File3.雪女の終活と、氷点下のラブ・ストーリーについて

「う、うぅ……。かわいそうです。あまりにも、かわいそうです」


事務所に、咲耶の鼻をすする音が響いている。彼女のデスクの上には、ティッシュの山が築かれていた。俺は決算書のチェックを止め、ため息交じりに顔を上げる。


「咲耶さん。感情移入は結構ですが、業務の手は止めないでください」


「でもぉ! 今回のクライアント様の動機、聞きましたか!? 『愛する夫の命を守るために、自分はこの世界から消えたい』だなんて……! こんなの、泣かずにいられませんよぉ!」


オサキが呆れたように冷たいお茶を咲耶の前に置いた。


「女神様、涙でキーボードが水没しますよ。……で、九十九さん。今回の案件ですが」


オサキが示した資料には、一人の美しい女性の写真があった。透き通るような白い肌。憂いを帯びた瞳。クライアント名は『深雪(みゆき)』。種族は、雪女だ。


「彼女のオーダーは『灼熱の精霊界』への転生。自身の体質である『冷気』を完全に無効化できる世界へ行き、二度と戻りたくないとのことです」


雪女が、灼熱の世界へ。それは自身のアイデンティティである「雪」を捨てる、自傷行為に近い願いだ。俺は資料の備考欄に記された、彼女の「夫」のデータに目を走らせた。


『夫:人間。年齢82歳。現在、老衰により自宅療養中』


「なるほど。事情は見えました。ですが、現場を見ずに判断はできません。行きますよ」




都内から離れた、山間の古い日本家屋。そこが深雪と、その夫が暮らす家だった。 季節は初夏だというのに、その家の周囲だけひんやりとした冷気が漂っている。玄関を開けると、そこはまるで冷蔵庫の中だった。


「いらっしゃいませ」


奥から現れたのは、息を呑むほど美しい女性だった。年齢不詳の美貌。だが、その表情は凍りついたように硬い。彼女が歩くたび、床板にうっすらと霜が降りる。


「九十九様ですね。夫は奥で寝ております。どうか、静かに」


通された和室には、布団に横たわる老人がいた。痩せ細り、呼吸も浅い。部屋の温度は、明らかに健康な人間に適したものではなかった。 深雪は老人の枕元に座ろうとして、ふと手を止めた。そして、悲しげに距離を取る。


「私がそばにいるだけで室温が下がってしまう。私の体温は、今の彼には毒なのです」


深雪は震える声で語り始めた。 二人が出会ったのは六十年前。若い雪女だった彼女は、雪山で遭難しかけた彼を助け、そのまま恋に落ちた。あやかしと人間。種族を超えた愛は、長い間穏やかに育まれてきた。 だが、時間は残酷だ。人間は老い、あやかしは変わらない。


「彼はもう長くありません。最期の時くらい、暖かな布団で、暖かな日差しの中で逝かせてあげたいのです。私の冷気で彼の寿命を縮めたくない」


彼女は、その冷たい両手で自分の顔を覆った。


「だから、私は消えたい。私が異世界へ転生すれば、この家の冷気も消える。彼の手を握ることもできない私が、ここにいる意味なんてもうないのです」


「うぅ……!」


咲耶がハンカチを噛んで号泣している。


「わかりました! すぐに手配します! 灼熱の世界で、あなたが誰も傷つけずに済むように……!」


「待ちなさい、研修生」


俺は咲耶を制し、静かに老人の枕元へと歩み寄った。そして、老人の痩せこけた手にそっと触れる。確かに冷たい。だが……。


「深雪さん。あなたは大きな勘違いをしている」


「え?」


「コンサルタントとして事実(ファクト)を提示します。ご主人の体温が低いのは、あなたの冷気のせいだけではない」


俺は懐から『看破の義眼』を取り出し、老人の胸元にかざした。そこにあるのは冷え切った肉体ではない。燃えるような、魂の灯火だった。


「ご主人は寒がってなどいない。彼は、探しているんですよ」


「探している……?」


「ええ。あなたの、手を」


俺は深雪の手を取り、強引に老人の手に重ねさせた。


「ひっ! やめてください! 私が触れたら、凍って……!」


彼女が叫んだ、その時だった。 昏睡状態だったはずの老人の手が、驚くべき力で深雪の冷たい手をぎゅっと握り返したのだ。


「……っ!」


「み、ゆき……」


老人の口から、かすれ声が漏れる。


「涼しくて、いい気持ちだ。ずっと探していた。お前の手を」


老人はうっすらと目を開け、愛おしそうに若く美しい妻を見上げた。


「行くな。わしを置いて。お前がいない『暖かさ』など、地獄より寒い」


深雪の目から、氷の粒のような涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。


「あなた。でも、私はバケモノよ。あなたを冷やしてしまう」


「バカを言え。わしには、お前が誰よりも暖かい」


老人はそのまま満足げに、再び深い眠りについた。繋いだ手は、離されなかった。




俺は呆然とする深雪と咲耶に向き直った。


「これが、監査結果です。深雪さん、あなたのご主人が求めているのは『適正な室温』という福利厚生ではない。あなたという『パートナー』そのものです」


俺は咲耶に指示を出す。


「咲耶さん。異世界への転生申請は却下です。その代わり、天界の備品倉庫から『常春(とこはる)の香炉』を取り寄せてきなさい」


「え? は、はい!」


「深雪さん。その香炉を部屋に置けば、あなたの冷気を中和し室温を一定に保てます。そうすれば、あなたは心置きなくご主人のそばにいられる。最期の、その時まで」


深雪は涙を拭い、深く深く頭を下げた。


「ありがとうございます。私、間違っていました。自分が傷つくのが怖くて、彼から一番大切なものを奪うところでした」


彼女は夫の手に自分の額を押し付けた。その横顔は雪のように冷たく、そして春の日差しのように穏やかだった。




帰り道。咲耶はまだ目を赤くしていた。


「九十九さん。あのご主人、助かるわけじゃないんですよね」


「ああ。寿命だ。香炉を使っても、そう長くはない」


「それでも、転生するよりよかったんでしょうか」


「咲耶さん」


オサキが珍しく優しい声で言った。


「あやかしも人間も、誰かに必要とされ、その手の中で終われるなら、それは『幸福』と呼ぶのですよ」


俺は、空を見上げた。


「重要なのは、転生先との『マッチング』。 ……だが、最高のマッチング相手が既に隣にいるのなら。 わざわざ異世界へ行く必要など、どこにもない」


事務所に戻ると、オサキが、深雪から預かった桐の箱を、恭(うやうや)しく差し出した。 中には雪の結晶をそのまま固めたような、美しく、どこか儚い宝石が収められている。


「さて、九十九さん。今回の報酬です」


オサキが、鑑定書のような顔つきで説明する。


「クライアントより、『雪華の宝石』を頂戴しました」


「ほう。効果は?」


「はい。この宝石を握りしめ、対象を強く念じるとその対象の『時間』と『状態』を数分間だけ、完全に『凍結(保存)』できるそうです。 崩れ落ちそうな建物を空中で静止させたり、あるいは……死に行く者の命を救助が来るまで繋ぎ止めたり。 あらゆる『変化』を拒絶する、雪女の愛そのもののような力ですね」


「……なるほど。緊急時の『タイムアウト』に使えるか」


俺は、その冷たい宝石を懐に仕舞った。 彼女が夫との時間を凍らせたかったように、この石もまた、俺たちの窮地を救う切り札になるだろう。


「帰るぞ。……次の依頼が、待っている」

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