帝都オーレファルクのチョコレート薬舗―訳あり薬師エミルの事件簿―

雪村ことは

第1話:黒い薬屋とオーレファルクの甘い昼

朝霧が石畳の路地を薄く包み、オーレファルクの下町にゆっくりと陽が差し始めるころ。

小さな薬屋の奥で、石臼が低く唸りを上げていた。


どろり、と黒いペーストが石のすき間から流れ出す。焙煎したカカオ豆をひたすら挽き続けてできたそれは、ほのかに苦く、甘みを予感させる香りを工房いっぱいに満たしていた。


「……いい匂い、ではありますけどねぇ」


帳場の椅子に腰掛けて、アンネリーゼ・クリューガーが頬杖をつく。

最近十八歳になったばかりの彼女は、茶色の目を半分だけ細めて、奥で黙々と石臼を回す男の背中を見つめていた。


「薬屋としては、どうなんでしょうね、これは。通りの人が『あそこ、黒くて甘い匂いがする』って噂してましたよ。毒々しいのか、美味しそうなのか、よく分からない感じで」


石臼に両手を置いたエミル・ファルクナーは、振り返らずに静かに笑った。


「薬だけが欲しい人ばかりとは限りませんから。甘いものの匂いにつられて来てくれるなら、それも悪くないでしょう?」


「……そうやって、今日も我が薬屋は赤字を重ねていくんですねぇ」


「帳簿は君に任せます」


「一方的に押し付けられても困るんですけどね!」


アンネリーゼの抗議が、朝の工房に軽く響いた。

とはいえ彼女の口元は、ほんの少しだけ緩んでいる。


店先の戸を半分だけ開けると、冷えた空気と一緒に、街の音が流れ込んできた。荷車のきしむ音、露天商の声、どこかの家の鍋の鳴る音。


オーレファルク——二つの王冠を頂くこの国、双冠帝国ダナリアの都は、今日も忙しなく息づいている。


「さて、扉を開けましょう。今日はいい天気です」


エミルが石臼から手を離し、前掛けについたカカオを払う。

彼の指先は、薬の瓶を扱うときと同じように、無駄がなく静かな動きだった。


「……カカオの粉、ちゃんと落としてからお客さん触ってくださいね。薬に黒いの混ざってたら、さすがにクレームきますよ」


「気をつけます」


「本当に頼みますよ!」


そんな他愛もないやりとりをしながら、朝の薬屋は一日の準備を整えていく。


そこへ、遠慮がちに戸が叩かれた。


「……すみません」


顔だけそっと覗かせたのは、痩せた女と、小さな男の子だった。

男の子は母親のスカートの裾を握りしめ、咳をこらえるように喉を鳴らしている。


「おはようございます。具合が悪いのですね」


エミルが柔らかく声をかけると、女は不安そうにうなずいた。


「すみません、先生……。咳が止まらなくて。でも、今月は家賃も滞ってて……」


アンネリーゼが、ちらりと帳簿を抱き寄せる。


(あー……まただ)


