裏層都市《Underground City》:残響回路の彷徨い人』
弌黑流人(いちま るに)
第一界:燃焼界(一)
(暗い。痛い。身体が冷たい。頭の奥がキンキンと鳴っている)。
コンクリートの感触ではない。鼻の奥がツンとする異様な臭いが、私を「元いた場所」から決定的に引き剥がしたことを突きつける。湿った土と、乾いた草木が焦げたような、独特の異臭。全身の打撲の痛みが現実の重さとして圧し掛かった。私はトンネルにいたはずだ。
(彼らに追いかけられていた。暗がりの中を走り、出口へ向かい、そして――)。
焦燥と恐怖。あの切迫した状況から、私は今、より絶望的な状況へと突き落とされた。一体、どれほどの時間が経過したのか。時間の概念すら曖昧になりつつある。私はかろうじて上を見上げる。
そこにあったはずの、人工的な「穴」がない。周囲を見回すと、ただ、黒く塗り込められたような、瓦礫の山、山、山。その瓦礫の山は、私と「元いた世界」との、決定的な断絶を象徴していた。
(帰れない。もう、あの賑〈にぎ〉やかで、常識の通じる場所には、戻れない)。
諦念が血液のように全身を巡るが、私は無理やり指先で目をこすり、ゆっくりと体を起こした。身体の隅々が鈍器で殴られたように軋む。右肘からは、薄い血が滲み、黒い灰に吸い込まれていった。
空は、厚い煤が固まったような灰色だ。月も星も見えない。その灰色の空は、希望や救済という概念が、この世界から完全に失われたことを示唆しているようだった。
直近の記憶は、追跡者たちの声。大柄な男の騒ぐ声、女の冷静な声、別の男の笑い声。私の知る現実のノイズは、ここにはどこにもない。
(誰も、いない)。
耳鳴りが「ブーン」と低く響いている。いや、これは耳鳴りではない。空間そのものが発している、異様な沈黙の音だ。この場所が「生きた世界」ではないことを告げる、孤独の警告だった。
(私は、暗いトンネルを走り続け、開けっ放しになっていたマンホールから落ちた。蓋はなぜ開いていた?暗がりだったのと、急いで逃げていたのもあって、まったく気づかなかった)。
過去への問いは、ただ無力な後悔となって喉の奥によどむ。地面に手を突く。温かい。火傷するほどではないが、深い地の底から湧き上がってくるような、不気味な熱だ。思わず手を引っ込める。掌には、黒い煤がびっしりと貼り付いた。この熱は、この世界の「常態」であり、私の「常識」が通用しないことを示している。
(ここは、どこかの地下ではない。外だ。だが、私の知っている外ではない)。
【ここから、動け。一秒でも早く、この場から離れろ】
生存を促す声が、脳裏で響く。それは、私の理性が発する警告であり、未来への最後の綱だ。私はゆっくりと歩きはじめる。重力が増したかのように身体が重い。
(呼吸が浅い。煤〈すす〉が舞っている。この空気、何か独特の臭いだ。石油?古い木材?…いや、焼き肉の上質な部位が焼け焦げた臭いに、ほんの少し似ている)。その臭いは、鉄が焼けたような金属臭と混ざり合い、神経を逆撫でする。反射的に口元を手で覆う。肺に満たされる空気が、まるで熱い砂のように感じる。視界を奪うほどの煙はないが、常に細かな灰が舞い、瞳を刺激し続ける。
瓦礫を踏みしめる。「ザリ、ザリ」と、乾いた音が周囲の沈黙を破る。音は異常に遠くまで響き、すぐに消える。反響〈エコー〉がない。空間に、音が定着しない。私の出す音が、この世界に拒否されている。この奇妙な音響特性は、緊張感を極限まで高める。私は、自分の足音が、予想外の方向から、意図しない大きさで返ってくるのではないかと怯える。
見渡す。視界を遮るものは、ねじ曲がった鉄骨と、原型を留めないコンクリートの塊だけ。この風景に、遠近感という概念がない。どこまで行っても同じ瓦礫の海が続く。私は思わず、遠くの鉄骨に焦点を合わせようと目を細めるが、距離感が掴めず、まるで巨大な写真の中を歩いているような感覚に陥る。自分の存在が、この圧倒的な風景の中で、砂粒ほどに縮小していく。
(どれだけ時間が経った?…数分。あるいは、数時間。)時間という概念が、今形をなしたのなら、間違いなく粘土の塊ように重いことだろう。私の体内時計は、この異様な空間で完全に狂っている。この時間の重さが、私を焦燥させる。一刻も早く、ここから脱出しなければ、この空間の「常態」に飲み込まれてしまうのではないかという恐怖。
立ち止まる。地面の黒い土に目を落とす。よく見ると、土ではなく、灰だ。何かが広範囲にわたって、高温で焼き尽くされた痕跡。この灰が、かつては生命だったもの、建物だったものの残骸であるという認識が、背筋を凍らせる。
