間が、人生で一番泣きそうだった。




―――――




結婚してまだ数週間だけど、仕事から帰るたびに妻の顔をした香坂さんが玄関で待っている。


料理は不器用だ。包丁の扱いはぎこちない。

だが一生懸命作ったと分かるから、どんな味でも嬉しい。


「陸、明日の会議で使う資料…ちょっとだけ見せて」


「家でも仕事スイッチ入るんですね」


「あなたのことになると、つい気になるのよ」


そんなことを言われたら惚れ直すに決まっている。

会社では今も上司と部下。だが家では、そんな肩書きは綺麗に溶けてなくなる。


俺はこの時間のために仕事を頑張っているんだと思う。









2.部下と結婚しました



結婚生活が始まってから、私はたびたび思う。

どうして私―香坂由美は、この人を選んだんだっけ?

朝、陸がキッチンでコーヒーを淹れている後ろ姿を見るたび、答えが出る。


選んだんじゃない。気づいたら、この人だけを見ていたのだ。


陸はあまり目立たないタイプだった。

でも、数字を見る目が鋭かった。

些細な変化や矛盾をすぐに見抜く。

他の誰も気づかない点に、彼は静かに気づいていた。


新人の頃からずっと見ていたわけではない。ただ、彼の仕事に向き合う姿勢が嘘をつかなかった。


そして、私は知ってしまった。


彼が褒められるよりも、誰かが困っているほうを優先してしまう性格だということを。


こんな人と一緒に働けるなんて、私は運がいい。

そう思うようになった。





―――――





告白された瞬間、正直に言えば怖かった。

私のほうが年上で、役職も上で、世間の目もある。

彼の将来に傷がつくかもしれない。私の立場も危うくなる。


それでも断れなかった。



「香坂さんじゃないとダメなんです」



あの言葉はずるい。

今でも思い出したら胸が熱くなる。

好きになってはいけない人を、私は好きになっていた。




―――――





陸は、仕事では見せない表情をたくさん見せるようになった。

疲れたときは膝に顔を埋めて甘えてくるし、褒めたら照れて挙動不審になる。

寝起きはやたらと目つきが悪いけれど、数秒後には笑って「おはよう」と言う。


もう、愛しくて仕方がない。


私は彼の上司としてずっと強くあろうとしてきた。


誰にも弱みを見せず、冷静でいることを求められ、それに応え続けてきた。


でも陸は、そんな私の外側を通り抜けてしまった。



「香坂さん、愛してます」



その言葉を聞くたびに、胸の奥が熱くなる。

会社では一度も言わせないし、言わない。だからこそ、家で言われるその一言がたまらなく嬉しい。





本当は今すぐにでも公表したい。

この人は私の夫ですと誇りたくて仕方がない。

でも、それは彼のためにならない。彼は実力で評価されるべきだ。私の影を背負わせたくない。


その代わりに、家では思いきり甘やかす。それが、今の私たちなりのバランスだ。






夜、陸が玄関を開ける音がすると心臓が跳ねる。仕事で見せる冷静な仮面はすぐに外れる。


「おかえり。今日も頑張った?」


彼が「ただいま」と笑うと、それだけで全部報われた気がする。


そして彼が言う。



「香坂さん…愛してます」



その言葉が、今日も私を溶かしてしまう。



「…後で、ゆっくり言い返すわね」



結婚してようやく気づいた。

私はずっと、この人に救われていたのだと。

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