心の中で盛大にため息をつきながらも、口ではいつもの調子だ。


「お支払いの話はあとでいいですよ。ねえ、エミルさん。ここは“慈善院・ファルクナー分院”なんですから」


「そんな看板は出していませんよ」


エミルは苦笑しながら、男の子の膝に目線を合わせた。

胸の音を聞き、喉を見て、軽く背中を叩く。


「少し喉が腫れていますね。でも、肺はまだ大丈夫です。今のうちに楽にしておきましょう」


棚から薬草を数種取り出し、手際よく小さな包みに分ける。

それから、工房の奥に戻って、石臼の縁に残っていた黒いペーストを、爪先ほどの欠片に切り分けた。


「これは……?」


「薬ではありません。ただの甘いものです」


エミルは、それを男の子の掌にそっと乗せる。


「苦いお湯を飲んだあと、これを少しだけ舐めてください。きっと、すこし楽になりますから」


男の子は目を丸くして、黒い欠片を見つめた。

恐る恐る舐めると、顔にぱっと明るい色が差す。


「……あまい」


「ね、いいでしょ」


アンネリーゼは、わざとそっけなく言う。


「ただで貰えること、滅多にないんだから。ありがたく味わいなさいよ。うちの店主、原価計算できないんだから」


「アンネリーゼ」


「嘘は言ってませんよ?」


母親が何度も頭を下げて去っていったあと、

帳場に戻ったアンネリーゼは、帳簿にさらさらと何かを書き込んだ。


「はいはい、今日の“慈善事業”一件追加っと」


「そんな風に書かないでください」


「じゃあなんて書けって言うんです?“よく分からない赤字”?」


「……いつか、この子たちが働けるようになったら、またここでお金を使ってくれるかもしれません。時間はかかるでしょうけれど」


エミルは、窓の外に目をやった。

通りを駆けていく子どもたちの後ろ姿が、霧の向こうにかすんでいる。


「それまで店が残っていればいいんですけどねぇ」


「それを何とかするのが、帳簿係の腕の見せどころでしょう?」


「うわーっ、責任押し付けた」


文句を言いながらも、アンネリーゼの口元には笑みが浮かんでいた。


***


午前の仕事が一段落すると、二人は近所の茶屋に足を運んだ。

配達ついでの“寄り道”だ。


路地の角にある小さな茶屋は、朝から甘い香りに包まれていた。

鍋で煮えるのは、牛乳と麦と砂糖を合わせた、庶民の贅沢「甘い粥」だ。


「おや、先生にアンネ嬢ちゃん。今日も来てくれたのかい」


白い髭の老店主が、鍋をかき混ぜながら笑う。

その隣では、孫娘のリゼが、器を並べている。


「おじいさん、また鍋変えたんですか?」


アンネリーゼの視線が、火にかかった大きな鍋に留まった。

黒光りする錬鉄の鍋は、これまでの素焼きとは明らかに違う。


「へへ、どうだい。見事なもんだろう。これで一度にたくさん炊けるし、丈夫で長持ちだとさ。職人街の鍛冶屋から、特別に譲ってもらったんだ」


「こんな立派なの、どこからお金が湧いてきたんです、ほんと」


「孫の嫁入り道具なんだよ。長く使えば元は取れるさ」


エミルは、鍋の縁にそっと手を触れた。

熱さよりも、鉄の固さと冷たさが指先に残る。


「いい鍋ですね。……少し、内側が荒いですが」


「最初はこんなもんだとさ。そのうち馴染む」


老店主は気にする様子もなく笑い飛ばした。


「先生、今日も一杯どうだい。よく働く薬屋さんには、甘いもんが必要だ」


「では、少しだけ」


「私も!」


アンネリーゼとエミルは笑顔で老店主に応じる。

二人は差し出された器から立ちのぼる甘い匂いに、心が緩んだ。


「長く使える道具はいいですね」


ふと、そんな言葉が口をついて出た。


「人より、約束を守ってくれますから」


「急に寂しいこと言わないでくださいよ」


アンネリーゼは器を抱えたまま口を尖らせ眉をしかめる。


「いままでどんな約束破られたんですか。今度、酒の席で聞いてあげます」


「酒はほどほどに。……それに君が飲む側だと余計に心配です」


