#2
今日、私はお姉ちゃんのカフェ「アカシア」で一人の女の子と出会った。
連絡先を交換して知った。彼女は、「そらちゃん」ではなく「ソラちゃん」だったようだ。
そのソラちゃんはアカシアでミニライブを開いていて、私は彼女の歌に惹かれたんだ。
「歌にだけじゃないかもよ?」
とは帰り際のお姉ちゃんの言葉。
知らなかった、お姉ちゃんがこんなに人をからかうのが好きなんて。
「次からかったら、ほっぺつねるよ」
「あちゃ~、そりゃ困った。つねるで済むかなぁ」
「……どういう意味?」
ごめんごめんと言うお姉ちゃんのほっぺをつねってからアカシアを出た私は、思いがけず増えた連絡先を眺めてほうと息を吐く。「ソラ」と表示されている彼女のプロフィール画面。
わずかに雲の奔る晴天の青空の写真が設定されているその画面を、なんとはなしに眺める。
「……ソラちゃん」
名前を呼ぶと、彼女の歌から貰った熱が心の中でチリチリと揺れるのが分かった。
アルバイトがあるからと私が来てから30分も経たずに店を後にしたソラちゃん。彼女は帰るギリギリまで、作った楽曲を披露してくれた。
聞くとソラちゃんは、動画投稿サイトで「sky」という名前で活動しているという。
「この曲とか、おススメだよ!」
「そうなんだ」
ソラちゃんの曲をイヤホンを半分こして聞きながら、私は改めて彼女の歌が好きだと思った。色んな曲調を歌いこなすあの声。
アカシアで聞いた曲とは違って静かな雰囲気だったりもっと激しかったりもするけれど、共通して、もっと遠くへ、遠くへと望んでいるかのようなあの声が、ああ私は好きなんだと。
熱心に曲の解説をするソラちゃんの横顔を覗きながら、思ったんだ。
「……久しぶりに、詩。書いてみようかな」
信号を待ちながら、私は真っ暗になった空に小さく手を伸ばした。
なんだか今は、無性に言葉を綴りたい。今なら、一年半前に手放したあのノートを開けるかもしれない。
これも、ソラちゃんのくれた熱のおかげかな。
「また、会えるといいな」
そう呟くと、偶然にも同じタイミングでブブ、とスマホが震えた。慌てて確認するとソラちゃんからで、
『また今度アカシアで会お!』
というメッセージがそこにはあった。
「バイト中じゃなかったの」
思わずくすくすと笑みが零れて、何を返すかはすぐに思い浮かんだ。
『うん! 私、平日は毎日今日くらいの時間にいるから、都合がつく日にまた会おう』
いつの間にか変わっていた信号を駆け足で渡りながら、私は電車の走行音の響く夜の町に思う。今日、アカシアの扉を開けたあの瞬間に何かが、始まったんだって。
だって、今――
「早く返事来ないかなっ」
ソラちゃんに会えて良かったと噛み締めている自分がいるから。
それは、「何か」を持っている私には訪れなかっただろう出会いだから。
※※※
家に帰ってご飯もお風呂も済ませ、自室の机に向かう。
勉強をしようかと迷った手は気づけば引き出しを探っていた。手に取るのだって、随分久しぶりだ。あの時――一年生の春以来。
これが、私の詩を綴ったノート。
ずっと開くのを躊躇っていたそれに指を這わせる。ほんの数ミリの表紙をめくるのにさえ、時間がかかった。
『――!』
そんな私の指を押したのは、「アカシア」で聞いたソラちゃんの歌声だった。
「……よし」
ゆっくり息を吐きながら、その重い表紙を一ページ目から引き剥がす。
開けてしまえばあとは勢いで、ぱらぱらとめくっていくと今までに書いた詩がいくつも目に入った。初めて自分の詩をノートに書いた時はぐちゃぐちゃに書き散らすばかりだったけれど、さすがに罫線に沿って綺麗に並んでいる。
一つ一つの詩に、丁寧にペンネームを添えて。
「……もう一年半も前、か」
ペンネームを付けるようになったのは中学生からだ。「
投稿サイトのアカウント名も「ドロップ」にしてある。もっとも、もうログインしなくなってから一年半も経つけど。
「何、書こうかな」
真っ白なページを見て、昔は筆がすいすいと走ったものだけれど、あの時から私はその白にあれこれ余計な事を考えてしまって、何も浮かばなくなった。詩と出会ったばかりのころは、紙面をあんなに気持ちよく泳げていたのに。
