雨牢の女神

蛞蝓

第1話

 ―――創世記225年。


 本来なら世界はとうに崩壊しているはずだった。誕生と崩壊を繰り返す世界周期は既に綻び、致命的なバグを抱えながら回り続けている。

 その余波として生じる〈余剰崩壊雨〉は、大地をゆっくりと破壊していた。


 雨季が近づけば人々の顔からは笑みが消える。暗澹とした空気が世間を支配した。 雨が地を打つ音が人を恐怖させ、風が吹く音が人を縮こまらせる。


 静かに、かすかに、世界が軋んでいた。踏み潰された小さな生命が発する悲鳴のように、世界は断末魔の金切り声を上げていた。


 その歪んだ隙間から―――ある男が落とされた。


・~・~・


 篠崎しのざき海翔かいとは、疲れた顔で宙を見つめていた。


 彼の周囲には見知らぬ薄暗い森が広がっている。木々の間を抜けてゆく風は冷たいが、嫌な湿気と苔むした匂いを纏っている。満月なのか空は明るいものの鬱蒼と茂った葉はその光を阻み、僅かな木漏れ日がところどころ地面を照らしていた。


 そして目の前には、息絶えているむくろ


「それもこんな中世チックな、ねぇ…」


 乾いた声で呟く。その声は森の中に弱々しく消えてゆく。


 海翔は、文字通り草葉の陰で倒れ伏している骸に向かってかがみ込んだ。その死体は中世西欧を思わせるような鎧を身に纏っていて、ご丁寧に付近には赤黒く血に塗れた剣まで落ちている。


 日本人ってのはねぇ、人の死体を粗末に扱わないんですよ。仏さんに敬意を払うように育てられてますからね───なんてことを口の中で呟きながらも、彼は骸を足でひっくり返した。


 この薄暗い森の中でもわかるほどに血色の悪い西欧顔が露になる。その首元は、喉仏のあたりからごっそりと噛みちぎられたようだった。血は乾いていて、眼孔に嵌った光のない濁った眼球が静かに上空を見つめている。


 死体の観察に飽きた海翔は、スーツのポケットを探る。終業の時に突っ込んだスマホがそこにあるはずだった。手探りで探り当て、画面をつける。バッテリーはまだ残っていた。暗闇にブルーライトが眩しく広がって、海翔は少し目を細めた。


 電話をかけようとして、天気予報のウィジェットが何も表示していないことに気がつく。『インターネットに接続されていません』と小さく書かれていた。


「なんとなくそんな気はしましたけど」


 警察に連絡はできない。GPSに繋げないために、ここがどこかも分からない。中世ヨーロッパにタイムスリップだとか、ファンタジーな考えが頭を巡る。


 ふと、ぽつりと何かが彼の頬を濡らした。


 右手を広げて空に掲げる。少しもしないうちに小雨が地を打ち始めた。リュックのポケットに入っていた折り畳み傘を取り出して広げる。


 強くなり始めた風も相まって体感温度が一気に下がる。肌寒さが背中を駆け抜けて、海翔は苛立たしそうにスーツのジャケットを正した。


 雨を凌げる場所を探して歩き始める。死体のことは、この際気にしないことにした。どうせ元から放置されていたものだ。自然に朽ちてゆくがいい。


 だんだんと地面はぬかるんできている。樹木の根にこびりついた苔は水分を吸い込んでいて、滑りやすい。


 暗闇の中、傘に片手を拘束されて、その状態で足元に気をつけながら歩かなければならない。疲れた体には多大なるストレスだった。


 時々愚痴を呟きながらも歩を進めてゆく。


 異常に気がついたのは、少し酸っぱい匂いがしたときだった。鼻腔の奥を刺激するようなかすかな腐敗臭が漂ってきて、海翔は足を止める。


 あたりを見渡して、だんだんと頽れてゆく周囲の植物に気がついた。腰元ほどの背丈のシダが、雨に打たれるたびに腰を折ってゆく。伸びている葉に下から手を添えると、まだらに葉が薄くなっていた。


 気味が悪くなって手を退けると、そのてのひらには緑色の液体が付着している。


「………溶けてる」


 原因にはなんとなく察しがついていた。視界を遮る樹々。そのはるか上空に目を向けた。


 手に持った傘もまた溶けているだろう。焦りながら海翔は先を急いだ。

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