「失礼な!」


茶屋には、そんな軽口と笑い声がよく似合っていた。


***


茶屋から戻ったころには、もう日差しがだいぶ高くなっていた。


エミルが看板を掛け直し、戸を半分開けたそのとき、

通りの向こうから、ひときわ姿勢のいい人影が近づいてきた。


質素だが仕立ての良いワンピースに、薄い外套。

歩き方は静かで、無駄がなく、それでいてどこか舞台に立つ役者のような存在感がある。


「いらっしゃいませ」


エミルが声をかけると、若い女性は軽く会釈して店に入った。


「こちらが……黒くて甘いお菓子を出す薬屋でして?」


「そんな噂が、あるんですか」


エミルが少し目を瞬かせると、女は意味ありげに微笑んだ。


「ええ、少し変わったところから耳にしまして。たまたま話の端に出てきたのです。“黒くて苦くて、それでいて甘いものを、薬屋がこっそり出している”と」


「“変わったところ”って、どこですかねえ」


アンネリーゼが、ほうきの柄を握ったまま、じりじりと近づく。


「歌い手さんなのか商人さんなのか、それとも誰かの友人なのか……。そういうのは、混ざってしまうと分からなくなりますわ」


女はさらりとかわした。


「ただ、とても楽しそうに語っていましたの。“一度食べると忘れられない”と」


「ほらやっぱり、“黒くて甘い店”って名前が一人歩きしてるじゃないですか。そのうち勝手に看板描かれますよ」


「描かれる前に、正式な看板を出しますか」


「その前に赤字をどうにかしましょうね」


エミルは苦笑し、工房の方を指し示した。


「お探しのものは、おそらくこちらです。確かに薬ではありませんが、少しだけ珍しい菓子で」


「チョコレート、とおっしゃるのでしょう?黒くて苦くて、でも甘くて力が沸いてくる、不思議な味だと聞きました」


女は興味深そうに目を細めた。


「もしよろしければ、少しだけ味見を」


「よろしいのですか?」


「ええ。初めての方には、少しだけ」


エミルは、今朝作ったばかりの欠片を一つ、細い皿に乗せて差し出した。

女は指先でそれを取り、慎重に口に含む。


数瞬の沈黙。

やがて、その表情にわずかな驚きと、ほどけるような笑みが浮かんだ。


「……たしかに、苦くて甘い。でも、どちらかを選ばなくていい味ですわね」


「気に入っていただけたなら、少し包みましょうか」


「ぜひ。今日ここに来たのは、それが目的ですもの」


女はさらりと言った。


「甘いお菓子ならあちこちで手に入りますが、こういう“少しだけ苦いもの”は、なかなか巡り会えませんから」


懐から取り出された小さな財布も、コインの出し方も、

庶民とはどこか感覚の違う所作だった。


(絶対ただの人じゃない……)


アンネリーゼは、掃除をするふりをしながら横目でじっと観察する。


「お代はこれで足りますか」


「十分すぎるくらいです」


「よかった。では、また来てもよろしいかしら。この味、忘れたくありませんから」


「いつでもお待ちしています」


女は微笑み、店を後にした。

通りに出て歩き去る背中は、やはりどこか、この界隈の人間には似つかわしくない気配をまとっている。


「……今の人、絶対ただのお嬢さんじゃないですよね」


戸が閉まったあと、アンネリーゼが腕を組んだ。


「歩き方が偉そうでした」


「そうですね、でもそういう方に来ていただけるのはお店としては良いことだと思いますよ」


エミルが急に経営に関する発言をしたのでアンネリーゼは目を丸くし、口を開くが続ける言葉が見つからなかった。


そんな会話を交わした、ほんの少しあとのことだった。


昼下がり。

アンネリーゼが帳簿と格闘していると、今度は戸が勢いよく開いた——。


「アンネさん、エミル先生!」


泣きそうな声で飛び込んできたのは、茶屋の孫娘リゼだった。

顔は真っ青で、肩で息をしている。


「どうしたの、そんなに慌てて」


「お客さんが……お粥食べた人が、次々に気分が悪いって……!