それでも、書きたいと思った。ソラちゃんに貰った熱が冷める前に。
「――今書けなかったら、きっと私、書けないから」
本音を言うと、ノートを開くのは何もない自分と向き合うみたいでまだ少し怖かったけれど、歌声に勇気を貰って「ドロップ」として筆を取ってみると、意外なほどに次々と言葉が湧いて来た。掻き分けて、掻き分けて、どの言葉をすくいあげるべきか目移りしてしまうほどに。
「……ふふっ」
この、懐かしい感覚。
言葉と一緒に手を繋いで、自由に表現の空を羽ばたく感覚――
「ソラちゃん」
一息つくのと同時に、彼女の名前が口をついて出た。
きっとソラちゃんは知らない。ソラちゃんがどれだけ、私に熱をくれたかを。見ていれば分かるんだ、と言った彼女の表情を思い出す。
ソラちゃん、知ってた? 私の心、君から見えてたよりずっとずっと、揺さぶられてたみたい。
「私、書けちゃったよ。ソラちゃん……」
最後、「ドロップ」と添えて完成した新しい詩。
前のページの作品が重く、肩を引っ張られるような空気感だったのに。
「なんか、初めて書いた時みたい」
ソラちゃんを想って書いた詩は、ああどうしてだろう。
幼い私が見た世界みたいに、キラキラ光っていたんだ。
それに気づいたのは学校へ行く電車の中だった。
朝の混雑の中鞄を検めるのは難しかったから、学校の最寄り駅についてからベンチに座ってスクールバッグを漁って。
「……やっぱり、古文のノートと詩のノート、間違えてるじゃん」
詩が書けたことが嬉しくて、ノートを取り違えてしまったのだ。幸い宿題が出ていなかったからそこまで焦る必要はないが、ソラちゃんが帰った後アカシアでやった予習の書き込みが無駄になることは確定した。
そして、同時に。
「これ、学校で間違えて出さないようにしないと」
教室でこのノートを絶対に、絶対に出すわけにはいかないということも。
昔は誰かに私の言葉が届いたらいいなと、思ってさえいたのに今では誰かにそれを見られるのが、ひどく怖い。
「……はぁ。とりあえず学校行かなきゃ」
改札を出て歩きだす。周りには同じ高校の生徒たちの姿。
私の登校時間はやや遅いほうで、生徒たちもまばら。
一年半通っていると、どの時間帯が空いているかもわかってくる。アカシアといい、私は静かなところが好きなのかもしれない。
「小学生の頃はなんでもない朝の空とかを見てアイデアが湧いてたっけ……」
秋の朝の涼やかな風にあおられ、ぱたぱたと踊る前髪を押さえる。行き交う車の音、すれ違う人の足音、朝の澄んだ空気に包まれた営みの音。
簡単にアイデアは浮かんでこないけれど、それでもなんだか詩的な気分になってしまうのはソラちゃんの影響だろうか。
「ソラちゃん、今日は来るかな」
昨日また会おうと約束した後、ソラちゃんからすぐにスタンプで返事があったけれどそれっきりで、きっとバイトで疲れているんだろうなと思った。朝起きたら返信があるかなと期待したけれど、それもなくて。
今、何してるんだろう。まだ寝てるかな。学校とか、どこなんだろう。
そういえばソラちゃんは、何年生なんだろう?
高校一年生とかかな。ひょっとして、中学生という可能性もあるかも……。
「ソラちゃん……」
「え!? なんでわかったの!!?」
「……えっ」
独り言のつもりが隣から心底驚いたような声が聞こえて来て、ぽかん、としてしまった。一瞬、現実が上手くつかめなかったけれど。
隣にはなぜか、ソラちゃんがいる。腰を落とし背中を曲げ、両手でぎゅっとリュックの肩紐を握っていて、どこかに忍び込もうとしているみたいだった。
「え、ソラちゃん……? なんで……」
「それはこっちの台詞だよ! 店長の妹って言ってたから、詩梳ちゃんもこの辺りかなぁとは思ってたけどまさかほんとにいるなんて! って思って、驚かそうと思ったのに……気づいてた?」
「いや、気づいてなかったけど」
「――え、そうなの?」
反射的にそう答えた私は、「じゃあなぜソラちゃんと言っていたのか」と聞かれる可能性に思い至って、内心大いに焦る。本人が目の前に居るのに、会いたくて思わず言ってた、なんて言えるわけがない……っ!
