第2話「彼の秘密」
1
「俺の家、実は金持ちでも何でもないんだ」
屋上で、透真はぽつりと呟いた。
鈴音は、耳を疑った。
「え……でも、噂では——」
「噂は噂。真実じゃない」
透真は、フェンス越しに街を見下ろしながら続けた。
「母子家庭で、母親は病気で働けない。父親は俺が小さい頃に蒸発した。借金だけ残して」
鈴音は息を飲んだ。
「それって……」
「まあ、お前と似たようなもんだよ。貧乏人ってこと」
透真は、自嘲するように笑った。
「じゃあ、なんで学園のみんなは、先輩が金持ちだって……」
「演技してるんだ。服装も、態度も、全部演技。じゃないと、この学園では生きていけない」
透真の声には、諦めのような響きがあった。
「この学園は、金持ちの子供たちが集まる場所だ。貧乏人は、いじめられるか、無視されるか、どっちかしかない」
鈴音は、胸が締め付けられた。
自分も、それを知っている。
だから、誰にも家のことを話さなかった。
「でも、チケットは……先輩のチケットは、どうやって……」
「買ってない」
透真は、きっぱりと言った。
「俺のチケット、発行価格は二千万だった」
鈴音より、さらに高い。
「払えるわけがない。だから、俺は——」
透真は、そこで言葉を切った。
「明日の夜、時間ある?」
「え?」
「見せたいものがある。お前に」
透真は、初めて、真剣な目で鈴音を見た。
「俺の本当の姿を」
2
翌日の夜、十一時。
鈴音は、透真に指定された場所に来ていた。
学園から電車で三十分ほどの、工業地帯。古びた倉庫が立ち並ぶ、人気のない場所。
スマホの地図アプリを頼りに歩いていると、遠くに明かりが見えた。
倉庫の一つから、機械音が響いている。
鈴音は、恐る恐る近づいた。
倉庫の窓から中を覗くと——
そこには、地獄のような光景が広がっていた。
3
無機質な蛍光灯に照らされた、巨大な工場。
ベルトコンベアが延々と続き、その上を、無数の透明なカードが流れている。
告白チケット。
工場の中では、数十人の労働者が、無表情でチケットを検品し、梱包し、出荷していた。
その中に——
透真がいた。
作業服を着て、黙々とチケットを箱に詰めている。
機械音が、頭を割るように響く。
ガシャン、ガシャン、ガシャン。
誰も喋らない。
誰も笑わない。
ただ、機械のように働いている。
鈴音は、息が止まりそうになった。
これが、告白チケットを作る工場。
これが、恋を商品化する場所。
「見つかったな」
背後から、声がした。
振り返ると、透真が作業服のまま立っていた。
「透真先輩……」
「休憩時間だ。少しだけ話せる」
透真は、工場の裏手に鈴音を連れて行った。
古びた自動販売機が一台だけ置かれた、薄暗いスペース。
「ここで、俺は週に五日、深夜バイトしてる」
透真は、缶コーヒーを買って、鈴音に渡した。
「チケット工場の仕事は、時給がいい。でも、精神的にキツい」
「どうして……」
「母親の医療費。家の借金。生活費。全部、俺が稼がなきゃいけない」
透真は、自分の缶コーヒーを開けて、一口飲んだ。
「で、ここで働いてるうちに、気づいたんだ。告白チケットって、転売できるって」
鈴音は、息を飲んだ。
「転売……?」
「ああ。工場の管理が杜撰でね。検品前のチケットを、こっそり持ち出すことができる。それを、闇市場で売る」
透真の声は、平坦だった。
「俺が昨日、お前に渡したチケット。あれ、実は盗品なんだ」
鈴音の手から、缶コーヒーが滑り落ちそうになった。
「え……」
「俺の名前が刻印されてるだろ? あれ、本物だよ。でも、俺が買ったんじゃない。工場から盗んで、自分の名前を入れた」
透真は、自嘲するように笑った。
「つまり、俺は犯罪者だ」
4
鈴音は、何も言えなかった。
頭の中が、真っ白になった。
