2章. 最初の夜(一日目夕方〜)
2−1. 影の沈む刻
沈みはじめる夜は、音から暗くなっていった。
中庭の時計塔は十五時四十七分を指したまま止まり、灰色の空だけが、じわじわと夕方の色を濃くしていく。
校舎の内側では、チャイムもならない。代わりに、どこか遠くで水が滴るような音が、途切れ途切れに耳にまとわりついていた。
廊下の壁時計は、普通に秒を刻んでいる。
黒い秒針が一つ進むたび、僕は塔とのズレを意識した。
時間は進んでいるのに、昼と夜の境目だけが、校舎のどこかで引き裂かれたみたいだ。
「……動かないな」
窓の外を見ていた桐生が、低く呟いた。
桐生の短い髪は緊張のせいかいつもより乱れ、影が壁にわずかに跳ねていた。
ガラスの向こうでは、白い霧が地面から立ちのぼり、校舎の足元を飲み込んでいる。
風はないのに、霧だけが逆さの波みたいにうねっていた。
昇降口へ続く廊下は、生徒たちで詰まっていた。
三十人を少し超える影が、出口に向かって押し寄せているのに、列はほとんど動かない。
誰もが、「外」に出るという当たり前のことを、確認したがっていた。
「押すな、順番だって」
誰かが怒鳴る。
その声さえ、天井にぶつかったところで吸い込まれたように小さくなった。
音が、外へ逃げていかない。
昇降口の前では、矢島が扉を肩で押していた。
矢島の短い髪は荒く立ち上がり、影まで前のめりに揺れていた。
山中と田所が横から支え、加瀬と高橋が後ろから力を込める。
山中は猫背気味の細い影を落とし、田所はがっしりした肩幅で影が横に広がっていた。
ガラス戸はびくともしない。
金属が軋む音だけが、骨の内側で響いた。
「おい、鍵開いてんだろ、なんでだよ!」
矢島が怒鳴る。
すぐ横で、田村が箱を抱えたまま、それを見ていた。
美術準備室から運び出した木箱。天板の隙間から、乾ききっていない絵の具の匂いが漂っている。
田村の短髪や肩に白い粉がかすかに積もり、影にまで粉の筋が入り込んでいた。
浜田先生が、扉の横のパネルにカードキーをかざした。
浜田先生は灰色まじりの髪と分厚いコートで、影も重たく足元に沈んでいた。
赤いランプが一瞬だけ点き、すぐに沈んだ。
「……反応しない。電源が落ちているのか、制御が……」
言いながら、先生はもう一度カードを傾ける。結果は同じだった。
「窓割ればいいじゃないですか」
山中が、半分本気、半分冗談みたいな声を出す。
神谷が苦笑した。「弁償するのは誰だよ」
神谷の眼鏡の影は細く、揺れよりも先に線だけがふるえていた。
けれどその笑いも、最後まで形にならなかった。
窓の外、霧がガラスに貼りつくように盛り上がり、こちら側へ静かにじわってくる。
美咲が僕の隣で息を呑んだ。
まとめた黒髪がわずかに震え、その影が遅れて揺れた。
「……さっきより、近くない?」
その言葉に、僕もガラスに目を凝らす。
霧は、ただの水蒸気にしては、動き方がおかしかった。押し寄せてはこないのに、境目だけが濃くなり、透明の膜が二重になっていく。
「全員、一度離れろ」
桐生が昇降口に向かって声を張った。
「押しても意味がない。怪我するだけだ。体育館に集合する。人数を確認して、状況を整理する」
その声は、霧よりもはっきりしていて、少しだけ呼吸が楽になった。
人の流れが、昇降口から体育館へ向きを変える。
そのとき、田村が僕たちの列から外れて、もう一度ガラス戸のほうを振り返った。
「……音、してる」
「え?」
「ほら。向こう側。水か、何かが……」
耳を澄ますと、確かに、遠くで水槽を指で弾いたみたいな、薄い響きがした。
「田村、列に戻れ。危ない」
浜田先生が声をかける。
田村は「今行きます」と答えながら、しばらく霧を見つめていた。
ガラスに映る彼の輪郭だけが、ほんの少し遅れて揺れた気がして、僕はぞくりとした。
体育館へ向かう途中、廊下の壁時計が目に入った。
秒針はきちんと進んでいる。
十五時五十二分。
止まった塔の針とは、もう五分の差がついていた。
「時間、ずれてる」
白石が、誰に言うでもなく呟く。
彼女はノートを取り出し、さらさらと書き込んだ。
“塔:15:47固定/廊下時計:進行/光:灰→青”
