【罪】5話
【5】
ふと目が覚めると、辺りはまだ夜の真っ只中にあった。窓から差し込む月明かりを頼りに時間を確かめると、日付をまたいですぐの頃合いだとわかる。寝具の温度が体から抜けて、肌に薄い冷えが戻ってくる。
ヴェロアはむくりと上体を起こし、「ふぁぁ……」と緊張感のない大あくびをひとつこぼした。普段は一度眠りについてしまえば、朝まで目が覚めることはない。これまでも特に気に留めず、それが自分の体質なのだろうと、どうでもいい結論に落ち着かせてきたのだった。
けれど、今こうして目覚めてしまった事実には、理由のわからない不安が少しずつ浮かんでくる気配がある。その感覚を、否定しきれないでいた。
いそいそとベッドから出て、ひとまずトイレへ向かうべく扉を開ける。廊下に満ちていた冷たい空気が、新しい居場所を見つけたみたいに押し寄せ、肌の上をすべっていく。裸足が床板に触れた瞬間の硬さと冷えに、思わず肩が小さく震えた。
魔法学校に入学してから、早くも一ヶ月が経とうとしている。季節はゆっくりと暖かさに向かいはじめているが、深夜ともなれば、その冷えはまだ骨に触れる。吐く息は白くはならないけれど、喉の奥で温度が細く揺れた。
「うう…… ひんやりとしてるなぁ」
ぼやきを漏らしつつ歩き出したとき、視界の隅にちらりと何かが入った。風景には属さない異質な白。黒い用紙に一滴落とした絵の具のように、ぼんやりとそこだけが闇に浮かんでいる。月の光が廊下の角を鈍く照らし、その白だけが輪郭を持っていた。
「なにか…… ある?」
あるはずのないものに、体が固まる。動作は受け付けないのに、思考だけは有効で、さまざまな想像が脳内を所狭しと駆け回った。九分九厘は、どうしたって良くない方向へ傾く。胸の奥の温度がわずかに下がり、指先の感覚が薄くなる。
廊下の温度が、さらに下がったように感じられた。
「まさか、例のアレじゃないよね…… そんなわけないよね」
力のない否定が口からこぼれる。願いに近いそれとは裏腹に、白いものは視界の隅でわずかに揺れ続けた。月光の膜の内側で、形だけがゆっくり呼吸しているようにも見える。
そこでようやく、遮断されていたかのような聴覚が戻る。音が、声が、耳を通った実感の薄いまま、直接脳へ運び込まれてくる。湧いた恐怖はそれに呼応して、たやすく膨れ上がる。それほどまでに、その音は鮮明だった。
『なぜ行ってしまうのか…… それがあなたの幸せだとしても、私はそれを祝えはしない。素直な気持ちを出したいけれど、いったいどれが本当の気持ちなのかがわからない。愚かだと笑ってください…… いけないと叱ってください…… 大好きだよと抱いてください…… またねと言ってください。涙は流さないでください。そしてさよならも言わないでください。ああ、なぜあなたは行ってしまったのか……』
歌っているのだとわかった。恋人との別れを惜しむ歌に思えた。旋律は聞こえないのに、言葉の並びだけで胸の奥が静かに沈む。
ヴェロアは、すでにわかりきっていた答えを、力なく口にする。誰かに聞かせるためではなく、自分の中の答えを明確にしておきたかった。
「幽霊だ…… あれは間違いなく、噂の幽霊なんだ」
そうなると今度は、姿形を確かな情報として捉える必要がある。つい数時間前に届けられたアリエスの手紙に記されていた、新たな依頼がそれだからだ。怖さを抱えたままでも、見なければ仕事にならない。
見なくてはいけない。頭では理解しているのに、体はすぐには言うことを聞かない。脳に対して、すっかり謀反を起こしているみたいだ。喉の奥がきゅっと固くなり、呼吸の出入りが浅くなる。
「怖がってる場合じゃない。アリエスの元気のない理由が、あの幽霊にあるんだから……
僕がやらなきゃならないんだ。アリエスのためにも、そしてアイリーシェのためにも」
