第二章 曇り硝子の教室で

第五話 濡れた雑巾とためらい


 あの日から数日が経った、ある秋の日。

 窓の外には淡い雲が流れ、校庭のイチョウの葉が少しずつ色づきはじめていた。

 その日は掃除当番で、私は雑巾がけをする係だった。


 雑巾がけをするのは、私ともう一人の友人――田辺さん。

 彼女は笑顔を絶やさない明るい性格で、成績も容姿も申し分なく、

 まさに「才色兼備」という言葉がぴったりの人だった。

 彼女のそばにいると、空気が少し軽くなるような気がした。


 けれど、この日は違っていた。

 掃除用具入れから雑巾を取り出し、水をくむためにバケツを持ったとき、

 胸の奥がひんやりと冷たくなった。

 何かを思い出しそうになって、慌てて呼吸を整える。


 教室の机の列を見渡しながら、私は心のどこかでため息をついた。

 雑巾がけの仕事は、教師の机の上、後ろの棚の上、そして全員の机の上を拭くこと。

 つまり、あの机も――リエさんの机も、拭かなければならない。


 雑巾を絞るたび、冷たい水が指先を伝って袖口を濡らした。

 白く濁った水面に、天井の蛍光灯の光が揺らめく。

 その揺れが、なぜか心のざわめきと重なって見えた。


 数日前、私は信じられない光景を見た。

 メルさんたちがリエさんの机に唾を吐きかけ、靴のまま踏みつけて笑っていた。

 その場に立ち尽くした私は、何も言えなかった。

 教室の空気が歪んで見えた。笑い声だけがやけに鮮明で、時間が止まったようだった。


 それからというもの、リエさんの机の位置を避けるように動く自分がいた。

 目を逸らしても、あの場面が脳裏に焼きついて離れなかった。


 今日、その机を前にして、手が動かない。

 雑巾を絞る手のひらが、じんわり汗ばんでいた。

 窓の外から吹き込む風が頬を撫でる。

 けれど、その冷たさよりも、心の中のざらついた感情の方がずっと痛かった。

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