第6話 男の正体
ハイドは背もたれに身を預け、天を仰いでいた。
天井の染みを見つけ、本能的に眺めてしまう。
とにかく目を休めたかった。
しばらく視線を上に固定し、瞬きを繰り返す。
ひとつ吐息を溢し、意を決して視線を戻した。
テーブルの上には、無残に散らばった鶏肉の破片と、絡まり合った糸、放り出された湾曲針。
悲惨である。
ハイドは手袋を脱ぎ、実験ノートを手に取った。
先程から何度も開いているページを、もう一度開く。
『乳房の縫合が出来ればいいだろう。
まずは大きな針と太い糸から練習し、慣れてきたら小さく、細い糸へ変えて行くように』
ジキルには計画の詳細を話していない。
それでも、知恵を貸し、苦手な買い物にまで出向き、縫合の方法まで示すあたり、ある程度察してはいるのだろう。
さすがは、自分とは別の人格とはいえ同じ頭の持ち主だけある。
ただ……
ハイドは続きを読んだ。
『傷を引き寄せ、結紮する。
結紮とは、一度本結びの要領で結び目を作り、輪の中でもうひと回転……』
やり方の詳細とともに、記憶を引き継がせようと、
ジキルが実際にやってくれていた。
字面とともに、彼の手技が頭の中で思い起こされる。
『結紮は縛るのではなく、あくまで優しく寄せる作業である。
掬い上げる肉はなるべくしっかりと……』
そこでハイドは実験ノートを机の上に投げた。
「いやいや……わかってるんだけどなぁ……」
何度も繰り返し読んでいる文面は、そらで言うこともできそうだった。
が、理屈では分かっても、中々手がついていかない。
もどかしい気持ちが込み上げる。
ハイドは再び針を持ち、肉へ通した。
『しっかりと……且つ愛護するように抑え込み……』
「…………ッ」
指先に鋭い痛みが走る。
ハイドは手袋を外し、両手のひらを広げて眺めた。
鶏肉と同様、ハイドの指もまた傷だらけである。
「くそ! あー最低!」
手のひらをそのまま、天井へ翳した。
再びハイドの背が、背もたれに重く沈む。
結紮に至る以前の段階で、すでにつまづいていた。
糸は針穴を素通りし、代わりに指の腹を突き刺す。
通ったと思えば、肉を抜ける頃には糸が途中で消え失せ、肉の中に埋もれてしまう。
やっと結ぶ段に辿り着いても、肉の取り方が甘く、断面は見るも無残なぶつ切りになる。
気付けば指先は傷と血でぐちゃぐちゃで、
痛みに耐えかね、とうとう手袋を引き寄せた。
別に縫合は、美しくなくていい。
ただ解けず、頑丈であれば良いと思っていたのに。
そこにすら至れない現実に、ひたすら打ちひしがれている。
今はただの鶏肉でさえこの有様なのに、
ここに腸詰めされた半固形物質を入れ込みながら縫合するとなると……
ハイドは息を深く吐いた。
『ハイドが縫合の技術を磨いている間、
私はアラビアガムの配合比率を検討しておく』
ジキルが頑張るなら、俺も頑張る。
しかし――
「何か保険をかけておきたいな……」
そう、保険。
ハイドは呟いた。
例えば縫合が多少みすぼらしくとも、周囲の目には“完成している”ようにしか見えないような――
――でも。
「そんな上手い話、あるわけないか」
吐き捨てるように言い、椅子に重く沈み込んだ。
◇
あれから二日ほど経った。
ハイドは相変わらず縫合の練習に取り組んでいるらしい。
何やら手よりも口の方がよく動いている気もするが……
早朝。
ジキルは身なりを整えると、実験棟でアラビアガムの配合比について検討していた。
既に十通りほど試作品を作っている。
だが、あと一歩のところで満足いかない。
作りながら後になって気付いた――このジキルには致命的な欠点がある、と。
感触の良し悪しを、感覚で判断するのがとにかく下手なのだ。
なんとも言えない顔をしながら、ひとまず気泡を抜くために静置することに決める。
泡が抜け次第、腸膜へ詰めて試作品を作り、ハイドにも意見を求めるつもりだ。
相談といえば……
ジキルは、昨夜のハイドの様子を思い起こす。
彼は糸と奮闘しつつ、ぼやいていた。
「そういえば明日はまた、あの金髪様がくる日か」
くるくると玉結びを何度も繰り返す。
ハイドよ、玉結びは何度繰り返しても玉結びだ。
それでは絡まったネックレスの方がまだ使い道がある。
結紮には、もうひと手間、摩擦を加えないと。
もちろん、この声はハイドには届かない。
彼はもう、ジキルの記憶の中の存在なのだ。