なんと言い訳しようかとソラちゃんに会えた喜びもよそにわたわたしていると、私はあることに気づいた。
「あれ、ソラちゃん。私服?」
「……? そうだけど。今日は午前からバイトだし。その前に寄る所あって」
「えと、学校とか、は?……」
「……? 寄る所、学校だよ?」
「えっと、私服登校、みたいな感じ?」
そう、ソラちゃんは私服だったのだ。
何か事情があるのかな、とかソラちゃんの学校は今日はお休みなのかな、とか色々考えたけど分からなくて。そんな私の困惑が伝わったのか、ソラちゃんは「ああ、なるほど!」と手を打った。
「詩梳ちゃん、発表があります」
「……う、うん?」
「あたし、こう見えて大学1年生です!」
「――えっ年上?」
「あはは、やっぱり! そうだよ、あたしお姉さんなんだよ!」
てっきり同い年かちょっと下かと思っていたから、ソラちゃんの言葉に私はきょとんとしてしまった。えっへんと胸を張るソラちゃんをぼうっと眺めて、だんだんと事情が呑み込めてきた。
大学生と高校生では、カフェに寄る時間帯もバラバラになるだろうし私たちが今まで顔を合わせていなかったのも納得がいく。お姉ちゃんが大学時代実家に居た時は、私が学校に行く頃になって起きてきたり、帰った頃に学校に出かけていったりしていたから。
「あっ、じゃあ……ソラちゃん、じゃないほうがいい、ですか……?」
年上と分かるとタメ口を使うのも、と思って聞いてみたが、その瞬間、「えー!!」と叫ぶとソラちゃんが私の肩をぶんぶんと揺さぶって来た。
「やだ、やだ! なんか距離感じるから昨日の感じでいてよ~!」
「あっ、ちょ、ソラちゃ、揺らさないでっ」
「あ、ごめん。でも、敬語はいいよ。年齢とか、気にせずいこう」
「そ、そう……? じゃあ、改めて……ソラちゃん」
「うむ。よろしい」
腕を組んで大仰に頷いて見せたソラちゃんはごそごそとリュックを探って取り出したクリアファイルを凝視し始めた。「中間レポートの提出が……今日はまとめ回だとして……プリントだけ貰おっかな……?」とぶつぶつ何か言っている。
大学の話はまだ想像つきにくいな、とレポートレポート言っていたお姉ちゃんの姿を思い出していると、
「ねえ詩梳ちゃん。学校、ここから歩き?」
「うん。15分くらい歩くかな」
「ってことはあそこの高校なんだ。あのさ、詩梳ちゃんさえ良かったらしばらく一緒に話さない? 学校行くまでの道中でいいからさ!」
「それは……学校まで一緒に行くってこと?」
「そうそう。あたしはトンボ帰りで駅まですぐ戻るけどね」
ソラちゃんの提案は素直に、嬉しい。
私も話したいと思っていたから。
「でも、その。大学は平気なの?」
「ん? あー、大丈夫大丈夫! 授業は来週もやってるけど、今この瞬間の詩梳ちゃんはここにしかいないからね」
「そ、そういうものですか」
「そーいうものです」
結局押し切られて、私はソラちゃんと一緒に登校することになった。友だちと一緒になることは今までも何度かあったけれど、年上の、しかも大学生と一緒にとなるとなんというか、少し緊張した。
……本当にそれが理由?
ソラちゃんも言ってた通り、年齢とか、気にせずいこうって――私もそれがいいと思っていたから。
じゃあ、この緊張は?
「制服懐かし~、ね、制服遊園地とかあたしまだギリ行けるかな」
「じゃあこんど行っちゃう? なんて……」
「えー! いいの!?」
身振り手振り、リアクションを取るソラちゃんの髪が躍り、朝の町並みに透けて紫のインナーカラーが見え隠れしている。目で追っているうちに、ソラちゃんが私の顔の前でぶんぶんと手を振ってきて。
視線を交わすと、にっ、と笑いかけてきて。
「なに、ぼーっとして」
「ううん。えっと……ソラちゃん、家この辺なの?」
ソラちゃんに目を奪われていたのを誤魔化すような私の質問に、ソラちゃんはこくこくと頷いた。
「うん。あそこがウチの最寄り駅だよ。大学まで一本で行けて便利便利」
「へぇ……一本か。じゃあ途中で私の家の最寄り駅通ってるかもね」
「え、ほんと! あたしって高橋姉妹と意外と縁が深いのかも……」
なんてことない会話をしていると、気づく。
私とソラちゃんは歌で出会った。昨日ほんの数十分話しただけなのに、ソラちゃんに熱を貰って詩を書いた私は、なんだかそれ以上の繋がりに思えてたけど。
そうだ。私たち、まだほんとに出会ったばかりなんだ。
何も知らないんだ、私。この子のこと。
「そういえば、詩梳ちゃんは部活とかやってるの?」
「……っ、えっと」
その言葉で、私はさらに思い至る。
当たり前だけど。
――それは、ソラちゃんも同じなんだ。
「部活は、入ってないよ。でも」
一瞬、迷った。
