なんとなく

@ikyuns

現在

 飲み屋、古着屋、コンビニ、雑貨屋、喫茶店、八百屋。

 昔からある店、新しい店、新旧問わず様々な店が軒を連ね、昼も夜も多くの人で賑わう街に、そのライブハウスはある。十一年前と変わらず、そこにある。

 地下に伸びる階段を下り、ステッカーとサインで埋め尽くされた重い扉を開けると、そこはもう別世界だ。身体を震わすほどの音と熱、言葉を失うほどの衝撃と希望。十一年前も今も、やはりそれは変わらない。

「いやあ、ほんと助かったよ、ありがとね」

「丸さんの頼みなら喜んで手伝わせてもらいますよ」

「嬉しいこと言ってくれるじゃないの」

「ほんとのことです」

「恩に感じてもらうようなことしてねえけどな、俺は」

「なに言ってるんですか。丸さんがあんとき雇ってくれなきゃ、今の俺はいないんですから」

「こんなに立派になって、おじさんは嬉しいよ」

「おじさんなんて歳じゃないじゃないですか」

「なに言ってんの、俺もう五十だよ? 凌ちゃんが歳取った分、俺も歳取ってんの」

「でも全然変わんないですよ、俺が働いてたときから」

「それって褒めてる?」

「褒めてる褒めてる。褒めまくりですよ」

「よし、ならよし」

 スタッフの控室にひょこっと顔が覗いた。

「あ、すみません、お話し中に」

「いいよいいよ。片付け終わった?」

「はい」

「ありがとね。恒ちゃんもおいで。一緒に飲もう」

「いいんですか?」

「もちろん。なにを遠慮してるの。変なとこ真面目だよね、恒ちゃんは。誰かさんに似てるわ」

「うん? 誰ですか?」

「君だよ君。凌ちゃんも変なとこ真面目でさ、そのくせたまにぶっ飛んだことするんだよ」

 恒ちゃんは「へえ」と言いながら椅子に腰かけ、窺うように俺を見た。

「風丘さんはどのくらいここで働いてたんですか?」

「四年ぐらいだね。大学一年から卒業するまでだから」

「そうなんですか。なんか感動です」

「なにが?」

「いや、風丘さんのお噂は聞いてたので」

「噂? え、なに?」

「うちのライブハウスからすごい優秀なPAが誕生したって、いつも丸さんが自慢してます」

「ええ?」

 ぎゃはは! と丸さんが笑う。

「ちょっと丸さん、変なこと吹き込まないでくださいよ」

「なんでよ、ほんとのことじゃない。うちで辰さんと一緒にやってるときから思ってたよ、凌ちゃんはPAに向いてるなって。呑み込みも早かったし、センスがあるっていうのかな、感覚が鋭いっていうのかな」

