第一界:燃焼界(二)

​ (ボトル缶。あの黒い地面の中で、唯一、光を反射しているもの)。その鈍い銀色の輝きは、この死の世界における、ただ一つの救済のように思えた。それは、砂漠のオアシスという陳腐な比喩を超え、存在の絶対的な根拠のように、私の視界に焼き付いた。乾ききった網膜の奥で、その金属光沢が熱を帯びて瞬く。


​ 私の肉体は、飢餓と脱水の極限状態にある。体内の水分は蒸発し尽くし、血液は泥のように粘り、全身の細胞が助けを求めて絶叫している。この灼熱の世界で、私の生存時間は、刻一刻と短縮されつづけ、喉の奥は石膏のように固まり、唾液はとうに枯れた。胃は、内壁を自ら消化し始めているかのような、鈍い痛みを訴えている。「何かを、内側に入れろ。そうでなければ、お前はここで、塵となって消える」という、原始的な生存本能が、理性すべてを押し流そうと頭の奥で毛細血管のどれかが脈打っている。


​ 私は今、何をすべきか。考える必要はない。身体が、勝手にボトル缶へ向かおうとする。(水だ。水が入っていなくても、何か、生をつなぐものがあるかもしれない)。その思考は、もはや希望ではなく、本能的な摂食行動に近い。足の裏に感じる煤の熱さも、全身を覆う倦怠感も、すべてが後退し、ただ「缶」という一点に意識が収束していく。周囲の瓦礫や鉄骨の形状、空の色といった生存に直接関わらない情報はすべてノイズとして排除される。世界のすべてが、その鈍い銀色の缶のために存在しているように感じられた。


​ ボトル缶を拾い上げる。錆びついた表面はひんやりと冷たい。その冷たさが、灼熱の地面とは対照的で、かえって強いリアリティを私に与えた。この冷たさだけが、「まだ、この世界には、熱と異なるものが存在する」という、微かな理性の錨となる。缶の重み。それは、私の手に残された、まるで最後の現実だった。口元に持って行く。振る。


​ チャプ、チャプ。


​ (入っている。間違いなく液体だ。少量だが、この渇きを、一瞬でも緩和できる)。缶の中で揺れるその水の音は、大金脈を発見した探鉱者の耳に聞こえる金貨の音よりも、私にとって遥かに価値のあるものだった。それは、私の残り数時間の生命を保証する、絶対的な通貨の音だ。この音を聞いた瞬間、私の脳内には、理性の防壁が崩れ去り、「これは、私だけのものだ」という、獣じみた独占欲が四肢末端にまで雷鳴のように響いた。


​ キャップは固く、すぐに開かない。焦燥感が、喉の奥を締め付ける。(落ち着け。指先が震えて、いる)。もし、キャップを開けたあと、この缶をここで落として、中身をこぼしてしまったらと、その可能性が私の全身を緊張で硬直させる。体内に残された最後のエネルギーが、指先に集中し、キャップを回すための微細な動きに注がれる。視界がわずかに白み始めた。これは脱水による症状だ。もし、この缶を開けられず異形の者に奪われてしまったものなら、私はこの場で数時間以内に灰燼〈かいじん〉と帰すだろう。飢えと渇きは、理性的な判断力を奪い、私を発狂の淵に追い込んでくる。


​ すぐ側にある瓦礫の平面にボトル缶を垂直に押し当てて、力を込めてキャップを回す。キュッという嫌な音を立てて、ようやく開いた。その瞬間、私は、絶叫したいほどの安堵と、この絶対的な命綱を手に入れたことへの、激しい勝利感を覚えた。


​ 中身を確認する。透明ではない。わずかに茶色く濁った水。異臭はしない。それは、長期間放置された金属と土の匂いが混じったような、不快ではあるものの耐えうる臭いだ。私は、水の色が何であれ、毒でなければ構わないという、極限の思考に至っていた。


 この「生」への執着の前では、「清潔」という概念は、あまりにも無意味で、贅沢なものだった。​(飲む。飲まなければ、正気を保てない)。この水は、私の「自我」を、この肉体に繋ぎ止めるための、鎖だ。