「あのチケット、本当は昨日、闇市場で売るはずだったんだ。五百万で買い手がついてた」
透真は、缶コーヒーを飲み干して、空き缶を自販機の横のゴミ箱に投げ入れた。
「でも、お前が屋上で泣いてるの見て……なんか、売る気なくなった」
「どうして……」
「分かんない。ただ、お前の涙見たら、金より大事なものがある気がしたんだ」
透真は、工場の方を見た。
「バカだよな。五百万あれば、母親の医療費が払えたのに」
鈴音は、胸が張り裂けそうになった。
「じゃあ、先輩は……私のために、五百万円を……」
「いや、違う」
透真は、首を横に振った。
「俺がお前にチケットを渡したのは、自己満足だ。お前を救いたかったんじゃない。俺が、救われたかったんだ」
「どういう……意味ですか」
「俺は、ずっとこの工場で、チケットを盗んで、売って、生きてきた。でも、それが正しいことだとは思ってなかった」
透真の目が、初めて揺れた。
「だから、一度くらい、誰かのために使いたかったんだ。盗んだチケットを。そしたら、少しは罪悪感が減るかなって」
鈴音は、涙が溢れそうになった。
「先輩……」
「でも、お前にこんなこと話したら、お前も罪悪感感じるよな。ごめん」
透真は、また笑った。
でも、その笑顔は、今まで見た中で一番、悲しかった。
「だから、そのチケット、返してくれ」
「え……」
「俺が闇市場で売る。そしたら、五百万手に入る。お前も、盗品使わなくて済む」
透真は、手を差し出した。
「それが、お互いのためだ」
5
鈴音は、後ずさった。
「嫌です」
「は?」
「返しません。このチケット」
鈴音は、カバンから、透真のチケットを取り出した。
透明なカードが、工場の明かりを反射して光る。
「これは、先輩が私にくれたものです。先輩の優しさです」
「優しさじゃない。さっき言っただろ、自己満足だって」
「それでもいいです」
鈴音は、チケットを胸に抱きしめた。
「自己満足でも、先輩は私を泣き止ませてくれました。それは、事実です」
透真は、困ったように眉を寄せた。
「お前……頑固だな」
「はい」
鈴音は、涙を堪えて笑った。
「それに、先輩、気づいてないんですか?」
「何が」
「このチケット、もう先輩は使えないんです」
透真の顔が、一瞬、強張った。
「私が受け取った時点で、このチケットは私のものになった。先輩は、もう一生、誰にも告白できないんです」
沈黙。
機械音だけが、遠くから響いている。
「だから……返せません」
鈴音の声が震えた。
「私が、このチケットを使わなかったら……先輩の犠牲が、無駄になる」
「犠牲なんて大袈裟な」
「無駄にしたくないんです!」
鈴音は、叫んでいた。
「先輩が、五百万円を諦めてまで、私にくれたもの。私が、大切に使います」
透真は、何も言わなかった。
ただ、じっと鈴音を見つめていた。
「だから……」
鈴音は、涙を拭った。
「もう、こんなところで働かないでください」
「は?」
「チケット盗むのも、やめてください」
鈴音は、真っ直ぐに透真を見た。
「先輩は、犯罪者なんかじゃありません。優しい人です」
「……お前、俺のこと何も分かってない」
「分かります。だって——」
鈴音は、言葉を飲み込んだ。
言いかけたことは、まだ言えない。
「とにかく、私、このチケット絶対返しません」
鈴音は、チケットをカバンにしまった。
「そして、ちゃんと使います。先輩のために」
「俺のために?」
「はい」
鈴音は、頷いた。
「先輩が、報われるように」
6
その夜、透真は工場での仕事を終えて、アパートに帰った。
古びた三階建ての、築四十年以上の建物。
狭い一室に、母親が眠っている。
透真は、音を立てないように部屋に入り、シャワーを浴びた。
そして、自分の部屋——といっても、押し入れを改造しただけのスペース——に戻ると、机の引き出しを開けた。
