第4話 遺志を継ぐ者
遠くで唸りを上げる夜風が、離宮の窓を微かに叩く。蝋燭の炎は、その小さな音に敏感に反応し、壁に映る僕とリーネの影を、激しくも静かに揺らしていた。
ひざまずくリーネの頭上には、深紅の絨毯を敷き詰めた廊下の冷たい影が落ちている。その姿は、長年の忠誠という名の重荷を背負い、時を超えて現れた精霊のようだった。
「顔を上げてください、リーネ」
僕の声は、七歳の子供が出すにはあまりにも冷静で、感情の抑揚に乏しい。その静けさの奥には、僕の内に渦巻く未来の記憶と、過去の失敗への痛烈な反省が秘められている。
リーネはゆっくりと顔を上げた。彼女の目にはもう迷いの色はなく、新たな主を見つけた忠臣の、清冽な決意だけが灯っている。
「エリオス様。わたくしの長年の沈黙は、シルフィア様との誓約によるものです。しかし、三年もの間、この離宮から目を離さなかったのは、シルフィア様が託されたこの『遺言』が、殿下の未来、そしてアドリエン王国の未来そのものだと知っていたからです」
彼女はそう言って、懐から厳重に封印された手紙を取り出した。母の筆跡で、間違いなく父、陛下宛のものだ。
「この手紙には、シルフィア様の殿下への最後の願いが込められています。『この国を……正妃派の魔手から救う鍵は、エリオスに託される』と。王族の血脈としての誇り、そして何よりも、正妃エリサの真の目的を看破する知恵が、殿下を動かすと信じていらっしゃいました」
その言葉は、僕の胸を熱くし、同時に痛ませた。母は、僕が七歳の子供であるにもかかわらず、その孤独な離宮での独学を信じ、未来を託したのだ。前世では、僕は母の死の悲しみと正妃派の圧力に押し潰され、ただ時が過ぎるのを待つことしかできなかった。その結果、セリナは、僕の手の届かない場所で、悲劇的な運命を辿ったのだ。
(二度と、同じ過ちを繰り返すことはない)
冷たい夜風が僕の小さな体に吹き付け、肌を粟立たせる。七歳の体の限界――幼い王子としての立場。それは足枷であると同時に、正妃派の油断を誘う**『最大の武器』**でもある。彼らは、僕をただの役立たずの子供と侮っている。その傲慢こそが、彼らの破滅を招くのだ。
僕はリーネから手紙を受け取り、封蝋の複雑な紋様を指でなぞった。
「母上の遺志、そして、僕自身の誓い。僕は、すべてをかけて、この運命を変えます。リーネ、あなたには、僕の**『内側の目』になっていただきたい。この七歳の体が届かない、王宮の隅々まで目を光らせる『影』**として」
僕の最終目的は、正妃エリサの王国の乗っ取り計画を挫き、叔父バルドを失脚させることだ。そして、何よりも、愛するセリナが前世の悲劇に巻き込まれない未来を築くこと。そのためには、一歩目の作戦がすべてを決める。僕が未来の知識を持つという**『非現実』を、この現実世界で『事実』として機能させるための、最初の『賭け』**だ。
僕は、契約書を懐に戻し、目の前の蝋燭台をリーネの近くに引き寄せた。契約書の**『ヴァロア公爵家/建国記念日取引』**という文字が、薄暗い光の中で再び浮かび上がる。
「契約書は、まだ使ってはいけない。陛下に渡すことも、正妃派に存在を知られることも、今は最大の危険です」
僕はそう断言し、リーネに視線を向けた。彼女は僕の言葉に一切の疑問を挟まない。孤独な隠遁生活は、彼女の忠誠心を疑いようのないものにした。彼女にとって、僕の知略は母シルフィアの**『遺志』**の具現化であり、故に絶対的なものなのだろう。
「リーネ。あなたの経験と、王宮を離れていたという**『空白』**が、僕の最大の切り札となる。正妃派の監視網は、王宮内の人間の動きを完全に把握している。しかし、あなたは違う。あなたは『死角』にいる」
僕は、小さな指で、離宮の床に仮想の地図を描くように指示を与えた。
「あなたの役割は三つ。そして、僕が七歳の王子であるという事実を、最大限に利用してください」
• 第一の役割:王宮内での情報収集。
• 対象: 護衛、下級使用人、そして厨房や洗濯場など、正妃派が『価値がない』と見做している場所で働く者たち。彼らは、王宮内の『噂』と『不自然な動き』を知っています。
• 目的: バルドの**『予備経費』がどのように私的な運用に回されているのかの具体的な証拠、及び、正妃エリサが外部の貴族や商会と交わしている『裏取引』**のパイプを特定すること。
