第12話 私だけの
冬の澄んだ空気が、窓ガラス越しにキッチンの湯気を白く際立たせる。
配信用のカメラが回る前の、静かな夕暮れ時。
ここは白銀玲華の自宅にある、彼女たちのための「舞台」である。
「ひかりさん、その……留学の準備、進んでいますか」
「はい。必要な書類は、あらかた」
エプロンの紐を結びながら、藤森ひかりは短く答える。
その声には、以前のような不安や焦燥の色はない。
玲華もまた、ひかりの横顔を穏やかに見つめている。
互いの本音をぶつけ合い、そして受け入れ合った二人の間には、もはや言葉を尽くす必要のない信頼が流れていた。
ひかりの短期留学は、決まった未来。
玲華がそれを寂しがらないはずはない。
だが、ひかりが《シルヴァヌスの舌》という規格外の才能を研鑽するために必要な時間であることも、玲華は誰より理解していた。
「……私、大丈夫ですから」
「……はい」
玲華の静かな声に、ひかりは深く頷く。
その頷きだけで、二人の間には「必ず帰る」「ずっと待つ」という、何よりも強い約束が交わされる。
やがて、定刻。赤い録画ランプが灯る。
「こんばんは。白銀玲華です」
「……藤森ひかりです。今夜もよろしくお願いします」
二人が深く頭を下げると、画面の端に設置されたコメント欄が一斉に流れ出した。
> ≫ こんばんは! 待ってました!
> ≫ 二人とも元気そうでよかった……(涙)
> ≫ 最終回(仮)から一ヶ月ぶり! 供給ありがとう!
> ≫ 今日のひかりさんのエプロン、新作?
> ≫ 玲華様、今日も美しいです
「ふふ。ありがとうございます。今日は、私たちの、いつも通りの配信をお届けしたくて」
玲華が微笑むと、コメントが「尊い」の弾幕で埋まる。
「本日のメニューは、『冬の始まりの、和定食』です」
ひかりが、磨き上げられた雪平鍋をコンロに置きながら、淡々と告げる。
メニューは三品。
根菜たっぷりの豚汁。
茸と銀杏の炊き込みご飯。
そして——ひかりが今、溶き卵を注ぎ入れようとしている、だし巻き卵。
> ≫ うわあああ和定食!
> ≫ 豚汁! 日本人でよかった!
> ≫ だし巻き卵、ひかりさんの技術が光るやつだ
> ≫ 玲華様がこれを食べるのか……ゴクリ
ひかりの手が、静かに動き出す。
熱せられた銅製の卵焼き器に、薄く油が引かれる。
黄金色の液体がジュッという音と共に流し込まれ、即座に半熟の膜を張る。
ひかりは一切の迷いなく、菜箸でそれを手前に手繰り寄せ、空いたスペースに再び卵液を流し込む。
彼女の脳裏——《シルヴァヌスの舌》は、この単純な料理の設計図を寸分違わず描き出していた。
今日の玲華の体調。外の気温。そして、留学を前にした二人の「穏やかな決意」。
それらすべてが、卵の甘さ、出汁の塩梅、焼き加減のパラメータとして反映される。
(今日は、少し甘く。出汁の香りを強く立たせて。彼女が「帰る場所」だと安心できるように)
トントントン、とリズミカルな音。ひかりが炊き込みご飯をよそい、豚汁を盛り付け、最後に焼き上がった完璧なだし巻き卵を切り分けていく。
「お待たせいたしました」
「……いただきます」
玲華が、湯気の立つだし巻き卵の一切れを、静かに口に運ぶ。
スタジオ(キッチン)の空気が変わる。視聴者が息を飲む音だけが、コメント欄から聞こえてくるようだった。
> ≫ きた
> ≫ #玲華舌 待機
> ≫ 息をしろ、俺
玲華はゆっくりと目を閉じる。そして、その情景を、感情を、紡ぎ始める。
「……これは、記憶です」
静かな、しかし芯の通った声がマイクに乗る。
「真っ白な雪が、静かに降り積もる音。冷たく、清浄な世界。……けれど、凍えているわけではないんです。この雪の下には、春を待つ確かな温もりがある」
玲華は、もう一口、ゆっくりと味わう。
「ひかりさん。あなたの出汁の香りは、春の雪解け水そのものです。それはやがて土に染み込み、硬い蕾をこじ開ける力になる。……この甘さは、約束の甘さ。どれだけ遠く離れても、必ずこの場所で、この味が待っていてくれるという、幸福な確信の味です」
それは、料理の批評ではなかった。
それは、ひかりの《舌》が設計した通りの、玲華からひかりへの「返答」だった。
> ≫ ??????
> ≫ 告白か?????
> ≫ #約束の甘さ
> ≫ #幸福な確信
> ≫ もう俺たちの入る隙間ねえよ……(ありがとう)
> ≫ 留学の話知ってる視聴者、号泣してる
ひかりは、ただ静かに玲華を見ていた。
耳の端が少し赤い。だが、その視線は、以前のように逃げることはない。
玲華の言葉を、その情景を、何一つこぼさぬように受け止めている。
「……ひかりさんのだし巻き卵は、いつだって、私だけのものですから」
玲華はそう言って、カメラではなく、まっすぐにひかりを見て、ふわりと微笑んだ。それは、大人気配信者「白銀玲華」の仮面ではない、ただ一人の「玲華」の、素直な笑顔だった。
コメント欄が、祝福と絶叫の弾幕で完全に白く染まっていた。
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