第3章 始動 (5)

 掃除を終えて、空気が少しだけ緩む。手を拭いながら、この前のコンクールを見に行ったときのエピソードをぽつぽつと話した。さなえとちせと三人で潜り込んだこと。そして――ちせの“変装”。あまりに前衛的すぎて、視線を集めすぎたこと。


「あれは演奏中でも見えたわよ。わたしも笑いをかみ殺すの大変だったんだから」

 肩を震わせて笑う。その言葉を聞いて、胸の奥がじんわり熱を帯びた。あのとき、同じ会場にいた。別々の場所にいながら、同じ光景を共有していた。それだけで、距離が縮まったように思えてしまう。


「実はね、あの会場には他にもいたのよ?オケの子たちが何人か。わたしが見つけただけでも、五人かな」

「そうだったんですか」

 やっぱり。規則を破ってこっそり見に行くなんて、ちせだけの発想じゃなかったんだ。だとすれば――。

「きっと、みんなにバレちゃったわね。あれがわたしだってこと」

 目を落とす。その睫毛が長く影を落とし、声はかすかに沈んでいた。


「だったら、もう――」

 コンクールに出てもいいんじゃないか……。

 言いかけたとき、それを遮るように唯先輩はすぐに首を振った。

「わたしは絶対に出ないわ。この学校からは。……そうでないと、翔くんに顔向けできない」

 凛とした響きに、返す言葉を失う。確かに、それは正しいのかもしれない。けれど……あんな音を、このまま閉じ込めてしまうなんて。世界に触れさせずに終わらせてしまうなんて。


「こんなことをしてないで、さっさと留学しようとも思ったんだけどね」

 ふいに柔らかく笑って、続ける。「でも、それはやろうと思えばいつでもできるから。今、わたしがするべきことをするわ」


 やっぱり。今の彼女にとって“すべきこと”は復讐なのだ。そう分かっていても――ぼくの胸には、霧のような疑問が残る。本当にそれだけなのか。あんなすごい演奏を、もっと多くの人に届けることだって、“すべきこと”じゃないのか。

 ぼくにできること。何か、ないんだろうか。そんな考えが、ぼんやりと浮かび上がってくる。


 窓の外を見ると夕焼けが迫ってきている。

「そろそろ、帰ろうか」

 先輩が立ち上がる。プリーツスカートの裾がふわりと揺れ、白い膝がすっと伸びる。その一連の仕草に、思わず目を奪われる。

「じゃ、またね。あとで連絡するから」


 スマホを手に持ち、軽く揺らしてみせる。……ふふっ。さっき、ラインの連絡先を交換したばかりだ。このスマホにメッセージが届く。その想像だけで、画面を胸に抱きしめたくなる。

「お疲れ様でした。また」

 手を振ると、彼女も同じように振り返して――やがて、Aセグ棟の方へと消えていった。


 ◇


 昇降口を出ると、夕焼けが校舎の窓を朱に染めていた。空の色が、ほんのりと冷たくなっている。ふっと吹いた風が、かさかさと木の葉をざわめかせ、制服の裾をやさしく揺らす。その風には、確かに――秋の匂いが混じっていた。

 自転車を押しながら、坂をくだる校門へと向かう。そのとき。


 前の道路に、低いエンジン音が響いた。

 白いポルシェが、こちらに向かってゆっくりと速度を落として現れる。塗装が西日に照らされて、金属のような輝きを放つ。

 その助手席に、……唯先輩の姿。


 窓越しの笑顔。そして運転席には――あの男性。ジョージ・スコットマン。

 Tシャツ一枚。陽に焼けた腕には、筋肉の浮き上がる線。

 世界の一流バイオリン奏者と彼女を乗せた高級スポーツカーが、ぼくの目の前を颯爽と通り抜けていく。

 先輩は、楽しげに笑っていた。その笑顔に曇りはなく、隣に座る男に笑顔を傾けていた。


 ふと、こちらに気づく。視線が交差する。

 そして、軽く、手を振ってくれた。何でもないことのように。優しいけれど、あまりにも遠い仕草。


 ……ああ。

 やっぱり。『あっち側』の人なんだ。

 才能、立場、人脈――そのすべてが、ぼくとは違う世界にある。


 今日の「デート。楽しみだね」あの一言だって……きっと、本心なんかじゃなかったんだ。

 ただの気まぐれ。その場の空気を壊さないための、ちょっとした優しさ。もしかしたら、からかい半分だったのかもしれない。


 そう考えた瞬間、ぼくの胸にじわりと冷たい水がしみ込んでくる。うまく呼吸ができない。

 まるで秋の風が心の奥まで吹き抜けていったようだった。

 卑屈な考えだ。わかってる。でも――今の光景を見たら、どうしてもそう思わずにはいられなかった。


 ◇


「ただいま」

 玄関ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは――タンクトップ姿で腕組みをして仁王立ちする姉・みづきだった。