その中には、一枚の写真が隠されていた。
文化祭の日。
校門で、クラスメイトと笑っている少女。
早坂鈴音。
透真は、その写真を手に取った。
「バカだな、俺」
呟いた。
「誰も好きじゃないって、嘘ついた」
写真の中の鈴音は、屈託なく笑っている。
透真がこっそり撮った、盗撮まがいの一枚。
「お前のこと、ずっと見てた」
透真は、写真を胸に当てた。
「でも、告白なんてできない。俺には、資格がない」
貧乏で、犯罪者で、未来のない自分。
そんな自分が、鈴音に告白する権利なんてない。
「だから、せめて——」
透真は、写真を引き出しに戻した。
「お前が、幸せになれるように」
それだけが、透真の願いだった。
でも。
「神崎先輩に告白して、幸せになれよ」
そう思うはずなのに。
胸が、締め付けられるように痛かった。
7
数日後。
鈴音は、透真を探していた。
彼は、学校に来ていなかった。
教室で担任に聞いても、「体調不良で欠席」としか教えてくれない。
鈴音は、不安になった。
まさか、あの夜のことで、何かあったんじゃ——。
放課後、鈴音は決意した。
透真のアパートを探す。
学園の名簿には住所が載っていないが、以前、透真がぽろっと言っていた。
「駅の西口の方に住んでる」
それだけを頼りに、鈴音は駅の西口一帯を探し回った。
古いアパートが密集する地域。
一軒一軒、表札を確認していく。
そして——
「氷川」
三階建てのアパートの、三階の一室に、その表札があった。
鈴音は、階段を上った。
ドアの前で、インターホンを押す。
応答がない。
もう一度押す。
やはり、応答がない。
鈴音は、ドアノブに手をかけた。
回った。
鍵が、開いている。
「透真先輩……?」
恐る恐る、ドアを開けた。
8
部屋の中は、薄暗かった。
カーテンが閉まっていて、外の光が入ってこない。
「失礼します……」
鈴音は、靴を脱いで上がった。
狭い部屋。
六畳ほどのリビングに、小さなキッチン。
奥には、布団が敷かれていて、誰かが眠っている。
透真の母親だろうか。
鈴音は、音を立てないように、部屋を見渡した。
そして、部屋の隅に、小さな机があるのを見つけた。
その机の上には、教科書や参考書が積まれている。
そして、開いたままの引き出し。
その中に——
写真が、見えた。
鈴音は、近づいた。
そして、その写真を見た瞬間、息が止まった。
それは、自分の写真だった。
文化祭の日の、自分。
なぜ、透真の部屋に、私の写真が?
鈴音の心臓が、激しく鳴り始めた。
「何してんの」
背後から、声がした。
鈴音は、振り返った。
そこには、透真が立っていた。
パジャマ姿で、髪はボサボサ。目に隈ができている。
「透真先輩……」
「勝手に入んなよ」
透真の声は、いつもより低かった。
「ごめんなさい。でも、先輩が学校に来ないから、心配で……」
「心配すんな。ちょっと体調悪いだけだ」
透真は、引き出しを閉めようとした。
でも、鈴音は、その手を掴んだ。
「待って」
「何」
「この写真……」
鈴音は、透真の目を見た。
「私の、写真……なんで、先輩が持ってるんですか?」
沈黙。
二人の視線が、絡み合う。
透真は、観念したように息を吐いた。
「……バレたか」
「先輩」
「俺が、お前にチケット渡した理由」
透真は、鈴音の手を振りほどいた。
「本当は、一つだけ嘘ついてた」
「嘘?」
「俺、誰も好きじゃないって言ったけど」
透真は、自嘲するように笑った。
「嘘だ」
鈴音の胸が、ドクンと音を立てた。
「俺、お前のこと——」
その時。
「透真……」
弱々しい声が、布団の方から聞こえた。
透真の母親だ。
「ごめん、ちょっと待ってて」
透真は、母親の元に駆け寄った。
鈴音は、その場に立ち尽くしていた。
頭の中が、混乱していた。
透真先輩が、私のことを——?
でも、それなら、どうして——?
