四月

 体育館に全校生徒が集まっている。ステージ前方から一年、二年、三年と並び、ほとんどの生徒が上の空で生徒指導顧問の挨拶を聞いている。

 しかし、女子生徒幾人かの様子が少しおかしい。どこか興奮し、コソコソと囁き合い、体育館の隅に並ぶ教員のほうをチラチラと窺っている。その目が獲物を見つけた肉食動物のように見えるのは俺だけだろうか。

 肉食動物に目をつけられたのはどんな獲物なのか、ちょっと拝見、てな具合に首を伸ばしたとき、教頭の甲高い声がマイクを通して体育館に響いた。

「では次に、今年度からわが校に赴任された先生方を紹介いたします。先生方、ステージにお上がりください」

 その声を受け、五人の教員がステージに上がった。男、男、男、女、男の順で短い階段を上り、ステージに並ぶ。最後の男がこちらを向いた瞬間、肉食動物たちの目が光った。

 なるほど、そういうことか。視力二.〇の目を凝らす。

 歳は二十代半ばぐらいだろうか。黒い丸首セーターにベージュのチノパン。恐らく、身長は一七五から一八〇、すらりとした体形だが、たぶんあれは、脱いだら筋肉がついていると思われる。女が好きな細マッチョってやつだ。髪型はボウズに近いベリーショートで黒髪、これも女が好きなやつだ。すっと通った鼻筋に形のいい唇、きりりとした眉に少し鋭さを感じる二重瞼の瞳。

 なんだあれは、なんなんだあのかっこよさは。

 百人中九十九人、いや、百人全員がイケメンだと思うだろう。男の俺でさえ見惚れてしまうほどなんだから、女どもが肉食動物に変貌するのも無理はない。今もそこかしこで頬を染めている。

 俺が観察しているうちに四人の教員紹介は終わっていて、次はイケメン先生の番。

「では最後に、山越先生が産休に入られている間の臨時教員として一年間、わが校に赴任してくださった龍河大たつかわだい先生です」

 たつかわだい。なんか名前もかっこいい。下の名前のイントネーションを変えれば大御所感が半端ない。

「それじゃ龍河先生、一言お願いします」

 龍河先生が手渡されたマイクを持つ。肉食動物化した女どもがじっと見守る。

「龍河です。担当は英語です」

 素っ気なくそれだけ言って、龍河先生はマイクを渡してきた教員に少し会釈をしてマイクを返した。

 え、それだけ? と俺は思いながら、この人声もかっこいいんだな、なんて思ってる。

 担当は英語か……ってことは英語話せるのか? おい、なんなんだあいつは。完璧じゃないか。女どもの目がさらに凄みを増したように見えるのは俺だけだろうか。

「ええと、では皆さん、ええ、どうぞよろしくお願いします」

 教頭の取り繕うような締めの言葉で、先生五人はステージから下りていった。教頭に気を遣わせた当の本人はもと居た場所に戻ると、少し視線を下げたままその場に佇んでいる。なんとなく龍河先生を目で追っていた俺は、一人の人物に目を留めた。校長である。可笑しそうに口元を緩めて、ちらりと龍河先生に視線を送っている。校長と関わることなんて今までなかったし、これからもないだろうけど、なんだかその仕草には親しみが込められていて、とてもあたたかかった。

 さて、教室に戻ってからは女どもが大騒ぎ。

「ちょーかっこよくない?」「いくつなんだろ」「うちのクラス受け持ってほしい」「彼女いるのかな」「あれは罪だよ」「やばい、恋しちゃう」「職員室行ってみる?」「連絡先交換したい」「マジでちょーやばい」「顔だけじゃなくて声もかっこいい」「やばい、抱かれたい」「あれはたまらない」

 なんだろうか、この虚しさは。鼻息荒く、叶うはずもない未来を夢見る女たち。現実的な存在がそこかしこにいるというのに、たった一人のイケメンの登場で乱れる思考回路。いいなあ、イケメンは。

「女どもが発情してるぞ」

 そう言いながら恨めしい視線を送るのは相沢裕吾。一年のときに仲良くなって、奇跡的にずっと同じクラスが続いてる。

「あんだけのイケメンが現れちゃあね」

 諦めたように笑うのは渡真利将太。こいつは幼馴染み。偶然高校も同じで、一年と二年は別クラスだったけど、三年でやっと同じクラスになれた。

 最後の一年をこの二人と一緒に過ごせるのは素直に嬉しい。

「顔もいい、スタイルもいい、声もいい、英語も得意。ズルくねえ? 天は二物を与えないんじゃねえのかよ。二物どころか四物も与えてるじゃねえか!」

「わかんないよ。変態なのかもしれないじゃん。見た目はよくても中身はってことあるからさ。落ち着いてよ裕ちゃん」

「落ち着いていられるかあ! 高校生でいられんのもあと一年なんだよ! 俺の青春はあと一年で終わるんだよ! あんなイケメンが現れたら俺の青春が邪魔されるだろうが!」

「凌ちゃん、なんか言ってやってよ」

「ほっとけ、年中発情してる奴のことなんて」

「凌、その言い方はないんじゃないか? お前だって発情してるだうが」

「年中ではない。まあでも、たしかにイケメンだったなあ、龍河先生」

「だね。しかもさ、あの挨拶もなんかかっこよかったよね。ふつうあんな挨拶したら素っ気なく聞こえちゃうけど、龍河先生はあれが似合うっていうか」

「それも気に食わねえ。なんでもかんでもかっこよくなりやがって。くそっ、どうしたらああなれるんだ」

 俺と将太は思わず笑った。

「裕吾、お前憧れちゃってるじゃん」

「ほんと。じゃあさ、仲良くなればいいんじゃない?」

「仲良く?」

「うん。仲良くなればいろいろ教えてもらえるかもしれないし、先生のそばにいれば女子ともお近づきになれるかもよ」

 まるでなにかの呪縛から解き放たれるように、裕吾の顔は輝いて、やる気に満ちていく。と思ったら、不安げに眉をひそめた。俺は呆れるしかない。

「コロコロ忙しい奴だな、お前は」

「だってよ、あんなイケメンにどうやって話しかければいいんだよ。緊張しちゃうよ」

「知るか。先生なんだから勉強の相談でもすりゃいいだろ」

「ええ? ますます緊張するだろうが。あんなイケメンと二人きりなんてよ」

「恋する乙女かお前は」

「そうだ、口臭も気にしないとな。勉強教わるってことは顔の距離も近くなるだろ?あの先生、絶対いい匂いするぜ」

 呆れを通り越して可笑しくてたまらない。俺と将太はげらげら笑い、将太は目尻を指で拭っている。

「裕ちゃん、ドラマとか見すぎじゃない? 妄想が甚だしいよ」

「っていうか、仲良くなってから心配しろよ」

「うん、そうだね。まずはどんな先生なのか様子見じゃない?」

「そうか、それもそうだな。いやあ、緊張するな」

 なんでだよ! という突っ込みを俺と将太から受けて、裕吾はなぜか自分の匂いを嗅ぎはじめた。


 龍河先生の初授業。

 そう、俺たちのクラスは見事、龍河先生の受け持ちクラスになったのだ。女子も裕吾も朝から浮足立ち、教室の温度がいつもより高い気がするのは俺の気のせいだろうか。

 そんなこんなで三限目、英語。

 なぜか俺も緊張してきた。チャイムが鳴ってすぐ教室のドアが開いて、ついに龍河先生が教室に一歩足を踏み入れた。「おおおおお」と心の中で嘆声を漏らしてしまう。

 龍河先生はベージュグレイのトレーナーを着て、襟元と裾からは下に着ている白Tが、首元にはネックレスのチェーンがちらりと見えている。ボトムスはライトブルーのストレートデニム。だいぶラフな格好だが、トレーナーとデニムのサイズ感が絶妙で、シンプルな服なのに不思議とかっこいい。教卓の後ろに立ち、出席簿を開く。その動作でさえ、不思議とかっこいい。

「龍河です」軽く一礼をして、教室を見渡す。「授業をはじめる」

 ええええええええええ? 生徒と名前の確認は? ふつうしない? しないの? イケメンはしないの? とクラス全員が目をパチパチしたに違いない。

 しかし龍河先生は俺らの動揺なんて気にしない、気に留めない。

「とりあえず教科書通り進めていくが、少しでもわからねえこと、疑問に思ったことがあれば遠慮せず訊くように」

 ドキドキのやり場を失くしたまま、授業がはじまった。龍河先生が黒板に英文を書いていく。チョークで書かれるアルファベットは美しかった。書き慣れている人の文字。

 ああ、そこも完璧なんですね。

 横を向いて裕吾を見ると、口を半開きにしていた。

 一学期のはじめは名前順で座るため、裕吾は廊下側の一番前、俺は教壇前に並ぶ列の一番前、将太は隣の列の後ろから二番目。そう、俺と龍河先生の距離はとても近いのだ。俺は少し見上げて龍河先生を見る。下から見る龍河先生はやはりイケメンで、裕吾の言う通りいい匂いがした。