みんな、おじいちゃんの粥のせいだって……!」


アンネリーゼは一瞬だけ目を丸くし、それからすぐに立ち上がった。


「鍋を取っ替え引っ替えした呪いですね」


「こんな時に冗談を」


「冗談言ってないと、みんな余計に不安になるでしょ。……で、何人?」


「えっと、五人……ううん、六人……」


「分かった、順番に見ましょう」


エミルは白衣の袖をまくり、鞄にいくつか薬と器具を詰め込んだ。


「行きましょう。こういうときのために、薬屋はここにあるんです」


その言葉に、リゼの瞳が少しだけ明るくなる。


「アンネリーゼ、手伝ってください。君のほうが、人の名前を覚えるのが早い」


「はいはい。じゃあ、倒れてる人の顔と、それから財布の中身、ちゃんと見ておきますね」


「財布は見なくていいです」


「冗談ですよ」


本気半分、冗談半分のまま、三人は小走りに茶屋へ向かった。


***


茶屋の中には、甘い粥の匂いと、胃の中身の酸っぱい匂いが混じっていた。

床に座り込む者、椅子にしがみつく者。皆、顔面蒼白で額に汗を浮かべている。


「先生!」


老店主が縋るような目でエミルを見る。


「すまねえ、本当にすまねえ……。ワシの粥のせいだと、みんな……」


「落ち着いてください。まずは、皆さんの様子を見ましょう」


倒れている客の一人が、苦しげに呟く。


「へんな粥を出しやがって。こんなの、ただじゃ済まないぞ」


老店主がさらに顔を強ばらせたところで、エミルが割って入る。


「彼に悪意があったとは思えません。まずは原因を探りましょう」


エミルは一人ひとりの脈を取り、瞳孔の反応を確かめ、簡単な問診をしていった。

吐き気、目眩、軽い腹痛。いずれも命に関わるほどではないが、放置すればしばらく動けなくなるだろう。


「アンネリーゼ。症状の軽い方から、薄めの生姜湯を飲ませてください。それから、誰がいつ来て、何をどれくらい食べたか、覚えている範囲で聞き取って」


「了解。じゃあ“聞き取り調査担当”やります」


アンネリーゼは客の間を歩きながら、素早く状況を整理していく。


「ねえ、あなた。今日は何杯食べました?いつもより多かったですか?……はい、じゃあ“よく食べる人・一杯半”っと」


紙片に殴り書きしながら、彼女は倒れていない客にも声をかけた。


「さっきから元気な人って、誰でしたっけ?」


「おれたちだよ。ちょっと口にしただけだ」


「俺ぁ、朝からこれ一杯だが、平気だぞ」


「へえ……」


アンネリーゼは目を細め、ちらりとエミルの方を見る。


エミルは、鍋と材料に目を向けていた。

水桶から一杯すくって匂いを嗅ぐ。問題のなさそうな井戸水だ。

薬草の束を手に取り、茎や葉の色、乾き具合を確かめる。こちらも粗悪品ではない。


彼の視線が、鍋に移る。

黒い錬鉄の鍋。その縁には、白い粥が薄くこびりついていた。


「アンネリーゼ。倒れた人と、倒れてない人の違いは?」


「はい、今のところ——」


彼女は紙片を見ながら答える。


「倒れた人たちは、皆さん“粥が好きでよく食べる人”。今日も一杯以上食べてました。倒れてない人は、さっきのお金持ちっぽい人みたいに“甘すぎる”って言って半分残したり、子どもたちは、そもそも器が小さいから量が少ないです」