9
十分後。
透真は、母親に薬を飲ませて、落ち着かせてから、鈴音の元に戻ってきた。
「ごめん。母さん、最近容態が悪くて」
「大丈夫ですか……」
「うん。とりあえず、今は寝た」
透真は、ソファに座った。
鈴音も、その隣に座った。
沈黙が流れる。
「さっきの続き、聞いていい?」
鈴音が、口を開いた。
「別に、大したことじゃない」
透真は、目を逸らした。
「ただ、お前のこと、気になってたってだけ」
「気になってた……?」
「好きとかじゃなくて」
透真は、慌てて否定した。
「なんか、お前、いつも一人で教室の隅にいるだろ。友達と話してる時も、どこか寂しそうで」
鈴音は、胸がチクリと痛んだ。
「それ見てたら、放っとけなくなった。勝手に写真撮って、勝手に心配して」
透真は、苦笑した。
「ストーカーみたいだよな」
「そんなこと……」
「でも、告白する勇気はなかった。だって、俺、お前に何も与えられないから」
透真の声が、震えた。
「金もない。未来もない。こんな俺が、お前に告白したって、お前を不幸にするだけだ」
「透真先輩……」
「だから、せめて、お前が好きな奴に告白できるように、チケット渡したんだ」
透真は、鈴音を見た。
「それが、俺にできる唯一のことだったから」
鈴音は、涙が溢れた。
「先輩……」
「泣くなよ。俺が惨めになる」
「ごめんなさい……でも」
鈴音は、涙を拭った。
「私、先輩に告白されたかったです」
透真の目が、見開かれた。
「え……」
「神崎先輩じゃなくて。透真先輩に、告白されたかった」
鈴音は、震える声で続けた。
「でも、もう先輩にはチケットがない。だから——」
鈴音は、カバンから、透真のチケットを取り出した。
「私から、告白します」
透明なチケットが、部屋の薄明かりに照らされて光る。
「早坂鈴音は、氷川透真が好きです」
鈴音は、チケットを透真に差し出した。
「このチケットで、あなたに告白します」
透真は、呆然としていた。
「待て……それ、神崎先輩に使うんじゃ——」
「いいんです。私、気づいたんです」
鈴音は、笑った。
「神崎先輩への憧れは、恋じゃなかった。ただの憧れだった」
「でも——」
「透真先輩と話してる時の方が、ドキドキする。先輩の笑顔見てる方が、幸せ」
鈴音の涙が、チケットに落ちた。
「だから、私の答えは決まってます」
透真は、チケットを受け取らなかった。
代わりに、鈴音の手を握った。
「バカだな、お前」
「え……」
「そのチケット、俺に使ったら、お前ももう二度と告白できないんだぞ」
「分かってます」
「俺みたいなダメ人間に、一生縛られることになるんだぞ」
「それでもいいです」
鈴音は、透真の手を強く握り返した。
「私、先輩と一緒にいたいです」
透真の目から、涙が一筋流れた。
「……ありがとう」
小さく呟いて、透真は鈴音を抱きしめた。
「ありがとう、鈴音」
二人は、しばらくそのまま抱き合っていた。
狭い部屋で。
誰にも見られずに。
ただ、二人だけの時間が流れていた。
10
その夜。
鈴音は、アパートを出る前に、もう一度透真に言った。
「これから、どうしますか?」
「どうって?」
「私たち、チケット制度違反してますよね。私が使ったチケット、本来は透真先輩のものだから」
透真は、少し考えてから答えた。
「バレなきゃいい」
「でも——」
「それに、もうどうでもいいよ。俺、お前に受け入れてもらえただけで十分だ」
透真は、笑った。
「あとは、何が起きても構わない」
鈴音は、不安そうに透真を見た。
「大丈夫。俺が、お前を守るから」
透真は、鈴音の頭を撫でた。
「それだけは、約束する」
鈴音は、頷いた。
そして、アパートを後にした。
帰り道、鈴音は空を見上げた。
星が、いくつか見えた。
「これで、よかったのかな」
呟いた。
でも、後悔はなかった。
ただ、これから何が起きるのか、少しだけ怖かった。
11
同じ夜。
学園の生徒会室では、一人の少女が、パソコンの画面を睨んでいた。
氷室冴。生徒会長。
彼女は、チケット管理システムにアクセスしていた。
「おかしい……」
呟いた。
「氷川透真のチケット、使用記録がない。でも、彼の手元にもない」
氷室は、キーボードを叩いた。
「誰かが、不正使用している可能性が高い」
画面に、警告メッセージが表示された。
『告白チケット不正使用の疑い。該当者を特定中……』
氷室の目が、鋭く光った。
「見つけた」
画面には、二つの名前が表示されていた。
『氷川透真』
『早坂鈴音』
氷室は、冷たく笑った。
「あなたたち、ルールを破ったのね」
彼女は、スマホを取り出して、ある番号に電話をかけた。
「はい、私です。不正使用者を二名、確認しました」
電話の向こうから、機械的な声が答えた。
『了解しました。明日、召喚手続きを開始します』
氷室は、電話を切った。
そして、窓の外を見た。
夜の学園は、静まり返っている。
「チケット制度を守るのが、私の仕事」
呟いた。
「たとえ、それがどんなに残酷でも」
氷室の目には、何の感情も浮かんでいなかった。
ただ、冷徹な義務感だけがあった。
【第2話終わり】
次回予告:
不正使用が発覚した鈴音と透真。
二人を待ち受ける、チケット裁判とは?
そして、氷室冴の真の目的とは——。
第3話「先輩への告白」に続く
物語は加速する。二人の恋に、最初の試練が訪れる——
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