何もないままの私だったらはぐらかして答えなかった。あるいは、「勉強してる」と答えたかもしれない。
でも、他ならないソラちゃんにこの嘘はつけなかった。
そうしたら、あの熱も嘘になってしまう気がしたから。
「私ね、やりたいことがあって。詩を、書いてるんだけど。誰かに言葉を届けられたらなって、それで、高校では色んな作品に挑戦しようと思ってて、だから――部活には、入らなかったんだ」
事実だ。
一年と数か月、何もしてこなかったという点を除けば、その言葉に偽りはない。
それを口にするだけで何もない自分が嫌で痛くなる。昨日のことがなければ、こんな風には説明出来なかった。
「えー!! 詩書いてるの!!? めっちゃすごいじゃん! もう、そうならそうと早く言ってよ詩梳~」
「え、え、ソラちゃん?」
私としては結構勇気を出したつもりだったんだけど。
私の内心の深刻さが吹き飛ぶくらいにソラちゃんは急にテンションが上がって、ぐいぐいと肘で私の身体をつついている。しれっと呼び捨てにもなっていたし。
「そんなに、すごい、かな……?」
「すっごいよ。だって詩って、言葉と一緒にさ、空を飛んでる! みたいな感じするじゃん? あたしは苦手だから、尊敬する」
「あ、ありがとう。でも、ソラちゃんの曲の歌詞、自分で書いてるんでしょ? 素敵だったと、思うけど……」
私は照れ隠しに話題の矛先をソラちゃんに変えた。でも、素敵だと思ったのは本当。
作詞も作曲もやっていて、言葉選びも温かくて、素敵な感性だな、と思う。
そんなことをわたわたと手を振りながら説明すると、ソラちゃんは頬をぽりぽりと掻きながら口を開いた。
「……あー、さっき褒めてくれたけど、歌詞は、真似事なんだよね。あたし、高校の頃さ、帰宅部で。家と学校の往復、家でもなんとなくだらーっと過ごしちゃってて」
「――え」
その突然の告白は予想だにしないもので、私は思わず声を漏らしていた。
だって、それって。
「でも何かをしたい、叫んでやりたいって、ここじゃないどこかへ飛んでいきたいって、その気持ちばっか強くてさ」
片腕を抱いて、朝の蒼穹を仰ぐソラちゃんのその目は、今ではないいつかを眼差していて。
私の目にも、ソラちゃんとかつて自分の姿が重なって。
「あたしにはさ、空を飛ぶための翼がなかったんだよ。そんなあたしにね、翼をくれた人がいたの」
視線を前に戻したソラちゃんはポケットからスマホを取り出すと、何かを検索して私に差し出した。
そこに表示されたウェブサイトを見て、私は息が詰まる。
「詩梳ちゃん、小説投稿サイトって知ってる? こんな感じで、小説とか詩とかエッセイなんかも投稿できるサイトなんだけど」
「……うん。知ってるよ」
「そっか。えっとね、あたし、去年の春くらいに、なんとなくこのサイトを眺めてる時に、新着の欄にたまたま詩を見つけたの。珍しいと思って読んでみたら――」
ソラちゃんはスマホをしまうとぱしっ、と私の手を掴んで、言った。
「めっちゃ、心に刺さったんだ! あたし、あんな体験始めてで! 心が熱くなってさ、その詩の作者の他の投稿遡って漁ったり、あたしも詩の真似事とかしてみたりして。そんな風に色々やってるうちに、気づいたの。ああ、あたし、音楽やりたかったんだ、って。だから、あたしが今歌えてるのは――飛べてるのは」
ぱっ、と私の手を離して、ソラちゃんは再びスマホを取り出し、画面を操作してから私にスマホを持った手をどん、と向けた。
大切そうに、熱のこもった声色で、ソラちゃんは、告げた。
「この人のおかげ! だから、詩ってね、誰かにすっごいパワーを上げられるんだよ。それを書いてる詩梳は、めっちゃすごいと思う! ……って、思ったの」
ああ、嘘だ。
そんな、ことって。
私の耳にはもう、ソラちゃんの言葉が耳に入って来なかった。
だって、そこには。
「でも、この人――『ドロップ』さん、すぐに更新止まっちゃって。フォローとかブックマークとか感想とか、色々送ったんだけど反応もなくて。元気かな……」
「……ぁ」
私が、もう一年半と開いてすらいない。
「ドロップ」のアカウントの、プロフィール画面が、あって。
「あれ? 詩梳ちゃん、どうしたの?」
私には、分からなかった。
私に熱をくれたソラちゃんが歌うきっかけを作ったのが、他らなぬ私だったという事実を。
誰にも届かなかったと蓋をして見てこなかった「ドロップ」の詩が、確かに届いていたという事実を。
「……ぅ」
「え!? 詩梳ちゃん!? 泣いてるの、え、大丈夫? そこ、座る?」
「……あぁっ」
どう、受け止めればいいのかが――
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