 授業がはじまって三十分。龍河先生は素っ気ないし、やる気あんのかなって態度なのに、教え方は丁寧でわかりやすかった。イケメンとかそんなことは気付けば忘れていて、俺はただの生徒として龍河先生の授業を聴いて理解して、納得していた。

 ノートにあたるペンの音が至るところから聞こえ、龍河先生が黒板に向けていた身体を俺らへ向けたとき、それは起こった。

「be動詞か一般動詞か。それによって――」

 ピコン。ピコン。

 これはLINEの音だな。おいおい、音切っとけよ。やめてくれよ。

 なぜなら、龍河先生の顔が、目が、怖いから。怒り狂ってるとかそういうんじゃなくて、静かに怖いっていう感じ。その顔と目が、ぴたっと音の出所に向けられたまま動かない。そっと首を捻ってみると、音の出所である生徒は龍河先生の突き刺すような視線に気付いていないのか、悠長にスマホをいじっていた。

 あいつか。名前はたしか、小野。ちょっとはみ出てる感じの奴。かと言って、目立って悪いというわけでもない中途半端な奴。ルールを無視することがかっこいいと思ってるダサい奴。

「おい、前から四番目」

 視線が集中し、小野君はなにかを察知して顔を上げた。龍河先生ともろに視線が合って、ちょっと怯む。龍河先生が静かに言う。

「うるせえよ」

「大した音じゃねえじゃん」

 なんと小野君が言い返した。おいおい、どうした。強気じゃないか。

「あ?」

「誰も気にしてねえよ、なあ?」

「それはお前が決めることじゃねえだろ」

「うるせえな、なんだよお前。こんなん勉強したってなんの役にも立たねえよどうせ」

「それもお前が決めることじゃねえ。誰も彼もがお前と同じ人生を歩むと思うな」

「ああ? じゃあいつ使うんだよ。あんただってここ以外使う場所ねえだろ」

「あるな。海外に行くとき、海外の友人と話すとき、仕事の話をするとき。使わねえときのほうが少ねえな」

 予想外の答えに小野君は拗ねたように口を尖らせ、負け惜しみとも言える反抗を見せる。

「俺には必要ねえんだよ!」

「じゃあ出てけ」

 おいおい、これはまずいんじゃないか。っていうか、龍河先生ってすごい怖くない? とクラス全員が怯えたに違いない。

 声を荒げることなく、平坦な声で小野君に言葉を向ける様子がなんだか末恐ろしい。なんだろうか、この得体の知れない恐ろしさは。横と少し後ろを窺うと、裕吾も将太も目をきょろきょろさせることしかできないようだ。

「お前に必要なもんってなんだ。お前はどういう人生を歩もうとしていて、それにはなにが必要なんだ。数学か? 化学か? 体育か? 美術か?」

 なにも答えられない小野君を無視して、龍河先生は淡々と続ける。

「ここで学んだことが十年後、二十年後、もしくは死ぬ間際になって役に立つことがあるかもしれねえ。なにが必要でなにが不必要か、そんなの死ぬまでわかんねえんだよ。お前、予知能力でもあんのか?」

 そこまで言って小さく息を吐いた龍河先生は、興味なさそうに視線を逸らして、耳の後ろあたりをぽりぽり掻いた。

「必要ねえって言い切れんならここにいる必要はねえよ。お前が必要だと思うもんだけ学べばいい。だから出てけ。ちゃんと学ぼうとしてる奴の邪魔なんだよ」

 なんとも言えない気まずい空気が教室内を漂う。

 どうする。どうするんだ小野君。出て行くのか? 今ならまだ間に合うぞ。謝れば許してくれるかもしれないぞ。

「……教師がそんなこと言っていいのかよ」

 バカかお前は! とクラス全員が突っ込んだに違いない。

 小野君は鼻で笑い、挑発するような視線を龍河先生に向けた。

「お前にそう言われたって言ったらお前どうなると――」

「言いたきゃ言え。だがな、ここは学びたいって奴が集まってんだよ。お前、高校は義務教育じゃねえってこと知らねえのか? 学ぶつもりがねえならなんでここに入った? ここでなにかを得ようとしねえなら働いたほうがお前のためになるぞ。ここにいても時間と金の無駄だ。俺は向上意欲のねえ奴に教えるつもりはねえ。学ぶつもりがあるなら態度で示せ。学ぶつもりはねえが無意味にここにいるつもりなら、せめて邪魔にならねえよう静かにしてろ」

 小野君、撃沈。

 立ち上がろうとしない小野君を一瞥して、龍河先生は何事もなかったかのように授業を再開した。

 初授業にして波乱あり。とんでもない人がやってきた。

 容姿がいい、声もいい、スタイルもいい、センスもいい。

 そんでもって、正しくてまっすぐだ。


 もちろんこの珍事はあっという間に女どもの間で広がった。

「かっこよすぎじゃん」「なにそれ、超絶イケメンじゃん」「いいなあ、あたしも先生に教えてもらいたい」「個別授業してもらおっかな」「顔も中身も最高じゃん」「先生のためなら勉強がんばる」「服のセンス抜群じゃない?」「あのかっこよさは犯罪レベルだよ」

 そして最後に行きつく答えは――

「先生と付き合いたい!」

 堂々と口にする子だけでなく、引っ込み思案な大人しい子でさえ心の奥底じゃそう思っているに違いない。

「なあ~にが付き合いたいだ! 天地がひっくり返っても無理に決まってんだろ!」

 ポテトを食いながら裕吾が荒れる。駅近くのマックで将太と裕吾と三人、窓際の席に座ってバーガーとポテトとコーラーを腹に収めている。俺の右隣に将太、将太の向かいに裕吾が座るのがいつもの定位置。

「それはわかんないんじゃない?」

「なんで」

「先生だって男だし、女子高生に弱いかもよ」

「んなことあるか! あんなイケメンが女子高生に手出したら全部持ってかれるだろうが!」

「さすがに先生も一人であの数は相手にできないよ。っていうか裕ちゃん、食べながら話さないでよ、口の中見せないでよ。あと、大声は周りに迷惑だから」

「将太、よく言った。とりあえず、裕吾は地道にがんばりなさい」

「おい、凌。そんな涼しい顔してていいのか」

「なにが」

「なっちゃんだって先生に恋しちゃうかもしれないぞ? お前が手出す前に持ってかれちゃうかもしれないぞ?」

「なっちゃんはその辺の肉食動物とは違う。あと、手出すって言い方やめろ」

「いやいやいや、先生はそんじょそこらのイケメンとは違うんだぞ? あんなイケメンが近くにいたら誰だって恋しちゃうだろうが!」

「そうなったらそうなったで仕方ないだろ」

「うわあ……やっぱりモテる男は違うなあ、余裕だなあ」

「なんなんだよ、俺にあたるなよ。それにモテないし余裕なんてない」

「よく言うよ! どの口が――」

「はいはい、もうおしまい!」ぱんぱんと将太が手を叩く。「ところでさ、先生とお近づきになる方法は考えたの?」

 将太に訊かれ、裕吾はむっつりと黙り込んだ。

「なんもないんだな」

「そうみたいだね」

「だってよ、あんなん見せられておいそれと話しかけられるか? ただでさえイケメンで緊張しちゃうのに、下手こいたら小野の二の舞だぜ」

「小野の二の舞」将太が笑う。「言いづらいね。小野の二の舞」

「たしかに恐ろしかったけど、先生が言ったことはなにも間違ってないだろ。俺はハッとさせられたけどな」

「それは俺も思った。高校に入るのは常識というか、自分の意思に関係なく入らなくちゃいけないって思ってたからさ」

「まあな。でも中卒じゃ将来困るだろ。入れるんなら入っとかないと」

「それが理由でもいいんじゃないか? 将来のために高校に入って卒業する。立派な目的だろ」

「うーん、それもそうか」

「俺は龍河先生好きだな、なんとなく。なんか……うん、すごい好きかも」

「おい凌! 抜け駆けは禁止だからな!」

「なんの抜け駆けだよ」

 英語の授業は週四回。火曜日は三限目、水曜日は五限目、金曜は四限目、土曜日は二限目。

 今日は土曜日。だから三人で昼飯を食いにマックに来ているんだが、火曜日はひと悶着あったものの、水曜日も金曜日も、そして今日の二限目も、それはそれは穏やかに授業は行われた。しかし、そこに小野君はいない。

 二回目の授業があった水曜日。昼休みはたしかにいたのに、小野君はいつの間にかいなくなり、六限目がはじまる寸前に戻ってきて何食わぬ顔で席に座っていた。昨日も今日も、直前まではいるのに英語の授業のときだけ姿を消し、次の授業で姿を現す。

 真面目なのか不真面目なのか、小野君、よくわかんないな君は。

 小野君がいなくても、龍河先生はなに一つ変わらなかった。教室には龍河先生の声と、黒板とチョークが擦れる音と、ノートに書き写す音以外はなにも聞こえない。なぜならクラス全員、授業がはじまる前にスマホの電源を切るからだ。マナーモードではない、電源オフ。あの日の恐ろしさを、クラス全員忘れられない。