​ グッと、一気に喉に流し込む。


​ (……ぬるい。金属の味がする。だが、水分だ)。渇ききった粘膜が水分を吸収していく感覚が、脳の深部の隅々に快感として刻まれる。泥水であろうと、錆び水であろうと関係ない。この一瞬の潤いが、私の肉体を「燃焼界」に繋ぎ止める鎖となった。それは、単なる水分補給ではなく、生命の儀式だった。この水が、私を「死体」から、「生者」へと引き戻す。


​ 一時的に、全身を支配していた異常な渇きが遠のく。思考回路に、わずかな余裕が生まれた。その余裕は、即座に独占欲へと変換される。


​ (この水は、私の命綱だ。ここで生き延びるための、絶対的な保証)。残りの水量は、口を一、二度濡らせる程度だろう。私はそれを一口分だけ残し、生存のための最後の保険とした。この残された一行程分の水が、私と「死」との間に存在する、最後の砦なのだ。


​ ボトル缶を服の中に隠す。誰にも見られないように、誰にも気づかれないように。その行為は、もはや理性的というより、獣的な独占欲に基づいていた。手のひらで缶の冷たさを確かめ、肌と布でその存在を隠蔽する。その秘密の行為が、私に絶対的な優越感と生存の権利を与えた。


​ 【独り占めしろ。生き残るのは、お前だけだ】


​ 内なる声が、初めて、明確な命令として響いた。それは、私の本能の奥底から湧き上がった、純粋な生存競争の宣言だ。(私は、この缶を誰にも渡さない。水分は、私のものだ)。その命令は、私が理性と常識で築き上げてきた壁を、一瞬にして打ち砕いた。この命の水を手に入れた瞬間、私は「人間」から「生き残るための何か」へと変貌したのだ。

​その時、遠くから、瓦礫の引きずられるような、不規則な音が聞こえ始めた。


​ ガリッ。ガリッ。


​ (存在を忘れていた。そう、先ほどまで遠くにいた異形のものが、今、近づいて来ている)。音が、空間の定着しない特性を無視して、直線的に私の耳に届く。その不気味な正確さが、私を強く怯えさせた。この音の発生源は、私の生存と、缶の中の残り一行程分の水を、脅かす存在だ。


​ この音は、金属が擦れる音ではない。黒焦げた肉体が、瓦礫の表面を削りながら進む音だ。まるで、巨大なヤスリでコンクリートを削るような、耳障りな甲高い音だ。その音の発生源が、生きている、あるいは動いている「肉」であるという事実が、この世の理不尽さを象徴していた。そして、その音は、「飢餓」の音だ。何かを求め、掻きむしり、這いずる音。私の持つ「命綱」が、その飢えを刺激する。


​ (あの「ワケロ」の文字。この缶。そして、この音……すべてが繋がっている)。この缶の存在が、私を「生者」としたと同時に、明確な「ターゲット」として位置づけた。


​ 私は、今、この焼け野原の「飢餓」の記憶と、真正面から対峙しようとしている。私が手に入れた「命綱」は、同時に、私を「狩る者」を引き寄せる餌となったのだ。服の下に隠した缶の冷たさが、警鐘のように私の肌に張り付く。


 ガリッ、ガリッ、ガリ……。


​ 音は止まらない。一定のリズムでもない。何かを探り、掻きむしり、よろめきながら進むような、不規則な連続音。その音の間隔から、それが機械ではなく、有機的な、しかし狂気に満ちた「動き」をしていることが伝わってくる。その不規則性が、かえって予測不能な脅威となって、私の神経を逆撫でする。


​ (隠れろ。身体を、瓦礫の中に、隠せ)。脳が生存指令を出す。緊張が限界を超え、私の身体は、自分の意志とは関係なく、無機質な塊のように硬直した。そうして観察していると、​こちらに視線が来そうになって初めて反射的に、背の高い鉄骨の残骸の陰に身をかがめる。心臓が、喉元で激しく脈打つ。その音が、この空間の静寂の中で、最も大きく響いているように思い、音が漏れないように手で口をふさぐ。


 (この音も、あちらに聞こえているんじゃないか?)。自分の心臓の音を止めることができれば、どれほど良いだろうか。私は無意識に、口呼吸から浅い鼻呼吸に切り替えた。吐く息すら、この残滓の飢えを刺激する「生者の証」となるのではないかと、極度のパラノイアに陥っている。