「げっ……」

 いや、ここ数日ずっとこの光景だ。大学が休みで暇を持て余しているから、毎日こうして玄関で待ち構えているのだろう。


「おかえり、ブラザー」

 低く響く声。鬼軍曹になりきっているのが見え見えだ。その手に握られているのはジョッキ。中身は謎の液体――いや、プロテイン。

 これを玄関で一気飲み。できなければ、即座に関節技の餌食。帰宅の儀式は、もはやルール化していた。


「どうした? 浮かない顔だな」

 わざと低い声で、重圧をかけてくる。……なんですかその役作り。

「うん。……ちょっとね」

 そう答えた瞬間。

 ふわりと体が浮いた。


「えっ――」

 ドサッ。

 廊下に叩きつけられる。そしてすぐに、姉の太ももがぼくの左腕をがっちりと挟み込み――。

「いでででででで!!!」

 関節が悲鳴をあげる。床を必死にバンバン叩きながら悶絶する。

「なにがあった⁉言え!言わぬか!」

 容赦のない締め上げ。姉の顔は本気で楽しそうだ。


「言う!言うから‼」

 ようやく解放され、息を荒げながら肘をさする。そのまま玄関にぺたりと座り込む。

 姉は膝を立てて、その前に腰を下ろした。まるで取り調べの刑事と容疑者のように。

「さ、言ってみて」


 そう言いながら、真剣な顔でこちらをのぞき込む。……なぜ、玄関でこんな問答をしなければならないのか。

 深くため息が出る。


 さっき学校の前で見た光景が、ずっと胸に刺さっていた。あの白いポルシェ。助手席の唯先輩。運転席の外国人男性。――圧倒的だった。何もかもが。

 だから、もう隠すのはやめた。どうせまた、関節技で吐かされるのがオチだ。先輩がきれいな女子生徒であること。それも全部、正直に話した。


 姉は、目を細めて静かに言った。

「ちせちゃんと、さなえちゃん。のみならず、今度は唯先輩?」

 思わず言葉に詰まる。否定もできず、肯定する勇気も出ず。

 ちなみに――ちせとさなえのことは例のコンクールに行ったとき、同じように問答無用で“白状”させられている。


 ふぅっと深いため息をついて、姉が立ち上がる。それを合図に二人はリビングへと移動した。母は今夜も夜勤らしい。テーブルの上に置きっぱなしのマグカップが、ぬるんだ時間を物語っていた。


 姉がソファに腰を下ろし、ぼくをじっと見る。

「それで?つばさはどうしたいの?」

 穏やかだけど、逃げ道を許さない問い。

「どうって……どうにもならないよ」

 目を伏せて答える自分が、ひどく情けなく思える。答えるべき言葉もないまま、沈黙が落ちる。


「嫉妬してるんでしょ?そのポルシェの男に」

 図星すぎて、反論すらできない。唇を噛んで、視線を落とす。

「だったら、自分もそうなればいいじゃない」


 ……えっ?