 最初に感じたように、龍河先生の授業はわかりやすい。なぜこの場合はこうなるのか、なぜこうじゃないのか、その説明がうまく理解しやすい。

 龍河先生は最初の授業で、「少しでもわからねえこと、疑問に思ったことがあれば遠慮なく訊くように」と言っていたが、龍河先生から「わからないことないか」とは訊いてこない。ただ授業中に数回、クラス全体を見渡して数秒の沈黙時間を訪れさせる。きっとその沈黙が、「わからないことないか」という意味なんだと俺は思っている。だが誰もなにも訊かない、というか、訊けないんだろう。俺は今のところ龍河先生の説明で事足りている。

 そんな生徒の心の怯えに気付いたのだろうか。今日の授業で一回目の沈黙が訪れたとき、龍河先生がついに訊いた。

「黙々とノート取るのは構わねえが、お前らほんとに理解できてるか? なんも訊かねえなら全員理解してるってことでどんどん先に進むぞ。わからねえことは恥ずかしいことじゃねえ。わからねえことをわからねえって言えるのは自分を成長させる第一歩だ。俺が話してる最中でも構わねえ、わからねえこと、疑問に思うことあれば訊いてくれ」

 淀みなく言うと、龍河先生は俺らに背を向けて黒板に文字を綴った。

 なんだろう、とてつもなくかっこいい。横を向くと、羨望の眼差しをした裕吾がいた。

 バーガーを食い終わって、ポテトもなくなって、コーラが入っていたカップは氷だけになった。わずかに溶けた氷をストローで吸い、飲み物買ってこようかな、なんて思ってたとき、将太が「あれ?」とぽろりと呟いた。

「どうした」

「あれ、先生じゃない? でもって、その先にいるの小野じゃない?」

「えっ!」

 俺と裕吾は声を揃え、将太が指差す方向に顔を向けた。駅に向かってこちらへ歩いてくる龍河先生と、その先に屯している小野君と、小野君のお友達らしき三人。龍河先生は小野君の存在に気付いていないのか、すたすたと小野君たちがいる方へ歩いていく。

 それにしても、なんか眩しいな。先生の周りだけきらきらしているように見えるのは俺だけだろうか。

「あれはまずくないか?」

「出るぞ。先生を守るんだ」

 守る? やられるのは小野君じゃないか? と思ったものの口にはせず、俺らは急いで店を出た。屯する小野君らのほうが近いが、このまま近づいて小野君の仲間だと思われるのも面倒だ。将太と裕吾と顔を見合わせ、やばくなったら飛び出そうと、とりあえず近くに潜んで様子見することにした。そんなこんなしてるうちにはじまってしまった。

「あれ? 龍河先生じゃないですか」

 なんという白々しい言い方だ。かっこ悪いぞ、小野君。

 名前を呼ばれ、龍河先生は歩調を緩めながら怪訝な顔で小野君らを見た。

「誰だお前」

 そう言い放った龍河先生の顔から、ほんとに覚えてないことが窺える。今のとこ生徒の中で誰よりも言葉を交わしたはずなのに、覚えてもらえていない小野君。なんだか可哀想になってきた。可哀想な小野君は、そのまま立ち去ろうとする龍河先生の右腕を「ちょっと待ってくださいよ」と力強く掴んだ。

 その瞬間、俺は見た。龍河先生の顔にはっきりと怒りが現れたのを、見てしまった。

「触んじゃねえ」

 地を這うような低い声が小野君に向けられる。真面目だか不真面目だかわからない小野君はそれだけで怯んだようだが、小野君はやはりバカのようで、引っ込みがつかなかったんだろう、へらへら笑って「先生とお話したいと思ってたんですよ」なんて言う。

 しかしそのへらへら笑いも、数秒で消えた。

 ここからは一分足らずで起きた出来事です。

 まず、龍河先生は自分の腕を掴む小野君の手をあっという間に振り払い、右足を小野君の鳩尾に蹴り込みました。小野君はガードレールにぶつかってくたくたと崩れましたが、龍河先生は小野君の胸倉を掴んで持ち上げると、目を合わせて「殺すぞ」と言いました。それはそれは背筋が凍るほどです。完全にビビった小野君は、震える声で「すみません」と謝り、龍河先生は投げ捨てるように小野君から手を離し、駅のほうへと歩いていきました。

 ちゃんちゃん。

 小野君のお友達も、通行人も、もちろん俺らも固まっていた。

 見てはいけないものを見てしまったのではなかろうか、小野君のためにもなにもなかったことにしたほうがいいのではなかろうか。とその場にいる誰もが目を逸らしたに違いない。

「あ、あれだな、今のは、うん、あれだな」

「うん、そうだね」

「うん、あれはね、うん、しょうがない」

「さてと、帰ろうか」

「うん」

「おなかいっぱいだしな」

 お友達に介抱される小野君を横目に見ながら、俺らはその場を後にする。

 小野君、頼むからこれ以上反抗しないでくれ。先生が犯罪者になっちゃうよ。


 火曜日の三限目、小野君がいる。

 どうしたどうした、なにがあった。と俺と将太と裕吾以外のクラス全員が二度見したに違いない。

 あの一件で龍河先生に逆らうことが恐ろしくなったのだろうか。いや、それしかないだろう。俺が小野君の立場だったら、そもそも最初の授業で逆らったりなんかしないけど、あんな小便ちびりそうな思いをしたらそりゃ従順にもなるってもんだ。

 龍河先生といえば、いつもとなんら変わらない。小野君がいようがいまいが、龍河先生は変わらない。

 今日の龍河先生は白シャツの上に黒のプルオーバーパーカー、ボトムスはベージュのチノパンという、着る人によってはダサくなりそうな格好を着こなしている。かっこよさも変わらない。教室に入ってきて、休みがいないか教室を見渡して、授業に入る。その動作も変わらない。

 ただ一つ、困ったことが起きた。

 授業がはじまって十五分を過ぎた頃、俺は壁にぶつかった。龍河先生の言っていることはわからなくはないが、よくわからない。参ったなとは思ったけど、そのときの俺はただ英語を学ぶ生徒になっていて、余計なことは頭になかった。だから自然と声に出していた。

「先生、訊いてもいいですか?」

 黒板に身体を向けようとしていた龍河先生が俺を見た。ついでにクラス全員の視線も感じたが、今はどうでもいい。

「ん?」

「この他動詞と自動詞の違いがいまいちわからないんですけど」

「ああ、それか。だろうと思った」

「え」

「他動詞と自動詞は説明してすぐに理解できるもんじゃねえ。慣れだ」

「慣れ、ですか」

「こればっかりはな。だから俺もここは時間をかけてやろうと思ってた。他動詞と自動詞の区別は日本語訳につられて間違えることが多い。まずは訳につられねえことだ。動詞自体がどう訳されるのか、そこに気を付けろ。さっき俺が説明した他動詞と自動詞の違いは理解したか?」

「大まかな違いはわかったんですけど、なんかややこしくて」

「じゃあ、いくつか例文を書く」

 時間をかけてやるつもりだったのだから、もちろん龍河先生は生徒全員に向けて教えている。だけど俺はちょくちょく質問するし、その度に龍河先生は嫌な顔一つせず答えてくれるから、まるでマンツーマンで授業を受けている気分。でもそのおかげでだいぶわかってきた。龍河先生が「慣れ」と言った理由も理解できた。俺としては大満足だ。

 授業が終わるまであと一分ほど。龍河先生は教科書と出席簿を閉じると、徐に「おい、前から四番目」と言った。呼ばれた小野君は飛び上がらんばかりに身体を震わせ、前を向いた。その顔を真正面から見据えて、龍河先生はいつもと変わらない落ち着いた声で小野君に言葉を送った。

「I don't say it's bad to oppose it. But don't oppose it meaninglessly. Efforts to improve yourself are not ugly. Don't lower your value for silly reasons. The world is wider than you think」

 ぽかんとする。憶測なんかではなく、クラス全員がぽかんとしている。もちろん小野君も。

「俺がなんて言ったか知りたくねえか」

 じっと見つめられている小野君は、ごくりと唾を飲むと掠れた声で答えた。

「……知りたい、です」

「じゃあ学べ。学ぶってことはそういうことだ」

 チャイムが鳴り、龍河先生は教室から出ていった。

 生徒だけになった教室にはまだ静寂が満ちている。その静寂はやはり、肉食動物と化した女どもによって破られた。

「やばくなーい!」「かっこよすぎるんだけど!」「英語だけ成績あがりそうなんだけど!」「もういい! 怖くてもいい! ちょー好き!」「どうしよう、ドキドキが止まらない!」

