4−3. 分裂

 矢島が体育館を飛び出しそうなまま止まっていた。


 扉に向かう足は半歩分前で止まり、

 握った拳だけがわずかに震えている。

 近くで見なくても分かった。

 もう限界なのに、ぎりぎりのところで踏みとどまっている状態だった。


 霧は窓の外に広がり、白い光だけが滲んでいる。

 体育館内は静かだった。

 高い天井に音が吸われ、昼と夕方の境が曖昧になる。


 時計は三時を少し過ぎていた。

 針は進んでいるのに、空気は時間を拒んでいるみたいだった。


    ◇


「……ここにいたって意味ねぇよ」

 矢島が低くつぶやく。誰に向けた言葉でもない。


 高橋が同調するように頷き、床をつま先で叩いた。

「影、やべぇだろ。ほら……遅れてる」


 確かに、影は半歩遅れてついてきていた。

 僕たちはもう見慣れつつあったが、初めて気づいた高橋には衝撃が強すぎた。


「昨日より遅いよな? 絶対そうだよな?」

「気のせいじゃない……と思う」

 加瀬も不安そうに影を見つめた。


 反対側で、三井が胸の前で両手を握りしめている。

 美咲はその隣で、少しだけ前のめりになって様子を見守っていた。


    ◇


「落ち着いてください」

 相沢先生が前に出ようとしたが、矢島が睨む。


「落ち着けないから言ってんだろ。俺らはここで待ってろって言われて、二人いなくなったんだぞ?」


 誰も返せなかった。

 “違う”と言えないことを、全員が理解していた。


 桐生が、静かに矢島の前に立つ。

「気持ちは分かる。でも、今すぐ出ても——」


「桐生。お前、音楽室で見たんだろ」

 矢島の声は震えていない。

 淡々とした恐怖の色だけがあった。

「森川のあれを見て……それでも“ここにいろ”って言えんのかよ」


 桐生が言葉を詰まらせる。

 誰も代わりには言えない。


    ◇


 そのときだった。

 体育館の後方で、ひそひそ声が聞こえた。


「……理科室の前……カメラの画角が届いてなくて……」


 その声に、矢島が大きく振り向いた。


「佐久間。今、なんて言った?」


 佐久間は驚いて目を瞬かせた。

 隣にいた田所と山中も、慌てて距離をとる。


「え……あ、うん……」

 佐久間は小さな声で説明を始めた。

「保健室の前の廊下にある監視カメラ、覚えてる? あれ、多分だけど……理科室の角度、死角になってる」


「死角……?」

 桐生が眉をひそめた。

「いつ気づいたんだ」


「昨日の夜、弁当配る当番のときに……モニター見えて……ほんの一瞬だったけど……そこだけ映ってなかったの」


 それは“カメラの角度の問題”でしかない。

 しかし矢島には、別の意味で届いた。


「……じゃあ、そこは安全ってことじゃねぇの?」


「違う」

 白石が即座に遮った。

「“映らない=何も起こらない”じゃない。ただ、角度的に見えてないだけ。情報が欠けている場所」


「でもよ——」

 高橋が強めの声を出す。

「田村が消えたところも、森川がいたところも、ちゃんとカメラ映ってたんだろ? ってことは……」


「“映らなきゃ安全”だって理屈になるだろ」

 加瀬も続く。


 その空気が、一気に膨らんだ。

 誤解と期待と恐怖が渾然一体になって、

 “死角”という言葉が異様に輝いて見えた。


    ◇


「——行く」

 矢島が言った。


 その声は強くも弱くもなかった。

 ただ、“決意してしまった声”だった。


「ちょっと待て」

 桐生が矢島の肩を掴む。

「佐久間の話は“死角かもしれない”ってだけだ。確証はない」


「だから確かめんだよ」

 矢島は桐生の手を振り払った。

「外がダメでも、校内なら……まだマシだろ」


「死角が安全とは限らない」

 白石が言う。

「むしろ、見えていない場所のほうが——」


「だったら、ずっとここにいんのか?」

 矢島の声が荒ぶ。

「この体育館で、次は誰が“ああなる”か待ってろってのか?」


 佐久間が顔色を失って縮こまる。

 田所が彼女の肩を支えた。


「……矢島君」

 佐久間が絞るような声で言った。

「ごめん……わたし、そんな意味で言ったんじゃ……」


「責めてねぇよ」

 矢島は荒々しく息を吐き、頭をかいた。

「ただ……ヒントになるなら乗っかるしかねぇだろ」


    ◇


 高橋と加瀬も立ち上がった。

 目が落ち着かず、焦りと希望の混じった色に濁っていた。


「死角があるなら……そこ、行く価値あるよな」

「夜になる前に準備しようぜ。ライトと……あと何がいる?」


「待て」

 桐生が再び立ちふさがる。

「勝手に夜に動くな。夜の校舎は——」


「だから昼のうちに準備すんだよ!」

 高橋が叫ぶ。

 声は震えていた。

「ここ、もう限界なんだよ……!」


 体育館の空気は一気に張り詰めた。

 誰かが泣き出しそうな息を吸い込み、誰かが顔を伏せる。


    ◇


 白石がノートを開いた。

「記録します」


 その一言で、場がまた区切られた。


「三日目、夕方。佐久間が“監視カメラの死角”を報告。

 矢島、高橋、加瀬が強く反応。

 校舎内の移動意欲が著しく上昇」


 淡々とした筆致なのに、言葉は鋭かった。


「……なんかよ」

 加瀬が呟く。

「白石の書き方、怖ぇんだよ。正しいけどよ……」


「書かなければ、もっと怖い」

 白石はやわらかく言った。

「“何が起きたか”を忘れる方が危ないから」


 高橋は俯いた。

 怒りが消えたわけじゃないが、迷いの色が混ざっていた。


    ◇


「……夜になったら、俺は行く」

 矢島が最後にそう言い切った。


 止められないと、全員が理解した。

 止めれば、今度は体育館の中で衝突が起きる。

 そちらの方が、もっと危険だった。


 窓の外は薄い白から、淡い灰色へと変わりつつあった。

 昼と夜の境目が近づく。


 美咲が僕の袖をそっとつまんだ。

「……真一。嫌な感じするね」


「うん」

 僕は正直に言った。

「嫌な感じしかしない」


 白石はノートを閉じ、顔を上げた。

「今日の夜は……長いわ」


 その言葉は、予言でも脅しでもなかった。

 ただの事実だった。

 けれど、その事実が何より重かった。

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