「なるほど」


エミルは鍋の内側を指でそっとこすり、指先についた粥を見つめた。


「この鍋になってから、どれくらいですか?」


「昨日からです」と、リゼが答える。


「昨日のお客さんには?」


「そんなにたくさんは出してません。常連さんが数人と、通りすがりが少し……具合悪くなったって話は、聞いてません」


「そうですか」


エミルは小さく息を吐いた。


「道具が悪いのか、人の使い方が悪いのか。……どちらにしても、倒れるのは弱い人からですね」


その言葉に、アンネリーゼがちらりと彼を見た。

エミルがかつて従軍していたと聞いたが、彼は戦時中の話ほとんど口にしないことを思い出す。


「どういうことだい、先生」


老店主が震える声で問う。


「鍋そのものが毒なわけではありません。ただ——」


エミルは、棚から別の鍋と木の匙を取り、少量の水と薬草、そしてわずかな果汁を混ぜた。


「鉄は少しなら身体の味方ですが……」


エミルは匙を持ち上げ、銀色にうっすらと浮いた色を皆に見せた。


「こうして酸っぱいものと一緒に、長く煮ると、少しずつ鍋の方が負けてしまうんです」


彼は鍋の底を匙でこすり、銀色の匙の表面にわずかな変色が生じているのを見せた。


「普通は問題にならない量です。ただ、新しい鍋の内側はまだ荒く、そこに今回の薬草と果実の組み合わせが重なった」


「じゃあ、ワシの鍋が悪いってことか……?」


「鍋を責める必要はありません。使い方を、少し変えればいいだけです」


エミルは微笑む。


「今まで通りの素焼きの鍋で煮てから、最後にこの鍋に移して温める。あるいは、薬草や果実の量を減らす。そうすれば、こんな症状は出ません」


「……本当に?」


「ええ。私は薬屋ですから」


老店主の目に、滲んだ涙が光った。


「すまねえ、先生……。ワシのせいで、客に迷惑を……」


「“せい”ではなく“知らなかっただけ”です。知っていれば、次からは避けられます」


エミルの言葉は、柔らかく、それでいて揺るぎなかった。


「アンネリーゼ、症状の軽い方には少し休んでもらって、重い方には家まで付き添いをお願いできますか」


「了解。じゃあ、おじいさん、今度から甘いの一杯、私タダでいいですからね。

これで帳消しってことで」


「お、おう……そんなことでいいのかね」


「いいんです。うちの店主は原価計算できませんけど、私はできますから」


そう言って笑うアンネリーゼに、

リゼもつられて泣き笑いになった。


***


その日の夕暮れ。

ようやく騒ぎが落ち着き、薬屋に戻ったときには、空は茜から群青へと色を変えつつあった。


「いやー、疲れましたね」


「お疲れさまでした」


アンネリーゼは椅子に倒れ込むように座り、帳簿を開いた。


「で、本日の収支。……見事なマイナスでーす」


「そうでしょうね」


「ちょっとくらい落ち込みましょうよ」


「落ち込む時間があったら、明日の準備をしましょう」


「はあ……。その前向きさ、毒とか混ざってません?」


「混ざっていたら、もう少し楽だったかもしれませんね」


「さらっと怖いこと言わないでください!」


アンネリーゼの抗議を、エミルは曖昧な笑みで受け流した。


店の灯りを少し落として、工房の奥で残りのチョコレートを整える。

黒いペーストを細長く伸ばし、小さな欠片に切り分けていく。


「今日は、少し苦い一日でしたね」


「ですね。でも、みんな生きて帰れたから。……ぎりぎり合格です」


「そうですね」


そんな会話をしていると、戸が静かに叩かれた。


「もう閉める時間ですよー。……って、あれ」


アンネリーゼが戸を開けると、昼間にも見かけた若い女性が立っていた。


昼間とは違う質の良いが地味な衣の上に、薄いマントを羽織っている。

立ち姿には無駄がなく、どこかで身分の高い教育を受けたとひと目で分かる所作だった。


「こんばんは。まだ、開いているかしら」


「一応、ギリギリセーフです。ちなみにうちは王侯貴族御用達じゃないですけど、それでもよろしければ」


「王侯貴族より、庶民の店のほうが美味しいものがあると聞きいています」


女は、わずかに口元を緩めてそう答えた。


「お昼にいただいたチョコレートが忘れられなくて、今夜の口寂しさを紛らわせるため、もうすこし頂戴したくて」


「口寂しさ……」


アンネリーゼがエミルを流し見る。


「お得意様ですよ、エミルさん。いいやつ出してあげてください」


「はいはい」


エミルは、夜のお供として少し苦みの強い配合の欠片をいくつか選び、紙に丁寧に包んだ。


「今日は夜遅くまで?」


エミルは、包みを渡しながら尋ねる。


「ええ。まだ少しやらなくてはならないことがあって。そういう日には、精がつくものは助かります。甘ければさらに嬉しいですわ」


「ええ。よく分かります」


女は包みを受け取り、静かに頭を下げた。


「また、来てもよろしくて?」


「もちろんです」


戸が閉まる。

外の気配が遠ざかると、アンネリーゼが腕を組んだ。


「やっぱり偉そうな歩き方ですよ、あのお嬢さん」


「そうですね」


エミルは苦笑する。


「歩くだけで道が空きそうでしたよ。“この国の運命くらい背負ってますが?”って顔してました」


「面白い表現ですね」


「おちょくってます?」


エミルは、笑いながら灯りを一つ消した。

工房には、カカオの甘い匂いと、わずかな鉄と薬草の匂いが残っていた。


(長く使える道具は、いいですね)


心の中で、今日自分が発した言葉を反芻し、彼は最後の火を落とした。


オーレファルクの夜が、静かに深まっていく。

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