 いつもなら嫌ってほど聞こえるその声が遠くに聞こえる。俺の耳には龍河先生の声が、流暢な英語が残っている。

 一体、なんて言ったんだろう。小野君に、なにを伝えたんだろう。

 ――俺がなんて言ったか知りたくねえか。

 ――じゃあ学べ。学ぶってことはそういうことだ。

 知りたいと思う。だから学ぶ。単純なことなのに、当たり前のことなのに、忘れてる。先生は今までなにを学んで、なにを想って、どんな道を歩んできたんだろう。

「凌、お前抜け駆けしやがったな!」

 裕吾の声で我に返った。顔を上げると、裕吾の隣に将太もいる。

「凌ちゃん? どうしたの」

「あ? ああ、いや。なんだっけ」

「抜け駆けしやがってって、裕ちゃんが怒ってる」

「抜け駆け?」

「ちゃっかり先生に質問してただろうが」

「ああ、あれはただわかんなかったから訊いただけだよ」

 裕吾がじっと見下ろしてくる。

「なんだよ」

「お前ってさ、そういうとこあるよな」

「そういうとこ?」

「大胆っていうか、無鉄砲っていうか」

「そうかな」

「昔からそうだったよ、凌ちゃんは。普段は目立つようなこと自らしたりしないけど、突然豹変するの。中学のときさ、部活終わってコートの隅で休憩してたんだけど――」

「将太、殺すぞ」

「なになに、教えてよ。俺だけ知らないなんて寂しいじゃんか」

「お前は今の俺を知ってればいい」

「え、なんかかっこいいんだけど」

「だろ、だから知る必要はない」

「将太、あとで教えて」

「将太、言ったらお前のことも話すからな」

「俺は話されて困ることないよ」

 将太を睨み付けるも、将太はにこにこ楽しそうに笑っている。

「今日は将太と話すことがたくさんありそうだ。帰りマック行くか」

「うん、行こうか」

「なんなんだお前ら」

「ほらほら、次の授業移動だよ。準備しよ」

 将太の背中を睨み付けてから裕吾の背中を睨み付けたら、視界の端に小野君が映った。どことなく表情が柔らかいように見えるのは俺の気のせいだろうか。

 小野君はこれからどうするんだろう。不真面目なのか真面目なよくわからなくて、負けず嫌いで強がりで、でも実は心が弱い。なんだか中途半端な小野君だけど、「知りたい」と思った気持ちは中途半端に終わらせてほしくない。

「知りたい」と言ったあのときの小野君は、従順な小野君じゃなくて、俺と同じただの生徒だった。


 女どもは相変わらずうるさい。今日の服装がどうだとか、昼になにを食べてただとか、目が合っただとか、駅で見かけただとか。だがしかし、龍河信者による龍河情報ネットワークは広がっているものの、誰一人龍河先生についての情報は得られていないようだった。

 そう、龍河先生は謎なのだ。新学期がはじまってもうすぐ一ヶ月が経つというのに、女どもが知りたくてたまらない、年齢、身長、血液型、住んでる場所、そしてなにより恋人の有無、それらの情報はなに一つ得られていない。だが、肉食動物たちがこのまま引き下がるはずもない。

 昼飯を食い終わり、俺は飲み物を買うために一階にある自販機の前にいた。将太と裕吾は飲み物はいらないと言って教室にいる。水のペットボトルを取り出して教室に戻ろうと足を踏み出したとき、賑やかな声が左方向から近づいてきた。見ると、その正体は肉食動物の群れ。そして、五人の肉食動物に囲まれた龍河先生。龍河先生の右横に二人、左に一人、後ろに二人。龍河先生の手にはコンビニの袋があるから、コンビニから戻ってきたところで捕まってしまったんだろう。

「先生っていくつなんですか?」「今日はなに食べるんですか?」「先生って身長一八〇ぐらいですか?」「先生って血液型何型なんですか?」「先生ってすごいおしゃれですよね」「先生ってどの辺に住んでるんですか?」「先生って休みの日なにやってるんですか?」

 質問質問、また質問。これだけの質問を受けているのに、龍河先生はどれにも答えない。完全無視。すたすたと階段のほうへと歩いていく。だが俺は気が付いた。授業中だけの会話といえども、約一ヶ月間、龍河先生を近くで見てきた俺にはわかる。あれは、ものすごくイラついてる。

「先生って彼女いるんですか?」

 めげずに左にいる肉食動物が訊いたとき、龍河先生の足が止まった。必然的に肉食動物たちの足も止まる。同じ階段を目指していた俺の足もなぜか止まる。小動物のように振る舞う肉食動物たちを、龍河先生は気怠そうに振り返った。

「うるせえよ。邪魔だ、失せろ」

 固まる肉食動物たち。貼り付けられた媚び売る笑顔に、龍河先生は侮蔑に満ちた目を向けてさっさと歩き出した。

 俺はまた見てしまった。肉食動物たちの牙が抜かれた瞬間を。いけないと思いながらも笑ってしまう。唇をきゅっと結んで、下を向いて、なにも聞いてません、なにも見てませんって顔を繕ってから顔を上げる。顔を見合わせる惨めな肉食動物たちを置き去りにして、俺は笑いを噛み殺しながらだらだらと階段を上った。


 案の定、二日後にはこの珍事も知れ渡っていた。女どもだけではない、男どもの間でもこの話で持ち切りだ。

 女どもの反応は様々で、「えーサイテー」「イケメンだからってひどくなーい」などと批判する者と、「女に媚びない感じがかっこいい!」「だからこそ燃えるよね!」などと逞しく夢見る者と、「先生に媚びるとかサイテー」「それはそいつが悪い」などと共食いする者と、あちらこちらで勝手に騒いでる。

 一方男どもといえば、「かっけえええ!」の一択。これまで龍河先生のイケメンぶりに嫉妬していた奴らも、「先生は顔だけじゃないって思ってた」「あれは本当のイケメンだ」などと称賛しはじめ、裕吾のように龍河先生に憧れを抱いている奴らは、「一生先生についてくわ」「先生は俺たちの希望だ」などと訳わからないことを口走っていた。

「そんときの先生かっこよかったんだろうなあ。バカ騒ぎしてる女どもの傷ついた顔拝みたかったぜ」

「俺見たよ」

「は?」

「その場にいたから」

「はあ?」

「女たちの顔はちらっとしか見えなかったけど、先生の顔は真正面から見た」

「はああ?」

「あの蔑んだ目。俺だったらしばらく立ち直れないな」

「はあああ?」

「まあでも、やっぱり先生はイケメンだ」

「はああああ?」

「凌ちゃん、そろそろやめてあげて。裕ちゃんの目がはち切れる」

 俺は大笑いするも、裕吾ははち切れそうな目を俺に向けたまま。

「お前なんで早く言わねえんだよ! 二日もなんで黙ってんだよ! 最優先事項だろうが!」

「俺が言わなくたってどうせ噂になるから」

「そういうことじゃねえんだよ!」

「裕ちゃん裕ちゃん、目はち切れちゃうよ」

「目から血が溢れ出すとこなんて見たくないからもう落ち着けよ」

「落ち着いてられるかあ!」

「うるさいな。言いたくなかったんだよ、チクってるみたいで」

「凌ちゃんそういうとこ潔癖だもんね」

「俺が先生のこと崇拝してるの知ってるだろ! 凌のそういうとこ俺は好きだけどな!」

「責めるのか褒めるのかどっちかにしろよ。っていうか崇拝って……」

「俺は女にモテたいんだ! ヤリまくりたいんだ!」

「大声で宣言すんなよ」

「そのためにはイケメンである先生と仲良くなっていろいろご教示賜りたいんだ!」

「賜ればいいだろ勝手に。さっさと先生に声掛けて仲良くなれよ」

「俺だって仲良くなれるもんならなりてえよ! でもさ、なんて声掛ければいいんだよ。ドキドキしてしどろもどろになっちゃうよ」

 乙女のようにもじもじする裕吾を呆れた目で見て、ついでに呆れたため息を吐き出した。

「裕吾、もう諦めろ。いや、頼むから諦めてくれ。先生もお前に慕われたら迷惑だと思うぞ」

「なんでだよ」と眉間にしわを寄せた裕吾の顔がハッとなる。「お前、ライバルを蹴落として抜け駆けするつもりだな?」

 俺はもう一度盛大にため息を吐き出して席を立った。

「将太、あとは頼む。俺は便所に行ってくる」

「はいはい。ごゆっくり」

 逃げるのか! と言う裕吾の声を背中で受けながら、俺は教室を出ていった。

 形だけのHRが終わり、クラスメイトがぞろぞろと動き出す。帰る者たち、一つに固まって喋り出す者たち、部活に向かう者たち。ちなみに、俺も将太も裕吾も部活動には所属していない。うちの高校は生徒の自主性を重んじる文化なのである。そのおかげなのかはわからないが、スポーツ高と言われても過言ではないほどに各部活は優秀な成績を残しているし、勉学においても進学率は高く、難関大学へ進む生徒は多い。

 じゃあ俺たちはなにをしているのかと言うと、俺は週に三、四回、家の最寄り駅にある飲み屋で小遣い稼ぎのためにバイトをしている。バイトしてるのは将太も裕吾も同じで、将太は親がやってる飯屋、裕吾はマンガ喫茶で働いている。うちの高校はバイトも可なのだ。