 顔を上げると、姉が真面目な顔で、続けた。

「あのね……いい?そのふたり、これから何をすると思う?」

 その言葉に、ぼくの思考が勝手に暴走する。――薄明りが灯る部屋。――ふわっと沈むシーツに投げ出される肢体。――白い肌、艶めく黒髪、脱がされていく制服――。


 ……だめだ。脳内に浮かぶ映像をかき消そうとして、顔を伏せる。頬が熱い。全力で赤くなってるのが自分でも分かる。

 ぼくが何を考えているのか、顔を見ればわかるのだろう。

 姉は呆れたようにため息をつきながらも、声は諭すようだった。

「あのねぇ。そんなわけないでしょ」


 ぽんっと頭を軽く叩かれる。

 顔を上げると、姉はまっすぐな目をしていた。

「これから練習するに決まってるじゃない。何時間も。音楽ことだけ考えて、全身全霊、楽器を弾いてる。そういう人たちなんでしょ?」


 ――ああ、そうだった。

 思い出す。あの音。一音一音にすべてを込めていた姿。ステージの上で、静かに弓を構える姿。

 ……そうだ。

 唯先輩は、バイオリニストなんだ。ぼくがあれこれ想像して、自分ひとりで劣等感に沈んで。そんな風に考える暇があったら――。


 ぼくも、なにかを磨かなきゃいけない。

 自分の考えを。自分の言葉を。――自分の在り方を。

 そんな当たり前のことが、姉の一言でやっと浮かんできた。


「でも、どうしたら」小さく吐き出した声が、夕方のリビングの静けさに溶けていった。

「いい? つばさ」姉の声は穏やかで、どこか母親みたいな響きさえある。「あなたは何者にだってなれる。絶対に、忘れちゃだめよ」


「何者にでも?」顔を上げる。だけどその言葉はどうも、うさん臭いものにも感じられた。

「そのポルシェのバイオリニスト。経歴でも調べてみたら?」さらりと言う。「真似するのは無理でも、知らないよりは雲泥の差があるわよ」


 ……そうだろうか。知ったところで、どうにもならないんじゃないか。胸の奥で、そんな弱気が顔を出す。

 姉は続ける。「じゃあ質問を変えよう。つばさは、どういう男なら唯先輩にふさわしいと思う?」


 喉が詰まりそうになった。それは――多分。

「どこの世界でも通用する男。……じゃないかな」

 言葉にしてみると、胸の奥でひとつ腑に落ちる。先輩は「さっさと留学してもいいんだけど」と言っていた。あの言葉はきっと本気だ。行き先がドイツなのか、イギリスなのか、はたまたフランスなのか……どこの国かは分からない。でも、どこであっても彼女はきっと通用する。そう思えた。


 ならば。その隣に並ぶ男は、同じ高さの舞台に立てる者でなければならない。

「うんうん」姉が力強く頷いた。「だとしたら? つばさは、どうすればいい?」

 はっとする。そうか。これはたとえ話なんだ。語学でも、他の科目でも、写真でも――何か一つでもいい。自分にしかできないものを、磨き上げること。

 そこまで考えが進んだところで――。


「さあー、今日も始めようか!」

 姉の声が空気を裂く。次の瞬間、ぼくの手にずしりと重いダンベルが押しつけられていた。

「え、今から!?」抗議の声もむなしく、腕を持ち上げられる。

 筋トレタイム。有無を言わせぬ流れに、ぼくはただ巻き込まれていくしかなかった。


 ◇


「いててて……」

 朝。筋肉痛に眉をしかめながら、自転車のペダルに足をかける。今やただの“鉄の塊”と化した『元』電動自転車。重いフレーム、電源オフ。――いや、正確にはバッテリーが“抜かれている”。


 もちろん、抜いたのは姉の指示だ。これも筋トレの一環というやつ。上り坂が続く朝の通学路。全身の筋肉が叫ぶなか、立ち漕ぎでゆっくりと登っていく。

 それでも、2週間前に比べたら――止まらずに登りきれるようには、なっていた。

 “ダブルデート”の約束を交わしたあの日から、2週間。筋肉痛と達成感が、交互に波のようにやってくる日々だった。


 校門をくぐり、校舎に足を踏み入れると、昇降口の脇にまた人だかり。今日も校内新聞が話題を集めているらしい。

 掲示板の前。群がる生徒たちの中心にあるのは、さなえが手がけた記事。

 軽妙でキャッチーな見出しが目を引き、時事ネタを校内向けに翻案した文章が意外にも読みやすい。いや、意外というより――ちゃんと読ませる力がある。


 もちろん、掲載された写真は、ぼくが撮ったものだ。ふふふ。誇らしさが、胸の奥でじんわり膨らむ。

 まあ、採用されずに没になる写真も多いけど。

 さなえの名前が広く知られるようになったきっかけは、あの地方コンクールの記事だった。荒川先輩の「一位なし・二位入賞」を取り上げたあの一文が、校内でひときわ注目を集めた。


 あの文章――やけに音楽についてこなれた内容だな、と思っていたら。後から聞いた話では、ちせがかなりの部分を添削したらしい。どうりで音楽の記事らしく整っていたし、表現に説得力があった。音楽の素人でも想像力が働く。


 そして、もちろん。“あの人”のことも記事には登場する。

『並谷翔子』。

 謎のバイオリニストとして登場した彼女は、さなえの筆によって“コンクール荒らし”という、いかにもな悪役に仕立てられていた。皮肉と称賛が入り混じる表現で読者の目を引き、興味を煽る。けれど、それは単なる話題作りにとどまらなかった。


 記事の末尾に載せられた、生徒対象のアンケート。「あなたは“並谷翔子”の演奏を、学園祭で聴いてみたいと思いますか?」回答はWebで!と二次元コードで新聞部ホームページに誘導している。

 その問いかけが、次の波を起こした。気づけば、生徒たちの間に“並谷翔子をゲストに!”という空気が醸成されていたのだ。……もはや、政治的手腕と言ってもいい。


 恐るべし、さなえ。

 ぼくはぞっとしながらも、どこか誇らしかった。あの子が、ここまで人を動かす文章を書くようになるなんて――そして写真を撮る自分が少しでもその役に立っているなら、嬉しかった。

 そんなわけでこの2週間、さなえとはほとんど顔を合わせていない。写真のやりとりはメールで済んでしまう。少しだけさみしいと思うのは、贅沢なんだろうか。

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