• 第二の役割:外部との連絡役。
• 対象: 母上と親交のあった**『沈黙の貴族』たち。そして、王宮内の事情を知る『信頼できる使用人のネットワーク』。
• 目的: 彼らと接触し、僕が『正妃派の陰謀に気付き、母上の遺志を継ごうとしている』という『意図的な噂』を流すこと。この噂は、僕への監視を強めるものではなく、『正妃派に焦りを与え、小さなミスを誘発する』**ための陽動です。
• 第三の役割:バルドの監視網の死角を探る。
• 目的: バルドは、この離宮に監視の目を置いているはずです。彼の護衛が、どのような時間帯に、どのようなルートで離宮を巡回しているのか。その**『時間軸のズレ』、『監視の空白』を特定する。それは、僕が離宮から安全に『脱出』**するための、唯一の道筋となるでしょう。
リーネは、僕の言葉を深く頷きながら受け止めた。
「かしこまりました、エリオス様。わたくしの長年の経験と、王宮の外で培った人脈、すべてを殿下の御為に活用いたします。監視の死角、そして正妃派が侮る**『取るに足らない情報』**こそ、真実を掴む鍵となるでしょう」
僕は安堵のため息を吐きたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えた。七歳の体は、未来の僕の精神に比べて、常に**『疲労』と『眠気』**を感じさせる。この肉体の限界こそ、僕が冷静さを保ち、一歩ずつ慎重に進まなければならない、最も現実的な理由だ。
僕の最初の作戦は、**『小さな石を投げて、水面に大きな波紋を起こすこと』**だ。
「リーネ。あなたはまず、王宮内で最も警戒心が薄い場所、具体的には、**『バルドが密かに私邸に送っているはずの物品を運ぶルート』**に、目をつけてください」
前世の記憶では、バルドは建国記念日の取引以降、王宮内の**『御用達』**の運送ルートを使い、不正に得た財産や貴重品を自身の私邸へ運び込んでいた。その輸送は、王宮の裏門を使い、警備が手薄な夜中に行われていたはずだ。
「バルドの不正は、金銭だけでなく、王国の**『美術品』や『鉱物資源』の横流しにも及んでいる。彼は、その輸送を『予備経費』として計上している。その輸送を行う者が、必ず彼の『裏のパイプ』を知っている。それが、我々が次に手を打つべき、最初の『標的』**となる」
僕は、七歳の体では到底踏み込めない、バルドの私邸周辺の監視や、輸送業者の特定を、リーネのネットワークに託す。
「そして、もう一つ。**『印象操作』**です」
僕は、王宮内の噂の力を知っている。噂は、真実よりも速く、そして深く、人々の心に浸透する。
「あなたは、王宮内の信頼できる者たちに、こう囁きなさい。**『シルフィア様は、亡くなる直前、エリオス殿下に、ある『高貴な義務』を託された。そして、殿下は今、離宮で、その義務を果たすための『秘密の書物』を読み解いている』**と」
リーネは、僕の言葉の意図を瞬時に理解した。
「殿下への監視を強めさせるための陽動でございますね。しかし、同時に**『エリオス殿下は、陛下の傀儡とはならない、聡明な王子である』**という印象を、王宮内に植え付けることができます」
「その通りだ。正妃派は僕の**『無能』を信じている。その信じ込みを、緩やかに、しかし確実に揺さぶる。彼らは『秘密の書物』の正体を探るために、必ず、僕の周囲に『目』を増やしてくるだろう。その『目』が、逆にリーネの監視の『死角』**を生む。彼らの行動の焦りが、僕らの最初の勝利となる」
この作戦は、僕が七歳という立場を利用した、**『子供の戯れ』に見せかけた、高度な心理戦だ。僕が実際にしていることは、古書庫で見つけた契約書を熟読し、未来の知識を反芻していることだけだ。しかし、その『静かなる努力』**が、王宮の噂という波紋によって、やがて大きな潮流となるだろう。
次の日、僕の策略は早くも効果を表し始めた。リーネは、日が昇る前に離宮を去り、僕の指示通りに王宮の裏側、そして外部のネットワークへと接触を図った。
その日の午前中、離宮を訪れた護衛の巡回時間が、昨夜から不自然に変化していることに僕は気づいた。