 ​鼻を刺す焦げた臭いが強くなる。熱を持っている。臭いの変化は、距離の接近を意味する。その熱は、単なる体温ではなく、周囲の煤を焼き焦がすほどの異常なエネルギーを帯びていた。それは、「生」への異常な執着が、「熱」となって発散されているかのような、生きた飢餓の証だった。


​ 瓦礫の向こう側から、ついにそれが現れた。


​ (人影?……いや、違う)。私の中の理性が、目の前の光景を「人間」として処理することを拒否する。


​ 「飢餓残滓(きがざんし)」。そう呼ぶべき存在だと、本能が告げる。私の理性がその名を規定するよりも早く、本能が危険を察知し、言語化していた。それは、この「燃焼界」の飢えと渇きが、肉体を媒介として具現化した、悪意ある記憶の塊だ。


​ それは、人間の形を辛うじて保ってはいるが、皮膚は焼けた革のように黒く、ひび割れている。手足は異常に長く、関節の向きが不自然だ。全身から立ち上る微かな熱が、空気中の煤を揺らしている。その細く異様に長い腕は、まるで四本の蜘蛛の足のように瓦礫を掻き、その不規則な動きは、視覚と本能の両方を攻撃してきた。「生きている」というよりは、「動かされている」という印象が強い。それは、自己意志ではなく、飢餓という絶対的な衝動によって、駆動している。


​ あれだけ視線を気にして行動していたが、よくよく観察してみるとその残滓は、目が見えていないようだった。顔は下を向き、常に地面の瓦礫をまさぐっている。指先は焼け焦げ、鋭利な爪のようになっている。(物を探している。何か、食べるもの、あるいは、必要なものを)。その探求の対象は、紛れもなく、私の持つ缶の中身、そして、私の肉体そのものだ。


​ そして、その残滓の口から、微かな呻き声が漏れた。


​ 「……た、す……け……て……ほ……し……」


​最後まで聞き取れなかった声はか細く、絶望と苦痛に満ちている。その呻きは、私自身の過去の記憶、助けを求めた瞬間の声と酷似していた。私の良心を揺さぶり、私を「人間」へと引き戻そうとする甘い罠。(いつ私は助けを求めた?いや、今はいい)。


​ (ミスリード。これは、罠だ)。あの呻きに、人間の「大柄な男」や「女」の面影を重ねてはいけない。(これは、この界の記憶が発している、感情の残響だ)。私は、頭を左右に強く振り、その声と自分との繋がりを断ち切ろうと努めた。この残滓は、もはや「助けを求める者」ではなく、「奪う者」なのだ。


​ 私は、服の中に隠したボトル缶を強く握りしめる。私の熱で温まった金属の感触が、今の私を「私」につなぎとめる唯一の錨だ。その感触だけが、私がまだ生きているという証拠であり、この非現実的な光景の中で、確かな実在を主張していた。「この缶がある限り、私は、あの飢餓の残滓ではない」。その確信が、私の独占欲を、さらに強固なものとした。


​ 【動くな。音を立てるな。お前の存在は、この残滓の飢えを、刺激する】


​ 残滓は、まだこちらに気づいていない。ただ、私のいる方角に向かって、盲目的に、這い進んでくる。その速度は遅いが、確実に間合いを詰めてくる。私と残滓の間には、もはや十数メートルの瓦礫の山しか存在しない。心臓の鼓動に合わせて、緊張が全身を駆け巡る。一秒が、一時間のように長く感じられる。


​ (どうすればいい?隠れ続けるか?……いや、脱出のヒントは「ワケロ」だ)。私は、再び缶の存在を意識する。あの缶の中には、私の命をつなぐ一行程分だけの水が残されている。


​ (私は、この恐ろしい存在に、私の命綱を分け与えなければならないのか?)。


​ 思考が恐怖と生存本能の間で、激しく揺れ動く。この二つの感情の綱引きが、私の頭蓋骨を内側から引き裂こうとしているようだった。「分ける」ことは「死」を意味する。しかし、「分けぬ」ことは、「狩られる」ことを意味するかもしれない。私は、この極限のジレンマの中で、獣と人間の境界に立たされ、二者択一を迫られている感覚に陥った。


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