「なぁジキル、あの金髪、一体何者だと思う?」
ハイドもまた、その場でジキルの反応は求めていなかった。
ただ気分転換に、見えない相手に語りかけている。
「あんなの、カルー卿のサロンでも見かけなかったが……」
ハイドは過去数回、カルー卿のサロンに招かれたことがあった。
その際の顔触れを、ある程度記憶していたのかもしれない。
そこで不意に言葉が途絶える。
代わりに、玉結びが増えていった。
長く、長く連なっていく。
そしてもうひと結びしたとき。
「……一度、調べておくのも悪くないか」
ぶつ、と糸が切れたと同時に、
ジキルの中を流れていた記憶も途絶え、ハイドの気配がすっと遠のいた。
確かに身元は調べておいた方が、後の動きやすさは違うだろう。
ハイドばかりに任せておくわけにはいかない。
一度計画に乗ることを決めたのだから、できるだけのことはしたかった。
ジキルは時計を見る。
あの男は前回、昼下がりに訪れた。
今回も同じ頃合いかもしれない。
緊張で、息を呑んだ。
指先が冷えていく。
◇
「進捗を伺いに来たが、如何か」
やはり昼下がりに、例の男は来た。
目元は帽子の影になっておりよく見えないが、鋭い眼光は感じられる。
相変わらず名乗りもせず、
ただそこに佇む姿は不気味な影でしかなかった。
ジキルは半分開けていた扉を、
このまま閉じてしまいたい衝動に駆られる。
しかし今やらねばいつやるのかと自らを奮い立たせ、ついに押し開けた。
「……途中経過になりますが、お話しします。どうぞ」
男は片眉を上げる。
「話せるほどには、進んだということか」
そして彼は玄関と室内の境目へ足を踏み入れ、超えた。
突如、ぞくりとジキルの背筋を悪寒が走る。
思わず、周辺へ視線を走らせた。
隙間風だろうか――いや、違う。
説明のつかない寒気だ。
プールが不安げな表情のまま、男の元へ歩む。
男は外套と帽子を外し、プールへ手渡すと、改めてジキルへ向き直った。
「進捗をお聞かせ願おう」
ジキルは小さく頷くと、まずは男を応接間のソファへ座らせる。
対面に自らも腰を落とし、一冊の実験ノートを取り出した。
「こちらは、例の薬……人間の凶暴性を高める薬の内容を記載したものです」
これはカルー卿と別れてから、急遽進めていた偽の実験だ。
人格を交代する薬の身代わりとして、今利用してやる。
「正確に申し上げれば、『凶暴性』というより『衝動性』を高める薬の開発、となりますが」
ジキルは表紙を開いた。
え、と男が言葉に詰まる。
男が何を思っているのか、すぐに分かった。
ジキルは自身の字が汚いことを、よく理解している。
「こちらの薬は、脳に成分を移行させるため、
なるべく脂溶性を高め、かつ分子量を小さくしております」
そのような薬を作りたかった。
理屈では何とでも言えるが、実際に作り出すとなると、うまくいかない。
ノートには、そうなる予定であった内容が書き込まれている。
理想ばかりを並べ立てた、現実的ではない空論であった。
「本来ならば認知機能を高める治療薬に使えるかもしれませんが、副作用である易怒性に注目した薬となり……」
待て、と男が手で制する。
「その話は長いか?簡潔に結果だけを述べてくれれば良い」
「……結論だけ述べますと、分子量が小さく脂溶性が高いということは、全身に巡りやすいということです。私はこれを、脳に選択的に届かせるようにしたい」
「……つまり、冗長に未完成の報告をされたのだな」
男は目元を歪める。
真っ当な意見に、ジキルは心臓を跳ねさせた。
いけない。
目の前の男はどういうわけかわからないが、生体反応に敏感なのだ。
悟られないように平静でいなければ。
それに、目的は経過報告ではない。
このノートを見せることに意義がある。
ジキルは懸命に呼吸を落ち着けようとする……と、プールがやってきた。
カップを男とジキルの前に置き、紅茶を注ぐ。
助かった、ここで体勢を整えよう。
プールが去る頃、ジキルは一呼吸置き、言葉を返した。
「しかし、現状の把握は必要ですよね?私も何もしてないと思われたくないので……」
と言いつつ、ジキルはぺら、ぺら、とページの先を捲り続ける。
ページは全体的にごわつき、よれている。
そこに踊るミミズめいた筆記体。
乱雑に走る化学式。
貼り付けられた脳の図。
赤黒い染み――
「ま、待て」