(戦災?…いや、そんな単純な歴史の記憶じゃない。これは、記憶そのものが、空間として残っている)。頭の中で、これまで読んだ終末論の小説や、見た悪夢の映像が次々とフラッシュバックする。しかし、この現実は、それらのどの創作物よりも、冷たく、そして生々しい。
この「燃焼界」が、単なる場所ではなく、何らかの巨大な「意思」によって創られた、一つの観念的な牢獄であるような気がして、全身が震え始めた。いや、その前に。なぜ、私の頭の中に、ここを「燃焼界」と定義する言葉が、唐突に、だが当然のように浮かんだのだろうか?この「界」の知識が、私に強制的に植え付けられているのではないかという、新たな緊張と混乱が生まれる。だが他に、この景色を、この空間を言い表す言葉が見当たらないのも事実だった。
ふと、目線の先の、倒れた壁の低い位置に、不自然な白さを見つける。瓦礫の黒に馴染まない、「石灰」で指でなぞるかのよう書かれた白文字。
近づく。壁は湿気を完全に失い、触れるとボロボロと崩れ落ちる。崩れる寸前、その文字を読み取る。
【ワ ケ ロ】
太く、歪んだ文字。(誰のメッセージ?私と同じ、ここに迷い込んだ「彷徨い人」の残した言葉?)。その文字は、警告か、それとも絶望の叫びか。
(何を分ける?水?食べ物?…いや、この空間には、私自身の身体以外、何も「所有」できるものがない)。私は、その文字のあった場所に指を這わせる。煤と灰にまみれたその壁には、よく見ると血と汗で書かれたような切実な響きを持った形跡があった。私が目についたのは、誰かがその上に石灰で強調してくれていたからだ。つまりそれは、「脱出するためのヒント」。
石灰の文字が崩れ落ちた地面から、足を二三歩踏み出したくらいの距離に、何かが埋もれているのを視認する。それは、錆びて茶色に変色した、小さなボトル缶。スチールでできたような頑丈さを感じる。
(水が入っている可能性…)。その一縷〈いちる〉の希望が、私の飢餓状態の思考を、瞬時に支配する。
思考が、その缶に一極集中する。理性が、わずかに興奮を帯び始める。喉の渇きは、すでに限界に達している。唾液腺は完全に枯れ、舌は口蓋〈こうがい〉に張り付き、呼吸をするたびに喉の粘膜が擦れて痛みを発する。
(水分だ。生き延びるための、ただ一つの手段かもしれない)。喉の渇きが、いまや全身の痛みよりも優先される。ボトル缶の冷たく、金属的な質感が、乾ききった私の視覚と触覚を刺激する。私は、周囲の危険を顧みるよりも早く、目の前の缶に手を伸ばそうと身を屈めた。この渇きは、私を理性的な行動から引き離す、原始的な衝動へと変貌しつつあった。
周りの瓦礫の隙間に、一瞬、何かの影が動いた気がした。(気のせい?)。
心臓が、ドクン、と大きく脈打った。その脈動は、耳鳴りの「ブーン」という音に打ち消されず、私の全身を叩きつける。呼吸が止める。身を屈めたまま、ボトル缶から目を離さずにいた私が、今度は意識的に、その動きのあった方向、ねじれた鉄骨と崩れた壁の奥を凝視する。喉の渇きと他者の存在という、二つの極限の緊張が、私を板挟みにする。
二度目の動きは、より明確だった。それは、太陽光を浴びた蜘蛛の糸のように、一瞬だけ鋭く光を反射し、すぐに闇に吸い込まれた。
気のせいじゃない。砂と煤でできたこの世界の沈黙を、意図的に破ろうとする「何か」がそこにいる。
私は、身を屈めたまま、影が動いた方角を睨みつける。目の奥に焼き付いたのは、人間ではない、異形の、しかし明らかにこちらを「視ている」存在の輪郭だった。
それは、四肢を持つ者のシルエットであったが、ひどく細く、関節が異常な角度で曲がっているように見えた。その輪郭は、周囲の熱で歪んだ空気のように、ゆらゆらと揺らめいている。恐怖が、喉の奥から這い上がり、嘔吐感を催す。背筋に走る冷たい感触が、この灼熱の界で初めて感じた、絶対的な寒気だった。
(違う。ここにいるのは、私ひとりじゃない!)。
この瓦礫の海は、私にとっての終着点であると同時に、彼らにとっては狩場なのだ。(狩場、狩られるのは、私)。
しばらく様子を見ていた私は、次第に酷くなる喉の渇きに耐えきれずその異質な存在から視線を外し、ボトル缶に向かって一歩踏み出した。それは生存本能が恐怖を凌駕した瞬間だった。渇きは、すでに理性的な思考を蝕んでいた。この命を脅かす存在から逃れるためではなく、一秒でも早く、この乾きから解放されるためだけに、私は動いた。ボトル缶に手を伸ばす、その一瞬の動きが、この焼け野原における私の最初の生きる意志となった。
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