「褒めすぎです。鵜呑みにしないでね」

「え、でも実際ご活躍されてますよね?」

「活躍ってほどじゃないよ、まだまだ勉強中だし。まあでも、なんせ基礎を辰さんに仕込まれてるからね。もし評価してもらえてるなら、辰さんのおかげかな」

「辰さんに教われたのはでかいよね。でも凌ちゃんにセンスがあったからこんなに優秀なPAになったんじゃない」

「やめてくださいよ。どうしたんですか。なんかのドッキリですか」

「久しぶりに会ったからさ、嬉しくて。いつぶり? 二年ぶり?」

「そのくらいですね。すいません、全然顔出せなくて」

「いいんだよ、凌ちゃん忙しいんだから。でもほんとに嬉しいなあ。凌ちゃんの噂は全部褒め言葉だもん。うち出て七年?」

「そうですね。早いもんで」

「ってことは、うちで音響やってたの入れれば十年ぐらいか。もう立派な一人前だ」

「全然ですよ。日々勉強です」

「真面目だねえ。ほら、恒ちゃんと似てる」

「えええ? そんな、滅相もない」

「今の子ふつう滅相もないなんて言わないよね」

「あはは! そうですね」

「次はどこのイベントやるの?」

「来週の――です」

「へえ! すごいなあ! あのフェスいいよね。大きすぎず小さすぎず、出演者も厳選されてる感じして」

「俺も好きです。だから張り切ってます」

「いいねえ。いやあ、ほんと、凌ちゃんが音楽を選んでくれてよかった」

「丸さんにそう言ってもらえるとマジで嬉しいです」

 恒ちゃんがきょろきょろと俺と丸さんを交互に見る。

「どういうことですか?」

「この子さ、大手企業の内定貰ってたのに、それ蹴ってこっちの世界に来たんだよ」

「え、そうなんですか?」

「そうそう。びっくりしたよ俺は。ま、嬉しかったけどね」

 そう言って本当に嬉しそうに笑う丸さんを見て、俺も嬉しくなって笑ってしまう。そこでまた窺うような顔して恒ちゃんが俺に訊く。

「音楽に関わる仕事をしたいって、ずっと思ってたんですか?」

「いや――」ぽりぽりとこめかみを掻く。「正直言うと、まったく思ってなかった」

「え、じゃあ、なんで……」

 なんで。

 俺もそう思う。PAの仕事が面白いと思ったからこの道に進んだことは間違いない。でもどうしてあのとき、この街を訪れたのか、ここに足を踏み入れたのか、それは未だによくわからない。それでも十一年間、変わらない想いが、たしかな想いがずっとある。この道を進めばその想いに手で触れられるような気がして、分かれ道に立ったとき、俺はこの道を選んだんじゃないか。なんとなくそう思っている。

 高校を卒業し、大学に入学し、俺はこの街を訪れた。一回しか来たことのないこの街になにを期待したのかはわからない。けれど、自然と足はここに向かっていた。そして見た。求める気があるのかないのか、手のひらに納まってしまうぐらいの小さな紙に書かれたバイト募集の文字。気付いたら、階段を下りてドアを開けていた。

「いいねえ! 君みたいな子、好きだよ俺は!」

 履歴書も持たずに突然やってきた俺を、丸さんはそう言って笑って迎えてくれて、即採用。そうやってここでのバイトがはじまった。

 自分で音楽を奏でようとは思わない。そんな才能も素質もない。だけど音を感じるのは好きだ。手が空くと、音響担当の辰さんがいるブースを眺めている自分がいることに、辰さんに声を掛けられて気が付いた。「興味あんのか?」と辰さんに訊かれ、その一言から音響の仕事を少しずつ手伝うようになり、いつしか音響の手伝いが仕事のメインになっていた。それが面白かった。

 大学四年、俺は大手と言える企業からの内定を貰い、安堵したし、嬉しかったし、働く自分を想像した。でも、心の端っこの端っこで、なにかが燻っていた。

 燻ったまま一ヶ月ちょいを過ごしたある日、辰さんに言われた。

「うちの会社で働かないか?」

「え?」

「大学四年ってことは、就活してるんだろ?」

「えっと、してました。内定貰って」

「マジかよ! 遅かったか!」ちっ! と盛大に舌打ちして、困ったように笑う。「ま、声掛けるの遅かった俺が悪いな。おめでとさん」

「ありがとうございます」

「ちなみに、どこの会社から貰ったんだ?」

「二社あるんですけど――」

 社名を聞いた辰さんは「おお!」と感心する声を出しながら、俺の腕をばしばし叩いた。

「凌、お前優等生だったんだな」

「どういう意味ですか。俺をなんだと思ってたんですか」

「ん? 面白い奴」

「俺のどこが面白いんですか」

「そういうとこ」ぎゃはは! と一人で笑ったかと思うと、少し寂しそうに表情を沈めた。「でもそうか、ってことは、凌と一緒にこいつらをいじれるのもあと少しなんだな」

「え、やめてくださいよ」

「ま、これから色々あるだろうけどよ、色々あるから成長できるんだ。負けんじゃねえぞ」

「今日で最後みたいな言い方しないでくださいよ。まだまだお世話になりますから」

 ぎゃはは! と辰さんはまた笑った。

 燻っていたなにかが、はっきりと姿を現した。どうして燻っていたのか、やっとわかった。辰さんに「うちの会社で働かないか?」と訊かれたときから、もう答えは出ていたんだと思う。