 校門を出てしばらく歩いたところで、気が付いた。

「スマホ忘れた」

「マジかよ」

「マジ」

「リュックの底に埋もれてるんじゃなくて?」

 将太に言われてリュックの中を掻き混ぜるが、やはりない。「鳴らそうか」と将太が電話を掛けてくれるも、振動もしないし音もしない。

「やっちまった」

「まあまあ、そういうこともあるよ」

「ここで気付いてよかったじゃん。家に着いてからじゃ終わってたぜ」

 そう言って学校の方向へ戻ろうとする二人を俺は止めた。

「いいよ、一人で。お前ら今日バイトだろ」

「そうだけど、間に合うし」

「うん、俺も」

「いいって。もう駅のほうが近いんだから」顔を見合わせる二人に軽く手を挙げる。「じゃあな。また明日」

 二人を置いてさっさと歩き出し、駅に向かう生徒たちとすれ違いながら学校へ戻った。下駄箱に靴をしまい、教室へ行く。誰もいない教室に入って自分の机を見るが、机の上にはなにもない。机の中を覗いても、教科書が数冊入ってるだけでスマホはない。

「マジかよ」

 焦燥感がじわじわと俺を襲うが、落ち着け落ち着けと言い聞かしながら自分の行動を振り返った。少しして、貴重な記憶とぶつかりハッとなる。

「あそこか」

 六限目、歴史の授業で視聴覚室に移動した。授業が終わり、俺は左手に教科書類を持ち、右手でスマホを操作しながら教室前方のドアへと歩いていた。あとちょっとでドアに辿り着く、となったとき、先生に声を掛けられた。

「風丘、悪い。ちょっと手伝ってくれないか」

 振り返ると、授業で使った大きなパネルを抱えようとしている先生がいた。大した重さはないが、一人で持つのは大変だろう。俺は「はいはい」と言って素直に先生に近づき、パネルの片方を右手で持って、先生と一緒に準備室へと運んだ。「助かった、ありがとう」と言う先生に「いえいえ」と返し、俺は教室後方のドアから出ていった。

 そう、あのとき、先生に近づくとき、右手に持っていたスマホをポケットにはしまわず、近くの机に置いた、気がする。

 少し足早に視聴覚室へと向かう。そっとドアを開けて中に入ると、なぜか電気がついている。消し忘れか?と思いながら教室内を見渡すと、一番前の机の上に黒い物体。

 あった! よかった!

 身体からどっと力が抜ける。机に近づいてスマホを手に取ったとき、窓際のほうから小さな音が聞こえた。反射的にその音のほうへ顔を向けるが、ぱっと見なにもない、誰もいない。と思ったら、パソコンの向こうになにかが見える。

 うん? 誰かが突っ伏してる?

 正体を探るように身体を傾けると、その正体と目が合った。

「え」

 それしか声にならなかった。なんでいんの、という言葉を俺は呑み込み、驚いた様子もなく、机に突っ伏したまま俺のほうに顔を向けている龍河先生とただただ目を合わせていた。

「なあ、機械得意?」

「へ?」

 話しかけられてさらに混乱。人間は思いもよらぬことが起きると処理能力が低下する、ということを身をもって知ることができました。と誰かに言いたい気分だ。

 机から身体を起こし、椅子の背もたれに寄りかかった龍河先生は続けて俺に訊く。

「これ、どうやって操作するかわかる?」

 龍河先生の言う「これ」がなんなのか、戸惑いながらそっと近づいて確認すると、プロジェクターの操作パッドだった。そのほんの数秒で俺の心も頭も落ち着いてきた。

「いや、わかんないです。触ったことないんで」

「そうか」と残念そうにする龍河先生はなんだか可愛い。そのおかげか緊張はほぼ解け、無造作に置かれた薄い冊子が俺の目に映った。龍河先生の右手側にあるため、手が届かない。

「先生、それって操作マニュアルですか?」

「ん? ああ、そう。読んでも意味わかんねえんだよ」

「ちょっと見せてもらっていいですか?」

 操作マニュアルを受け取って中を見ると、それはそれはわかりやすい説明が載っていた。ユーザーを想った親切な操作マニュアルを手にしたまま、龍河先生に目を向ける。

「先生ってもしかして、機械音痴ですか?」

「いや」

「でも先生、このマニュアルすごいわかりやすいですよ」

「マジで?」

「はい、マジです」

 龍河先生の整った顔が俺に向けられ、茶色がかった綺麗な瞳に見つめられ、照れて見惚れてドキドキしてるのに、俺は笑いを堪えるので精一杯。

「お前今、笑い堪えてるだろ」

「いえ、堪えてません」

 本心を探るように俺をじっと見つめて、龍河先生は言った。

「授業中になんか訊いてきてももう答えてやんねえ」

「え?」

「お前今、俺のことバカにしてるだろ」

「え、あ、はい」と言ってしまってからハッとなって慌てて訂正する。「違います、今のは違います。バカにはしてません……笑いは堪えてましたけど」

 素直にそう言うと、思いがけないことが起こった。「あっはは!」と龍河先生が笑ったのだ。明るい声で、心底楽しそうに。

 こんな風に笑うのか。なんか、可愛いな。と思って、きゅんとしている自分に気付いてまたハッとする。いかん、これじゃ裕吾と同じだぞ。

 それでも思わずにはいられない。優越感に浸らずにはいられない。先生の笑った顔を、しかもこんなに明るく笑う先生を見たのは、笑わせたのは、校内では絶対に俺しかいない。それにさっきの言葉――

「冗談。ちゃんと答えるよ」

「はい、お願いします」

「これ、やって」

「あ、はい」

 操作マニュアルを見ながらプロジェクターを起動させる。スクリーンが下りてきて、プロジェクター自体のトップ画面が映し出された。パソコンにケーブルを接続すると、その画面がパソコンの画面へと切り替わる。

「すげえ」

 いや、このマニュアルがあるのにできないほうが……と思ってしまったのはバレバレだったようで、椅子ごと軽くぶつかられた。

「すいません」また素直に謝ると、やっぱり龍河先生は笑ってくれる。

 なんだか名残惜しい気もするけど、ここにいたら邪魔だよな。

「……じゃあ、俺はこれで」

「どこ行くの」

「え?」

「これの終わらせ方がわかんねえだろうが。付き合え」

「ええ?」

「なんかあんのか? このあと」

「いえ、ないですけど」

「じゃあいいじゃん。これ流して」

「あ、はい」受け取ったディスクをセットしようとして手を止めた。「先生」

「ん?」

「俺のこと知ってるんですか?」

「あ?」

「いや、さっき、授業中になんか訊いてきてももう答えてやらないって……」怪訝な顔をする龍河先生を見て、慌てて付け加える。「あの、なんていうか、先生はそのへん無頓着っていうか、興味ないのかなって思ってたんで」

 嫌な気分にさせたかな。そう思ってちらっと視線を向けると、龍河先生は気を悪くした様子もなく頬杖ついて宙を見ていた。

「まあ、興味はねえな。俺が受け持ってるクラス全員を覚えようとは思わねえし、そもそも覚えらんねえし。個人授業ならともかく、一度に何十人を相手にするわけだろ? 一人一人を気にしてなんかいられねえよ」

「そう、ですか」

「個人差ってのがある」

「個人差?」

「一回聴いて理解できる奴もいれば、かみ砕いで説明しなきゃなんねえ奴もいる。その差をどうやって埋めるかは教師が考えるしかねえ。名前を覚えることよりも、そっちを考えることのほうが大切だろ。だが、それにも限界がある。俺らがどうやっても埋められない分は、学ぶほうが埋めなきゃなんねえんだよ。だから、自分を諦めないで学ぼうとする奴のことは頭に残る」

 そこまで言って、龍河先生は俺を見上げて優しく笑った。

「俺はお前みたいなの好きだよ、風丘凌君」

 頬が熱い。耳が熱い。

 ずるい。ずるいよ先生。そんな風に笑いかけられたら、そんな嬉しいこと言われたら、照れずにはいられないだろうがこんちくしょう!

「あ、ありがとうございます」手に持つディスクを少し動かして、また手を止めた。「あの、俺も、先生のこと好きです」

 きょとんとする龍河先生。ああ、そんな表情もするんですね。なんて喜んでる場合じゃない。その声のトーンはそっちに聞こえるぞ。とんでもない誤解を生んでしまうぞ。

「いや、あれですよ、恋とかそういうんじゃなくて、先生としてって意味ですよ」

 頬染めながら慌てふためく俺を見て、龍河先生は吹き出した。今目の前にいるのはほんとにあの龍河先生なんだろうか、と思ってしまうほど、龍河先生からいろんな表情が生まれる。

 もうそれ以上はやめてくれ。それ以上微笑まれたら、俺は未知の世界に足を踏み入れてしまいそうだ。と思ったのも束の間、龍河先生はこれまでとはまた違う、嬉しそうな微笑みを湛えて俺に言った。

「ありがとな」

 どふわばああああああんっ!