(巡回が、一時間に一度から、三十分に一度に短縮されたか)
明らかに、僕の噂が正妃エリサの耳に入り、彼女が離宮への監視を強めた証拠だ。巡回の護衛たちの顔ぶれも変わっている。彼らは、以前の弛緩した護衛とは違い、訓練された、正妃派直属の冷たい目をしていた。
僕は、離宮の窓から、彼らが僕に視線を送るのを、敢えて無視して、古めかしい書物を開く。その書物は単なる王国の歴史書だ。しかし、彼らの目には、母の遺志を記した**『秘密の書物』**に映るだろう。
正妃派が動揺し、不自然な動きを見せているのは、これだけではなかった。
リーネからの最初の報告は、その日の夕刻、離宮の使用人を通じて、小さな手紙として僕の手に届いた。それは、細く丸められ、蝋燭の炎にかざせば透けて見えそうなほど薄い紙だった。
報告:バルド=ヴァロアの動き
裏付け情報: 王宮内の信頼できる情報源(厨房の下働き)より、バルド公爵の私邸への**『夜間の輸送』が、昨晩から『厳重な警備のもと、日中に切り替えられた』との情報を得ました。
分析: 公爵は、建国記念日の混乱に乗じて行っていた不正の証拠隠滅、もしくは、僕らの動きを警戒し始めた可能性があります。彼が動揺している証拠。
不審人物: 昨晩、王宮の裏門付近で、『見たことのない紋章』の馬車が出入りしていたとの目撃情報があります。この紋章は、アドリエン王国のものではなく、隣国『ゼーリオン王国』**の国境付近の貴族のものに酷似しています。
僕は、その報告を読んで、冷たい戦慄を覚えた。
(ゼーリオン王国か……)
僕の未来の記憶では、正妃エリサの乗っ取り計画の最終段階は、バルドを失脚させた後、ゼーリオン王国との**『秘密の同盟』による、アドリエン王国の『隷属化』**だった。
エリサの真の目的は、単なる王国の富の収奪に留まらず、アドリエン王国を、隣国ゼーリオンの**『傀儡国』**とすることにあったのだ。その最初の接触が、この夜に始まっていたとは。
(僕の行動は、バルドの不正の証拠隠滅を急がせただけでなく、エリサの計画を**『加速』**させてしまったのかもしれない)
この事態は、僕の計画が、予想以上の速さで正妃派を追い詰めている証拠だ。彼らの焦りが、より大きな、そして隠しきれない**『行動』**へと繋がっていく。
夜になり、離宮は再び、冷たい静寂に包まれた。
僕は、リーネからの報告書を蝋燭の炎で静かに焼き、その灰を窓から夜風に散らした。僕の小さな体には、この国の運命と、セリナの未来という、あまりにも重い責任がのしかかっている。
僕が古書庫で見つけ出した**『ヴァロア公爵家/建国記念日取引』の契約書は、バルドの不正を暴くための『導火線』でしかない。真の敵は、その背後にいる正妃エリサと、彼女が企むゼーリオン王国との『売国協定』**だ。
(時間が、ない……)
バルドが不正の証拠隠滅を急ぎ、エリサが外部との接触を始めた今、僕に残された時間は、前世の記憶が示すよりも遥かに短いかもしれない。
僕は、懐に仕舞い込んだ母の遺言状に、そっと触れた。その紙の冷たさが、僕の頬を伝う汗をわずかに冷やした。
「母上の遺志は、僕の手でしか守れない。この国のアドリエン王国の誇りも、そして、僕が愛するセリナの人生も」
僕は、強く拳を握りしめた。七歳の体はすぐに疲れ、指先には力が入りにくい。しかし、その小さな拳の中に、未来の僕の**『覚悟』**が、確かめられたように凝縮されていた。
僕は、愛するセリナの笑顔を思い浮かべる。あの、無垢な笑顔。前世で、僕が守りきれなかった、かけがえのない光。
「セリナの涙は、二度と見せない」
僕の心の中で、その誓いが、血の誓いとなって刻み込まれた。リーネのネットワークを通じて、バルドの不正の**『最終的な証拠』**を掴み、そして、エリサのゼーリオンとのパイプを断ち切る。
七歳の王子の、静かな、そして容赦のない復讐劇は、最初の**『仲間』を得て、より複雑な『影の戦争』**へとその姿を変えた。建国記念の夜に始まった運命は、今、確実に、そして静かに、破滅の未来から遠ざかる方向へと動き出している。
――七歳の王子の覚悟が、静かに、しかし確実に、運命の歯車を回し始めた。
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