自分に言い聞かせるように独りごち、恐る恐る顔を右へ滑らせていく。視界の中央へと白い像を移していくと、それは噂の通り、女性の姿をしていた。距離の目測が狂うほど、輪郭ははっきりしている。
月夜に映えるその姿は、距離感を失わせるほど細部まで鮮明だ。その衝撃があまりに強かったせいか、幽霊だという前提がいったん頭から抜け落ちる。いつ消えるとも知れない。ヴェロアは情報を一つも漏らすまいと、つぶさに観察した。
肩まで伸びた髪は淡い栗色で、月影に灰が差すように見える。軽いウェーブが動くたび、影が細く折れた。首筋の細さや耳元の線も、現実の人と変わらない。女性だと聞いて、ずっと年上を想像していたが、見たところ自分とほとんど変わらない年頃かもしれない、という考えが浮かぶ。
「そういえば、グラウンドにあるあのバカでかい樹にも、卒業生の呪いがあるって噂だっけ。まああれはアリエスのことを言っていて、それが事実じゃないというのは、今の在校生の中では、僕が一番よく知ってるんだけど……」
観察を続ける。若緑色の短パンに、柔らかな黄色の上着。身長はヴェロアとほぼ同じ。四肢には締まった筋肉がついていて、見るほどに学生を思わせる輪郭だった。足首の見え方、腕の張り、歩幅の癖に、日常の癖が宿っている。
「アリエスじゃないとしても、例えば別の卒業生や在校生だった人物が、何らかの事情で命を落とした果ての姿……
それが校庭の大樹の噂になっているっていうのは、絶対にないとは言えないかもしれないなぁ」
年がそう変わらないこと、現れる場所が学校であることから、学生だった幽霊の可能性を考える。報告事項として留めておくべきだと頭の端で判断しつつ、もう少しだけ特徴を拾う。歩くたび、影が床に薄く伸びては、月光に削がれて消えた。
肌の上に走る冷気は弱まらない。廊下の影は長く、足元は月光の薄い膜で覆われている。幽霊は所在なげにふらふらと歩き、悲しい歌を途切れさせなかった。幸い、今夜はまだ誰もその存在に気づいていないようだ。静けさの中で、言葉だけが淡く続いている。
「まさか、誰か学生のいたずら…… って事はないよね」
最初に抱いた違和感は〈妙に生々しい〉という感覚だった。疑いを払拭できずにいると、思いがけない音が廊下に跳ねる。
ばたん、と扉がひとつ閉じた。
その音に気を取られ、幽霊から一瞬目を切ってそちらへ顔を向ける。そこには、ヴェロアよりも三割ほど気弱にしたような、小柄な男子生徒の姿があった。廊下の壁にこれでもかというほど背を押しつけ、目をこれ以上ないほど見開いて、両手で声の出ない口を覆って震えている。膝の角度が小刻みに揺れ、足先が床を探すみたいにすべった。
「ああ…… 可哀想に。トラウマにならなきゃいいけど」
思わずこぼれた言葉は、他人を案じる余裕があったから出たのだろう。もし立場が違い、自分がただ唐突にその姿を目撃していたなら、同じ状況になっていたに違いない。悲しいかな、そんな自分の姿は容易に想像がつく。胸の奥が少しだけ痛んだ。
わずか数秒で視線を戻す。だが、さっきまでそこに〈いた〉はずの幽霊の姿は、もうどこにもなかった。隠れられるような場所も、移動した痕跡も見当たらない。廊下の空気だけが、何事もなかったみたいに元の位置へ落ち着いている。
忽然と、姿を消した。
それはまるで幽霊が、自ら幽霊であることを証明してみせたかのようだった。背筋の内側を、細い冷たさが撫でていく。
「あ……」
喉がうまく働かず、声が空気に引っかかる。十数秒を費やして、ようやく震える声が出た。手のひらには、いつの間にか汗が滲んでいる。
「幽霊…… 幽霊…… やっぱり幽霊は実在するんだ……」
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