 俺、撃沈。

 あれか? これが世に言うギャップ萌えってやつなのか? なるほど、たしかにすごい破壊力だ。俺みたいなひよっ子が抗えるわけもない。あの肉食動物たちがこんな先生を見たらと考えるだけで恐ろしい。お願いだから、肉食動物たちの前ではこれまでの先生でいてください。

 いつの間にかディスクは俺の手によってセットされ、スクリーンに映像が流れはじめた。龍河先生は教室の電気をすべて消し、前から三番目、スクリーン前の席に座った。

「突っ立ってないで来いよ」

 言われるがまま、龍河先生の隣に腰かける。スクリーンには『COLUMBIA』のロゴとトーチを持った女性が映っている。

「映画ですか?」

「五時まで暇だから」

 仕事中では? と思ったけど、すぐにまあいいかと思い直した。

 サボりだろうと、プロジェクターの後処理のためだろうと、今こうして龍河先生と一緒にいられることが無性に嬉しかったから。でも裕吾に話したら今度こそ目がはち切れるかもしれない……絶対に言えない。

 映画は俺でも知っている有名作品だった。冒頭、一人の男が友人の死を知るところからはじまる。そして話は過去に飛び、冒頭で現れた男を含む四人の少年たちの冒険話へと繋がっていく。様々な困難にぶつかりながらも目的地に向かう少年たちを、ユーモアを交えながら描き、少年たちの悩みや葛藤、密かに抱く夢、そういった大人になりかけの心を繊細に描く、青春映画だ。

 しかし映画の本編がはじまってすぐ、俺は呆然とするしかなかった。

 字幕がない。

 流暢な英語を聞きながら、少年たちが笑ってるなあ、焦ってるなあ、励ましてるなあ、怒ってるなあ、と思うだけで、なにを言ってるのかまったくわからない。映像でどういう場面なのかはわかるけど、俺が知り得るのは視覚から入る情報だけ。

 途中、鼻を啜る音が聞こえたからまさかと思って龍河先生を見ると、なんと泣いていた。目頭を押さえて、泣いていた。

 そりゃあね、あなたは英語お分かりになりますものね。感情移入もできますよね。俺だって字幕が出てたら泣いてたかもよ。っていうか、先生すごい可愛いじゃん。

 クレジットが流れ終わり、俺は立ち上がって教室の電気をつけた。立ち上がったついでに機器類の電源も落としていく。

「名作だな。何度見ても思う」

「……何回ぐらい見てるんですか」

「わかんねえ。覚えてねえぐらい見てる」

「え」

 先生、はじめて見たばりに泣いてましたよ。俺は見ましたよ。

「まさか、面白くなかったのか?」

「いえ、面白い面白くないと言う以前に、俺、英語聴き取れないんで、なに言ってるか全然わかりませんでした」

「ああ、そうか。なんだよ、早く言えよ」

「ええええ?」

「もう五時過ぎてんじゃん。帰ろうぜ」

「あ、はい」

 職員用の出入り口は一階、生徒用の出入り口は二階にある。だから龍河先生とは途中で別れた。そこで疑問が浮かぶ。

 俺が先に校舎から出た場合、待ってたほうがいいんだろうか。いや、いくら待っても先生が出てこない、先生は先に帰ってた、なんてことが起こる可能性は高い。これは困った、難題だ。

 そんな俺の葛藤を知ってか知らずか、龍河先生は当たり前のように校門に寄りかかっていて、俺の姿を見るとその背中を離した。

 なんかもう、かっこいいを飛び越えて腹が立ってくる。寄りかかる姿も、ただ立っている姿も、俺を待つという行動も、すべてがかっこいい。かっこよすぎるんだよこんちくしょう!

 駅まで約七分の道のり。会話が弾む、とまでは言えないが、ふつうに会話が続く。

「字幕なしはきつかったですけど、いいですね、なにかに頼らずに言葉がわかるって」

「なら、わかるようになればいい」

「あ……」

 龍河先生の声が蘇る。

 ――じゃあ学べ。学ぶってことはそういうことだ。

「そうですね。そう思うなら学ばないとですね」

 俺の返答に龍河先生は小さく笑った。それで気分をよくした俺は、少し攻めてみることにした。

「先生はどの辺に住んでるんですか?」あの蔑む目で見られたらどうしようとドキドキしたが、意外にもあっさりと教えてくれた。そこはここからだとけっこう遠い街。「え、通勤時間かかりません?」

「一時間ぐらいだな。だが下りだから空いてる」

「そっか。それなら少しは楽ですね」

「どこ住んでんの?」

「俺は――」俺の答えを聞いて、龍河先生は少し驚いた顔を見せた。

「俺そこ住んでた」

「え! ほんとですか!」

 俺んちあの辺なんですけど、と詳細な場所を伝えると、龍河先生は「マジで。俺が住んでたの――」と詳しい場所を教えてくれた。中学は別区になるが、あの辺だなとわかるぐらいの場所だ。

「じゃあ、知らず知らずのうちにすれ違ってたかもしれないですね」

「あり得るな」

 七分なんてあっという間。駅に着き、改札を通ると龍河先生は右へ、俺は左へと別れる。「じゃあな」と言う龍河先生に会釈をして背中を向けたとき、背中に声がぶつかった。

「凌――」

 二重の驚きで一瞬息が止まり、振り返るまでの間に思考が巡る。

 先生の声だよな? え、凌?

 振り返ると、すぐそこで龍河先生は足を止めていた。

「言おうと思って忘れてた。凌っていい名前だな」

 ぽかんとする俺と微笑みを置いて、龍河先生は今度こそ背中を向けて遠くなっていく。

 その背中が、後ろ姿さえもかっこいい。先生が歩いた道だけ淡く光を放っているように見えるのは俺だけだろうか。

 どのくらいかはわからない。たぶん二、三分だろう。俺はその場に佇んだままだった。誰かとぶつかって我に返り、なにかに酔いしれるような足取りで駅のホームへと歩いていく。ホームから見える空を見上げると、今さらになって緊張したときのような感覚が湧き上がってきた。

 

 次の日、四限目は英語である。

 どこか落ち着かない気分のまま、俺は龍河先生が教室に入ってくるのを見守った。今日の龍河先生は、モスグリーンのバンドカラーシャツに、グレーのチノパン。

 どうしたらああやって着こなせるんだろう。とクラスの男全員が首を傾げたに違いない。いや、龍河先生を見るたびに傾げているに違いない。

 俺らがいくら羨む視線を送ろうと、龍河先生は変わらない。映画を一緒に見ようと、駅まで一緒に帰ろうと、龍河先生は変わらない。そう、それが龍河先生なのである。

 とくにわからないこともなく、小野君が反抗的になることもなく、授業は滞りなく進んでいつも通り終了した。チャイムとともに龍河先生は教室から出て行く、はずだったのに、教科書と出席簿を閉じた龍河先生は、俯いてシャーペンやらノートやらを片付けている俺の名前を呼んだ。

「凌」

 驚いたのは俺だけじゃない。クラス全員の視線が俺に集まっているのを感じる。驚きと嫉妬が混じった視線。

 おい、凌ってなんだ。なんで下の名前で呼ばれてるんだ。龍河先生とどういう関係なんだ。と責め立てるクラス全員の声が聞こえる。とくに右横から強く感じるのは、俺の気のせいではないだろう。

「はい」

「飯付き合って」

「え?」

「行くぞ」

「え? あ、はい!」

 有無を言わせない龍河先生の態度に俺は慌てて立ち上がり、財布とスマホだけを持って後を追った。クラス全員の視線が、とくに右横からの視線が俺の動きに合わせて動いているのをびんびんばんばん感じる。怖くて向けない。きっと目がはち切れてるだろうから、見たくない。

 龍河先生は一旦職員室に寄って荷物を置くと、すぐに廊下に出てきた。歩きながら俺に訊く。

「ここの食堂うまいか?」

「うーん、普通ですね」

「高校の食堂じゃそんなもんか」

「残念ながら」

 平静を装っているが、内心バクバクである。

 これは一体どういう状況なんだろうか。お昼のお誘いは嬉しいけど、あまりにも唐突すぎないか? 先生、これは一体どういうことですか。

 食堂の入口にはメニューが書かれたボードがある。今日のメニューは、カレー、生姜焼き定食、卵とじ丼、ラーメン、おにぎり、デザート。

「なに食う?」

「生姜焼きですね」

「俺もそうしよ。デザートってなに?」

「今日はプリンです」

「お、いいねえ。それも食お」

 先生、プリン食べるんですか? 俺は塩で酒飲むぜ、っていうイメージだったんですけど、甘いもの好きなんですか? 先生、すごい可愛いじゃないですか。

 なんて龍河先生の新たな一面にきゅんとしているうちに、龍河先生は生姜焼き定食とデザートの食券をそれぞれ二枚ずつ購入していた。

「はい。凌もプリン食うだろ?」

「え?」

「食わねえの?」

「いや、そうじゃなくて。お金……」

「昨日の礼」

「え、いいですよ! お礼してもらうようなことしてませんし」

「凌がいなかったら俺は五時まで机に突っ伏してた」

「……ああ」思い出すと笑えてくる。

「凌、今笑い堪えただろ」

「すいません」

「あとは口止め料だな」

「サボってたことですか」

「あれは英語の勉強だ」

 字幕なしで見る人の発言じゃないと思いますが。

「え、じゃあ……ああ、機械が苦手なことですか」

「言うんじゃねえよ」

「すいません。じゃあ遠慮なくご馳走になります。ありがとうございます」

「どういたしまして」

 俺らの順番が回ってきた。トレイを手にして龍河先生がおばちゃんに食券を渡すと、受け取ったおばちゃんの目が見開かれ、あっという間に頬が染まっていく。次から次へと頬を染めるおばちゃんたちから白飯、味噌汁、キャベツが添えられた生姜焼き、プリンを受け取ってトレイに乗せ、席に着く。女どもがいない、男どもが集まっている場所を選んで座った。