 決心するまで一週間。俺は辰さんに頭を下げた。

「俺を雇ってください」

 ぽかんとした辰さんは、数秒後、「ええええええええええっっ!」と身体をのけ反らせた。

「え、なに。え、どういうこと。え、どうしたの。え? え?」

「あれからちゃんとじっくり考えて、俺、音響の仕事がしたいです。辰さんからもっと色んなこと学んで、もっと成長したいです」

「マジか。マジでか」

「マジです」

「嬉しいけどよ、凌お前、いいとこから内定貰ってるだろ」

「お詫びして、お断りしました」

「ええええええええええっ! はやっ!」

 そこに丸さんも加わった。

「さっきからうるさいよ。どうしたの辰さん」

「いや、あのね、俺にとっては吉報なんだけど――」

 話を聞いた丸さんはぎゃはは! と笑って満足そうに頷いた。丸さんと辰さんは笑い方が似てる。

「いいねえ! さすが凌ちゃん! 好きだよ俺は、そういうとこ」

「うん、俺も好き。じゃあ凌、これからもよろしくな」

「はい! よろしくお願いします!」

 そんなこんなで、俺は音響の世界に足を踏み入れた。

 恒ちゃんは感心するような呆れるような顔をしている。丸さんは懐かしむように頬を緩めている。

「じゃあ、辰さんの影響で今の仕事をされてるんですね」

「うーん」

「え、違うんですか?」

「いやいや、もちろん辰さんと丸さんの影響はすごく大きいよ。丸さんに雇ってもらって、辰さんに色々教えてもらって、ここで働いてなければPAの仕事には就いてないだろうから。でも、なんて言うのかな、今の自分になる第一歩は、丸さんと辰さんと出会う前にもう踏み出しててさ。その一歩を踏み出すことになったのは別の人の影響なんだ。だからその人と出会ってなければ、今の仕事どころか、丸さんたちとも出会えてなかった」

「へえ。はじめて聞く話だな」

「はじめて話しますもん。今の俺があるのは、俺のそばにいてくれるみんなのおかげですけど、その人と丸さんと辰さんは、俺の中ですごく大きい存在です」

「なんか、俺が大層な人間に聞こえるな」

「大層な人間ですよ、丸さんも辰さんも」

「はい。僕もそう思います」

「おいおい、やめろよ。照れるじゃんか」

 恒ちゃんと目を合わせて笑い合う。

「そのもう一人の方はどんな人なんですか?」

 思わず笑みが零れる。

「すごい人」

「すごい人?」

 そう、すごい人。まっすぐで、正しくて、たまにめちゃくちゃで、とてもあったかくて、この世のものとは思えないぐらいかっこいい。

 そして――

 高校最後の一年間、俺らはその人からたくさんのものを貰った。それは目に見えるものではなくて、言葉なんかじゃ言い尽くせないほど大切なもの。それがなければ、その人と出会ってなければ、俺は別の人生を送っていた。その別の人生でも今の人生と変わらず、怒ったり笑ったり、泣いたり喜んだり、落ち込んだり興奮したり、日々の生活に幸せと不安を感じていただろう。でもその別の人生は今の人生に比べれば、凡庸で、味気がなく、ありきたりなものだったんじゃないかと思う。絶対とは言えないけど、俺はそう思う。

 だって、自分が選んだ道は正しいと思うから。なんとなく、この道が正しいと思えたから。

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