文字が紙に吸い込まれていく音だけが、やたら耳に残った。
「時間が進んでない気がするって、さっき言ってたろ」
僕がそう言うと、白石は首を横に振った。
「時間は進んでる。少なくとも、計測上は。
でも、影の向きと長さが合わない。光のほうが先に動いてる」
言われてみれば、足元にできる影は、窓の方向と角度が微妙に合っていない気がした。
体育館の扉は、意外なほどあっさりと開いた。
鍵は噛んでいない。
ただ、内側から押し返してくる冷気だけが、わずかな抵抗のように感じられた。
中は薄暗かった。
天窓から入る光はすでに弱く、天井の非常灯が緑色の輪を床に落としている。
その中心に立つと、自分の影が少し遅れて動く。
足を踏み出した瞬間ではなく、「踏み出した記憶」のあとで、影が追いかけてくる。
「全員、まずは座れ」
桐生が中央に立って、声を張った。
「外は霧で視界ゼロ。昇降口は開かない。他の出口は後で確認する。
今は、とにかく“誰がここにいるか”をはっきりさせる」
その言葉に、ざわめきが少しずつ静まっていく。
僕たちは、体育館の床に敷かれた古いラインの上に、半円を描くように座った。
バスケットゴールの影が、天井から伸びてきて、僕の膝のあたりで止まる。
その影も、やはりわずかに遅れて揺れていた。
「補講組は班で固まれ」
浜田先生が言い、名簿を持った滝本に合図を送る。
神谷が小さくため息をつき、「はいはい」と立ち上がった。
矢島派の六人も、まとまって一角に腰を下ろした。
山中が携帯を掲げ、「まだ圏外」と呟く。
画面の黒に映る彼らの顔は、窓ガラスよりも平らで、他人事みたいに見えた。
体育館の壁時計は、十六時を少し過ぎていた。
秒針の動きは滑らかで、ノイズひとつない。
ただ、その下に落ちる影だけが、壁から半歩ほど浮いて見えた。
「……なんか、気持ち悪い」
美咲が小さく言う。
「何が」
「全部。時計も、光も。時間が進んでるのに、夜になっていく感じがしない。
沈んでいくのに、沈み切らないというか……」
言葉を探す美咲の横顔は、いつもより白く見えた。
白石は、体育館の中央にしゃがみ込み、床のラインや非常灯の位置をノートに写し取っている。
その姿は、記録係というより、何かの儀式を準備している人みたいだった。
「今のうちに、“普通の状態”を押さえておかないと。
ここから何がどうおかしくなるのか、比較できなくなる」
そう言って、彼女は影の輪郭まで丁寧になぞる。
遠くで、低い地鳴りみたいな音がした。
体育館の床が、ごくわずかに震える。
地震ではない。揺れるほどの強さはなく、むしろ、校舎そのものが一度だけ息を吐いたような感覚だった。
「今の、聞こえたか?」
矢島が顔を上げる。
「配管か何かだろ」山中が答えるが、その声には自信がなかった。
天井のスピーカーが、一瞬だけ“ジ……”と鳴って、すぐに沈黙する。
誰かが、放送設備のことを思い出して息を詰めた。
「放送は、さっきまで止まってたはずです」
滝本が不安そうに言った。
白石がノートの欄外に、“スピーカー:呼吸音”と書き加える。
体育館の扉が、風もないのに、わずかに軋んだ。
さっき昇降口で押していた集団の名残のように、下のほうだけが重たく沈む。
あの向こうには、まだ霧と、止まった塔と、開かない扉がある。
田村の姿を、僕は無意識に探した。
さっきまで昇降口の近くにいたはずだ。
木箱を抱え、霧の音を聞いていた横顔。
体育館の中にも、列のどこかに紛れているだろうと思いながら、僕は視線を巡らせた。
そこに、はっきりとした空席はなかった。
三十を超える影が折り重なり、誰がどこに座っているのか、輪郭がすぐに溶けてしまう。
名前と顔が一致しないクラスメイトも多い。
「全員」という言葉だけが、薄い安心感として体育館に漂っていた。
けれど、その安心は、どこか頼りなかった。
影の一つひとつがほんの少しずれていて、誰かが立ち上がっても、誰も気づかないような気がした。
沈みはじめた夜の底で、僕たちはまだ、自分たちの数さえ確かめられていなかった。
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