 廊下を歩いてるときも、食券を買うときも、並んでるときも、そして今も、四方八方から視線を感じる。ほとんどが珍しいものを見る好奇の視線だが、肉食動物たちの視線は殺気すら感じる。お前は誰だ、なんで先生と親しく喋ってるんだ、あたしたちとは喋ってくれないのになんでお前とは喋るんだ、そんな心の声とともに突き刺す視線を送ってくる。

 そうか、殺気が媚びに変わるだけで、先生はいつもこんな風に見られてるのかな。こりゃしんどいわ、疲れるわ。

「凌、きのこ好き?」

「え? はい、好きですよ」

「じゃああげる」

 そう言って、龍河先生は生姜焼きに混じっているしめじを俺の皿にぽいぽい入れはじめた。

「きのこ類全部ダメですか?」

「しめじとしいたけだけ」

「なんか、先生って知れば知るほど面白いですね」

「あ?」

「しめじ、俺の皿に全部入れちゃってください」

 すべてのしめじを俺の皿に移動させた龍河先生は満足そうだ。肉を頬張って白飯を口に入れる。

 ああ、なんですかその食いっぷりは。男らしいのに可愛いってどういうことだこんちくしょう! と食堂にいる全員が机を拳で叩いたに違いない。

 場所が場所なだけに、龍河先生のプライベートなこと、龍河先生自身のことは避け、「このあと授業あるんですか?」とか「学校慣れましたか?」とか、他愛のない質問をする。ちゃんと答えてくれるし、「このあとなんの授業あんの?」とか「購買のパンうまい?」とか、龍河先生からも訊いてくれる。

 そうやって話していると、周りのことはもうどうでもよくなっていた。ただ龍河先生と話すことが楽しかった。

「今日、質問してこなかったな」

「はい、今日はちゃんと理解できました」

「この前まで質問攻めだったのに」

「今でも訊きたいくらいですよ」

「訊きにくりゃあいいじゃん。俺五時まで暇だし」

「え、いいんですか?」

「当たり前だろ。俺の仕事はお前らに教えることだ」

「そんなこと言われたら、俺ほんとに行きますよ?」

「凌ならいいよ」

 ぼふうううううんっ!

 なんだ、この特別感は。なんかの策略ですか、それともそれが自然体なんですか。先生、あなた恐ろしい人ですよ。

「……今日でもいいんですか?」

「ああ」

「じゃあ、今日伺います」

 龍河先生は「うん」と言って、プリンの蓋をぺりぺり剥がしはじめた。スプーンで掬って口に運ぶ。「うまっ」と言って、また食べる。

 ああ、可愛い。けどかっこいい。なに食べても様になるんですね。プリンもいつも以上にぷるぷるしてる気がします。

「そういや、昼持ってきてなかったのか?」

「今さらですね」笑ってしまう。「大丈夫です、持ってきてません」

「普段から?」

「はい」

「じゃあいつでも昼に誘えるな」

 ぼふうううううんっ!

 やめて。

「はい、いつでもどうぞ」

「凌も誘えよな。いつも俺からじゃ寂しいじゃん」

 ぼふううううううんっ!

 お願いだから、もうやめて。

「はい、しつこいってぐらい誘います」

「しつこいのはやだ」

 そう一刀両断したものの、龍河先生は俺を見て楽しそうに微笑んだ。

 ぼふうううううううんっ!

 その微笑みはやめて。俺の心臓がぶっ壊れます。それに、それを肉食動物たちに見られるとまずいから。スイッチ入っちゃうから!

 龍河先生の微笑みから目を逸らすために、プリンの蓋をぺりぺり剥がして一口頬張った。甘かった。プリンってこんなにうまかったっけ、ともう一口食べる。

「うまいな、プリン」

 そう呟いた俺を見て、龍河先生は「だろ?」と嬉しそう笑った。

 だからやめてって。


 うるさいうるさいうるさいうるさい。

 教室に戻ると、裕吾がぶっ飛んできた。それからずっとうるさい。どうせ同じようなことしか言ってないだろうから、「うんうん」と聞き流している。

 何回目になるかわからない「うんうん」を言ったとき、裕吾の声を遮る声があった。なんだ? と思って見上げると、知らない女が三人立っている。

「ごめーん、ちょっといい?」

 意味がわらからなくて黙っていると、女はそれを了承ととったのか勝手に喋りはじめた。

「えっと、風丘君だよね?」

 なんだこいつは。まあ、予想はつくけど。

 答えるのも面倒で、俺は椅子に寄りかかってただその女を見上げた。将太と裕吾は怪訝な顔で成り行きを見守っている。

「急にごめんねえ。風丘君にちょっとお願いがあるんだけど……」

 少し首を傾げ、甘えるように言ってくる。その仕草とその声を可愛いとでも思ってるんだろうか。だとしたら相当やばい奴だが、勘違いしたまま俺に話しかけ続けてくる。

「実はね、あたしたち龍河先生と仲良くなりたいなって思ってるんだけど、先生うちのクラス受け持ってないから接点ないし、話しかけようかなって思ってもなんか近寄りがたいし、勇気出して話しかけても全然喋ってくれないし、なんかもうどうしたらいいのか困り果てちゃってさ。でも風丘君って先生と仲いいでしょ? だから風丘君から――」

「あのさ」

 女の喋りを遮ると女は口を閉ざしたが、その顔は「あたしのお願い聞いてくれるよね」と言っている。可愛い子のぶりっ子も痛々しいが、不細工の勘違いぶりっ子はさらに痛々しい。

「あんたら恥ずかしくないの? 人をじろじろ見て、媚び売って、摺り寄っても相手にされなくて、挙句に人を利用して。自分の力で手に入れらんないなら、それはあんたらには分不相応だってことだろ」

「な、にそれ、最低――」

「最低なのはあんたらだろ」息を一つ吐き、少し俯いて後頭部をぽりぽり掻く。ダメだ、我慢できない。「あんたらさ、自分が仲良くなりたいと思ったら相手もそう思ってるとでも思ってんの? ぎゃあぎゃあ騒いで迷惑かけて嫌な思いさせて、相手の気持ちも考えろよ、ガキじゃねえんだから。誰だか知らねえけど醜いんだよお前ら、やってることが」

「みに――」

「どっか行ってくんない、邪魔だから」

 怒りか羞恥か、顔を真っ赤にして女どもは俺に背を向けた。女どもが廊下に出た途端なぜか拍手が沸き起こり、男を中心に、男も女も朗らかな顔で俺に拍手を送っている。拍手していないのはあの女どもと同類なんだろう。

「凌ちゃんかっこいい! 惚れそうだった!」

「俺は惚れた!」

「やめてくれ」

「お前ら、今日バイトあんのか?」

「俺はないよ」

「俺もないけど」

「よし、じゃあ今日は俺がナゲットを奢ってやる!」

「あ、ごめん。俺今日ダメだ」

「なんで」

「……用がある」

「今の間はなんだ。嘘か、俺らに嘘か」

「今のはなんかあるね」

「違う違う、ほんとに用があんの」

「なんでだよ、俺は凌に訊きたいことが山ほどあるってのに」

「俺はお前に話すことなんてなに一つない」

「俺も訊きたいけどなあ」

「うるさいうるさい。早く席につけ」

 タイミングよくチャイムが鳴った。

 HRの終わりを告げる、担任の「気を付けて帰れよ」の「よ」で、俺は脱兎のごとく教室から飛び出した。「あ! てめえ!」と言う裕吾の声がわずかに聞こえたが、振り返ってはいけない。追いつかれてはいけない。

 廊下を走ってはいけません。という標語を頭から消し去って、猛ダッシュで職員室に飛び込んだ。入ってすぐの机に化学担当の先生がいて、ぜえぜえ息する俺を訝しむように見てくるもんだから、「ちょっと実験を」と誤魔化した。

「あの、先生、龍河、先生は、どこですか」

「えっと~」少し首を伸ばして職員室内を見渡す。「いないから、準備室じゃないかな」

「そうですか。ありがとう、ございます」

「大丈夫?」

「はい、実験のためですから」

「無理しないようにね」

「はい、ありがとうございます」

 一礼して職員室のドアを開ける。見知った顔がいないことを確認し、また猛ダッシュ。二階から四階へと一段飛ばしで駆け上がり、ようやく英語準備室に辿り着いた。椅子の背もたれに寄りかかりながら、龍河先生は眉一つ動かさず言った。

「なんでそんなに息切れてんの」

「いや、ちょっと、実験を」

「なんの」

「俺の、肺活量に、ついて」

「ご苦労なことだな」

「はい、でももう、やりません」

「そうしろ」

「はい、そうします」

「隣行くぞ」

 英語準備室の隣は視聴覚室。昨日龍河先生と映画を見た教室だ。

「映画ですか」

 でこぴんされた。

「いてっ」

「勉強教えろって言ったのは誰だ」

「俺です。すいません」

 龍河先生のあとについて視聴覚室に入り、俺は電気をつけ、龍河先生は移動式のホワイトボードを一番前の真ん中の席までカラカラと移動させる。あそこに座れってことだな、と龍河先生の意図を読み取って席につくと、放課後の特別授業はすぐにはじまった。

