第六話 見張る視線


 私が戸惑っていると、田辺さんが軽やかに言った。


「じゃあ、こっちは私が拭いておくね」


 その声はいつものように明るく、何の疑いもない。

 私は反射的に顔を上げた。

 ――駄目だ、そこだけは。

 言葉になるより先に、体が動いた。

 私は咄嗟に、田辺さんの腕を掴んでしまった。


 その瞬間、教室の奥から視線を感じた。

 静かな午後の空気が、一気に張りつめる。

 箒を手にしたメルさんが、薄笑いを浮かべながらこちらを見ていた。

 その笑みは、口元だけが動いていて、目はまるで笑っていなかった。

 ぞくり、と背筋が冷たくなる。


「何? どうしたの? 拭かないの?」


 怪訝そうに首を傾げる田辺さん。

 私は掴んでいた腕を放した。

 指先に残る温もりが、余計に居心地を悪くする。

 メルさんの視線が、教室の横から静かにこちらを捉えていた。

 まるで「全部見ている」とでも言いたげに。


 何も言えない。何もできない。

 その沈黙が、いつもより何倍も重くのしかかる。

 田辺さんの眉がわずかに寄り、表情が硬くなった。


「……リエさんの机だから拭きたくないってこと?」


 その言葉が胸に突き刺さった。

 違う。そうじゃない。

 でも、喉の奥に言葉が詰まって出てこない。

 メルさんの視線がある限り、何を言っても誤解にしかならない気がした。

 ほんの少しでも声を出せば、その瞬間、何かが壊れてしまうような予感があった。


 田辺さんの持つ雑巾の端が、光を反射して揺れた。

 窓の外から入る風にカーテンが静かに膨らむ。

 午後の教室は、どこか遠くの場所のように感じられた。

 自分の足音すら、ここでは許されないような気がした。

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