男は眉間に皺を寄せ、ジキルを止めた。
よし、かかれ。
「何か?」
「君はこれを見て、何とも思わないのか?」
ジキルは手応えを感じつつ、それを表にはしないよう首を傾げる。
「私にとっては、これが常ですので」
貴族様には耐えられないだろう。
この実験ノートの煩雑さには。
案の定、男は額に手をやっていた。
「……まさかこれを、カルー卿の目に晒すつもりではなかろうな」
「完成次第、お渡しするつもりでしたが」
何か、と添えると、男からは重く深い溜息が溢れた。
呆れたように、首を振る。
「君は誰かに読ませる気がないのか?」
「……普段、実験結果を誰かに捧げる習慣がないもので」
あぁ、それもそうか……男が呟く。
「せめて、誰かに清書させて欲しい。これではその……」
言い淀む先の言葉は、想像が付いた。
畳み掛けるなら今かもしれない。
「畏まりました。では清書とは、誰に頼めば良いでしょう?」
「え?」
男が戸惑う。ジキルは逃さない。
「これはまだ、学会にも出していない機密事項です。
その辺の者に写させれば、情報の漏洩は避けられません」
ジキルはノートを男の方へ傾け、さらにぺらりぺらりと捲った。
がさがさと乾いた紙の音が、やけに大きく響くようだ。
男は思わず目を逸らす。
背けるな。
ジキルは、トントンとノートを机に打ちつけた。
「この中身はたった今、貴方だけに打ち明けました。
つまり、清書するとしたら……?」
男は目を見開く。
「…………私?」
かかった。
ジキルは口の形を笑みに歪ませた。
「お願いできますか?」
「なぜ私が」
男は顔を顰める。
「機密事項と言うからには、専門的な用語や知識が多いのだろう。
私には手が余る」
「体裁を整えるだけで良いのです。
別に理解しなければいけないわけではない」
まぁ、よろしいですが、とジキルはノートを閉じた。
「私は特に製本する意義を感じておりませんから。
カルー卿との取り引きにも、そのような約束はなかったはずですし」
そしてジキルは沈黙した。
言いたいことは言い切ったとばかりに。
提案を受けるかどうかは、今や男の判断に委ねられた。
男はノートへ視線を向ける。
心なしか、表紙も焼けている気がしてならない。
このままカルー卿の手に渡るなど……あってはならない。
「……君には猶予を1ヶ月与えていたと思うが、3日ほど早めても良いだろうか」
「……というと」
男は手を差し出した。
「紙とペンを」
ジキルがプールへ目配せすると、プールが慌てた様子で持ってくる。
男は受け取ると、紙へ何かを書き付けた。
一度ペンを止め、わずかに逡巡した気配を見せる。
しかしすぐに書き終えた紙とペンをジキルへ返した。
セント・キャサリン・ドック、そして通りと番地。
――住所だ。
「研究が終わり、ノートが完成次第、こちらへ郵送すると良い」
そして男は姿勢を正すと、ジキルへ向き直った。
「遅ればせながら、自己紹介をさせて頂こう」
彼は口を開いた。
「私の名は、ヴラド・ドラキュラ。伯爵の爵位を持つ者だ。以後よしなに」
一度も口にされていない、カップの中の紅茶の水面が、ふるりと揺れた。
◇
ぷ、とハイドが吹き出す。
次の瞬間には、堪えきれぬほどの笑いが溢れた。
「あははは!」
机を何度も叩き、笑いを押し流す。
思い出すたびに口を突く嘲りは止まらない。
肩で息を弾ませながら、彼は手元の丸めた偽の実験ノートを弾いてみせた。
「やるなぁ、ジキル。まさかこの、独創的な字が役に立つ日が来るとは!」
ハイドは目を細めた。
ジキルは偽善者だ。
必要ならば、嘘で世界を塗り固めることを厭わない。
今、その器用さがこちらに追い風となっている。
やがて、笑いは静まった。
代わりに口の端が上がり、弧を描く。
「セント・キャサリン・ドックか」
手の中の紙屑めいたノートをぎゅっと捻り潰し、ゴミ箱へ放る。
不要物を捨てる仕草に、計画の影だけが漂った。
「ヴラド・ドラキュラ伯爵……」
名前を呟くと、ハイドの目に鋭さが戻る。
身元が分かれば、どうとでも動ける。
今夜はジャックと落ち合い、少し猶予を楽しんでやろう。
指先にほんの少し血がにじんでいるのを見て、彼はにたりと笑った。
「見てろよ。遊んでやる」
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