 龍河先生がホワイトボードに例文を書いて問題を出し、俺が答える。その答えが合っていても間違っていても、なぜその答えになったのか龍河先生は訊いてきた。答えを間違えたときはその原因を探るためだが、答えが合っていても解釈や捉え方を間違えていることもあり、龍河先生は一つ一つ、俺がしっかりと理解できるまで様々な例文を書いては説明し、龍河先生独自の覚え方や考え方を伝えてくれる。口調は素っ気ないけど、学びたいと思う俺の気持ちを一つも無駄にせず、ひたすらまっすぐに応えてくれた。

 五時までの二時間はあっという間で、物足りなさすら感じてしまった。

「ありがとうございました。だいぶ賢くなりました」

「自分で言うなよ」と笑う龍河先生。

 まだドキッとさせられるけど、この二時間で龍河先生の笑顔にも少し慣れてきた。というか、龍河先生はよく笑う人なんだと気が付いた。可笑しいと思えば、楽しいと思えば、嬉しいと思えば、龍河先生は笑う。そんな当たり前のことに、俺はやっと気が付いた。

 落ち着き払った龍河先生、動じることのない龍河先生、阿修羅のような龍河先生、無邪気に笑う龍河先生。あれもこれも、全部龍河先生なんだ。

 龍河先生は椅子にだらしなく座って、俺はホワイトボードに書かれた文字をせっせと消している。

「凌はなんでこの高校選んだんだ?」

「なんですか、急に」

「ふと気になった」

「なんでと言われても……なんとなく、ですかね」

「曖昧だな、だいぶ」

「俺、地元の高校には行きたくなかったんです。なんか、地元の高校に行ったらそこで全部終わっちゃうような気がして。地元の高校行って、地元の人と結婚して、地元で暮らして、大学とか会社とかは地元から離れるでしょうけど、自分の基盤が地元になるのが嫌だったんです。地元が嫌いなわけじゃないですし、地元から離れない人を否定するつもりもないです。俺はただ、いろんな人と混じっていろんなことを吸収して、いろんなことを教えてもらって、そしたら、もしかしたら自分でも気付かなかった自分に気付けるかもしれないなって。地元にいたら、それができないように思えたんです。将来、もし地元で暮らしていくことを選んだとしても、そういういろんな経験を経てから地元に戻りたいなって。俺の勝手な考えですし、地元でがんばってる人には失礼な考えですけど」

 一人でペラペラ喋ったことが急に気恥ずかしくなる。ちらっと龍河先生を見ると、俺をじっと見つめていた。なんですか、その目は。とドキドキしたが、質問の答えになってないんだなと気が付いて、一人演説をまたはじめた。

「そんでまあ、いろいろ高校探しはじめたんです。自分の学力より少し上で、校則ガチガチじゃなくて、将来の選択肢が多いとこで、ってな感じで。いくつか候補はあったんですけど、なんかここが気になったんですよね。ここを選ぶことは、俺にとって正しい選択のような気がしたんです、なんとなく」

「ふうん」

「だから説明できるほどの立派な理由はないんです」

「そうか? 俺はそういう直感って大事だと思うよ」

「そうですか?」

「凌が言う『なんとなく』は、自分を信じた『なんとなく』だろ? なら、その『なんとなく』は大事にすべきだ。予測ができねえ選択を迫られたとき、どっちを選べば正解、なんてねえ。どっちを選んでもなにかしらで後悔したり、もう一方を羨んだりすることになる。だが、大事なのは選んだ道をどう進むかだ。後悔しながらも、振り返りながらも、それでも自分の選んだ道が正しかったって、最後の最後で思えるように努力する。こっちを選んでよかったって思えるような生き方をする。そうすれば自分を信じた『なんとなく』は、たしかなものになるはずだ」

 やっぱり照れる。少し慣れたとはいえ、この見惚れる顔に見つめられて自分を肯定されると、とんでもなく照れる。

「な、なんか、照れますね」

「なんでだよ」

 可笑しそうに笑う龍河先生を直視できない。今はダメだ。今その笑顔を見たら俺の龍河耐性ゲージが崩壊する。だからホワイトボードと向き合って、入念にホワイトボードを綺麗にしていく。

「ここに入ってよかったって思えてるか?」

「はい、思えてます。楽しいですもん」

「ふうん」

「うちのクラスにいる渡真利ってわかります?」

「わかんねえ」

 あまりにもあっさり即答する姿に笑ってしまう。

「将太と俺――あ、えっと、渡真利と」

「いいよ、将太で」

「あ、はい。将太と俺、幼稚園からの幼馴染みなんです。高校選ぶとき将太に相談しようかなって思ったんですけど、そうすると、さっきの直感みたいなのが見えなくなりそうで、だから高校は一人で決めようって決めて、将太にもそう伝えたんです。そしたら将太もそうしたかったって言うから、願書出してからお互いどこ受けるか報告し合ったんですけど、そしたらなんと同じ高校だったんです。あんときは目ん玉飛び出るかと思うぐらい驚いて興奮して、声枯らして――」今思い出しても笑えてくる。「将太とは一年二年って別クラスだったんですけど、最後に同じクラスになれたんです。だから今年はさらに楽しくなりそうです」

「へえ」

「あ、あと相沢ってわかります?」

「わかんねえ」

「裕吾はここ入ってできた友達なんですけど、奇跡的に一年から三年までずっと同じクラスなんです。将太も裕吾も、友達の友達は自分の友達っていう呑気な奴なんで、二人ともここ入ってすぐ仲良くなって、だから一年のときからずっと三人でつるんでるんです。そんな三人が今年やっと揃ったんで、最後の一年は絶対楽しいに決まってます」

「ふうん」と言う龍河先生の表情は柔らかくて、その優しい顔を見ていたら言わずにはいられなかった。

「それに今年は先生がいてくれるので、最高の一年になると思います」

 龍河先生はふっと笑うと、その笑みを湛えたまま言った。

「俺がいることで凌の最後の一年が最高の一年になるなら、俺の最後の一年も、凌がいることで最高の一年になるな」

 ぼふうううううんっ!

 龍河耐性ゲージ崩壊。

 なんですか、その嬉しいお言葉は。ああ、息がうまく吸えない。心臓が暴れてる。血液が暴走する。誰か、俺にワクチンを。龍河ウイルスに耐性を持つワクチンを打ってくれ!

「……尽力します」

 あっはは! とレア級の笑顔を見せて俺の心をまたも掻き乱した龍河先生は、本気で言っているのか、それとも合わせて言ってくれているのか、その本心はわからなかったけど、からかうような色をわずかに含んだ、なにかを期待するような笑みを浮かべて「期待してる」と言ってくれた。

 駅までの約七分。龍河先生が昨日より打ち解けてくれていると思うのは俺の願望だろうか。

「凌は部活入ってねえんだ?」

「はい、バイトしたかったんで」

「へえ、なんのバイトしてんの」

「飲み屋です。駅前にある『かねや』っていう店なんですけど」

「知ってる」

「マジっすか!」

「うん、あそこずっとあるだろ。たまに行ってた」

「ええ!」

「出汁巻きうまいよな」

「今も健在ですよ」

「うわあ、食いてえ。凌がいるときに行こうかな」

「え」またそうやって嬉しいことを。「来てくださいよ。出汁巻きサービスしますよ」

「マジで。すげえ特権持ってんな」

「孫のように可愛がってもらってるんで」

「想像つくな」

「……先生は接客向かなそうですよね」

「あ?」

 軽く尻を蹴られた。ほら、やっぱり昨日より打ち解けてる。

 駅がどんどん近くなってきて、俺はドキドキしてきた。先生に訊きたいことがあるのだ。ただそれを訊いたことで、調子乗ってんなって思われてそっぽを向かれて、手の届かない遥か彼方へ離れていってしまう可能性もある。だがしかし、受け入れてくれる可能性もある。勇気を出せ、風丘凌。

 改札を通ったところで龍河先生に声を掛けた。

「あの、先生」

「ん?」

「あの……」頭をぽりぽり。心はもじもじ。「あの、今日みたいな勉強じゃなくても、放課後、先生んとこ行ってもいいですか?」

「来ればいいじゃん。じゃあな」

 なんでもないように言って、龍河先生はさっさと行ってしまった。

 あれか? これが世に言うツンデレってやつなのか? なるほど、たしかに効果絶大だ。俺のドキドキはなんだったんだろうってちょっと虚しくなったけど、それを大きく上回って安堵と嬉しさがやってくるじゃないか。先生、師匠って呼んでもいいですか。

 ホームへ続く階段を上り、並んでいる列に俺も並ぶ。電車が来るまであと三分。昨日と同じように、ホームから見える小さな空を見上げると、少しだけオレンジ色が混ざっていた。

 あと二日で四月も終わる。

 将太と裕吾の顔が浮かび、最後に龍河先生の声と笑顔を思い出す。

 高校最後の一年間、俺にとって特別な、忘れちゃいけない一年間になるんじゃないかって、なんとなくそう思った。

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