4−4. 境界の夜

 夜が近づくにつれ、体育館の空気は重さを増していった。

 窓の外の霧は白から灰へ、灰から黒に近い色へ変わり、光を吸い取るような厚みを帯びている。

 光が暗くなったわけではないのに、床に落ちる影は細く長く伸び、どことなく頼りなかった。


 壁の時計は七時十五分を指している。

 針は確かに進んでいる。それでも、昼と夜の境は、ここでは別のもののようだった。


    ◇


 体育館の真ん中では、毛布が乱れ、水のボトルが倒れたままになり、誰も片づけようとしなかった。

 整理すれば状況が落ち着くのは分かっていた。それでも、誰も動けなかった。


 矢島は体育館の中央から少し離れた位置に座り込み、肘を膝にのせていた。

 昼間の爆発しそうな行動力は影を潜め、逆に“静かすぎる決意”のようなものが漂っていた。


 山中がその近くに座っていた。

「……矢島。今夜、行くつもりなんだろ?」


 矢島は短く頷いた。


「理科室前の死角……だよな?」

 田所が加わる。


 佐久間は、膝の上で指を固く組んだままだった。

 夕方の議論のことを思い出しているような、沈黙が痛いほどの表情だった。


「……わたしも一緒に行く」

 佐久間はか細い声で言った。

「わたしが言い出した情報だし……見ておかないと」


「お前のせいじゃねぇよ」

 矢島は言う。

 怒っているわけでも責めているわけでもなかった。ただ、疲れた声だった。


「でも……人数がいる方がいい」

 山中が続く。

「四人なら……なんとかなるかもしれない」


 その“なんとか”が具体的に何を指すのか、誰も言語化できなかった。


    ◇


 対して、体育館の端では高橋と加瀬が別の地図を広げていた。

 懐中電灯を重ね、光の当たる範囲を何度も確認している。


「理科室前だけが死角じゃねぇよな」

「おう。他にも……ほら、視聴覚室前とか。

 あと器具庫横……ここも光弱かった」


 高橋は地図に指を滑らせる。

「カメラの角度……ここ、多分映ってない」


 加瀬はラバーバンドを手で弾いた。

「俺らは俺らでルート探す。……矢島んとこ、人数多すぎだし」


 その声は低かったが、いまの体育館では十分すぎるほど響いた。


    ◇


「巡回始めるぞ」

 桐生が言った。


 僕は頷き、白石と三井、美咲の方を見る。

 三人は地図と表を整理し、巡回用のライトをまとめていた。


「当番、三十分交代で三組」

 白石が確認するように言う。

「しばらくは体育館周りだけ。外の様子は……まだ」


 白石は“まだ”の後を続けなかった。

 続ければ、不安が言葉になってしまう。


 三井が弱い声で言う。

「……白石さん。外は……まだ見なくていい?」


「うん。今日は体育館の周囲を確実に」

 白石の声は柔らかかった。

「誰も……急に消えないように」


 その一言が、体育館の中の緊張度を一段階上げた。


    ◇


 照明が揺れた。


 蛍光灯がふわりと弱まり、また息を吹き返すように明るさを取り戻す。


「……まただ」

 美咲が僕の袖をつまんだ。

「大丈夫かな……?」


「分かんないけど……昨日より強い」

 僕は答える。


「灯りの呼吸」

 白石がメモを取る。

「三日目は明確。影も……進行してる」


 床に落ちる影は半歩遅れ、形も少し歪んでいるように見えた。


    ◇


「真一」

 美咲が不安げに話しかける。

「……今日、何か起きるよね」


「うん。

 なんか……境界が薄くなってる感じする」


 美咲は黙って頷いた。

 その目が揺れていた。


    ◇


 そのとき、矢島が懐中電灯を取り、静かにスイッチを押した。

 光は真っ直ぐに伸びず、途中で薄くよじれた。


「……やっぱり行く」

 矢島が言う。


 山中がライトを握り直す。

 田所は廊下の方向をちらりと見るが、座ったまま動かない。


「行くための準備はする。

 でも今はまだ“出ない”」

 矢島は静かに言った。


 その言葉に、山中も田所も佐久間も小さく頷いた。


 出るのは今ではなく“あとで”。

 その“あと”が、体育館の中に重く沈む。


    ◇


 一方、高橋と加瀬は別のことを話していた。


「矢島のとこ行ったら、人数多すぎて動けねぇし」

「俺らは俺らの判断で動く。小さい死角……調べてみてから」


「でも……今はまだ動かねぇ。

 夜がもう少し深くなってからだ」


 その“深くなる”という言葉が、体育館の温度を少し下げた。


    ◇


 三井が涙をこらえながら言う。

「……お願いだから、みんな勝手に動かないで……」


「動かねぇよ」

 高橋は答えた。

「まだな」


 “まだ”という一言だけで、三井の肩が震えた。


    ◇


 白石がノートに線を引いた。

 紙が擦れるその音だけが、体育館の静寂を切り裂いた。


「……記録します」


「三日目、夜。

 矢島・山中・田所・佐久間——

 理科室前の死角へ向かう準備・意思の共有。

 まだ出発はしていない。

 高橋・加瀬——別方向の探索計画。準備段階。

 体育館全体、影の遅延・灯りの揺らぎが進行。」


 事実しか書いていないのに、

その記述が“夜の始まり”を明確にしていた。


    ◇


 照明が二度、三度と揺れる。

 呼吸を忘れた光が、胸の奥に冷たく染み込んでくる。


 矢島は拳を握り、

 山中はライトの角度を調整し、

 田所は紐を結び直し、

 佐久間は深呼吸をしていた。


 誰も立ち上がらない。

 出ていかない。

 ただ“今夜のために準備している”。


 一方、体育館の端では、高橋と加瀬が別の地図をのぞき込み、

小声で何度も“影の濃い場所”を確認していた。


    ◇


 美咲が小さく言った。

「……真一。今、止まってる感じがする」


「うん」

 僕は息を吸った。

 夜の空気は冷たくて、胸に刺さった。


「動くのは次だよ」

 白石がノートを閉じながら言う。

「今は“境界”だから。

 ここが……夜と昼の“折れ目”」


 その言葉は静かだったが、体育館全体にひびのように広がっていった。


 ——夜が来る。

 “出るのは、そのあと”。

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