第14話 祭礼の準備
春の訪れと共に、ルクレティア公領に大きな知らせが届いた。
皇帝陛下が、この領地を公式に表彰するという。
「光の祭典」と呼ばれる祝祭を開き、帝国の模範的統治の象徴として、白百合侯レオナール・リリウスを讃える。そのための使節団が、二週間後に到着する。
城は、にわかに活気づいた。
侍従たちが廊下を走り回り、職人たちが装飾の準備に追われる。厨房からは朝から晩まで火の音と怒号が響き、庭園では庭師たちが花壇を整えていた。
すべては、その日のために。
レオナールにとって、これは最高の舞台だった。
謁見室で、彼は建築家や装飾家たちと打ち合わせをしていた。長テーブルには、祭典の設計図が広げられている。
「広場には、七つの噴水を設置します」
建築家が、図面を指差しながら説明した。
「それぞれに百合の彫刻を配し、夜になれば松明で照らします。まるで天上の庭のように……」
「駄目だ」
レオナールは即座に否定した。
「七つでは足りない。十二だ」
「十二……ですか?」
「帝国の月の数と同じだ。象徴的でいい」
レオナールは、図面に印をつけた。
「それに、照明は松明ではなく、蝋燭にしろ。千本の蝋燭だ」
「せ、千本……それは予算が……」
「金の心配はするな」
レオナールは冷たく言った。
「私が求めているのは、帝国史上最高の祭典だ。中途半端なものは認めない」
「かしこまりました……」
建築家は、蒼白な顔で頭を下げた。
次に、音楽監督が進み出た。
「侯爵様、祭典での演奏曲目ですが……」
「ああ、それだ」
レオナールは身を乗り出した。
「私が作詞した讃歌を、合唱団に歌わせる」
「作詞……なさったのですか?」
「ああ」
レオナールは、羊皮紙を取り出した。
そこには、詩が書かれている。
「『白き百合は咲き誇り、光は闇を照らす。慈悲の雨は大地を潤し、民は喜びに満ちる』」
彼は、陶酔したように詩を読み上げた。
「どうだ? 素晴らしいだろう?」
音楽監督は、言葉に詰まった。
詩は……率直に言えば、稚拙だった。韻律も不安定で、比喩も陳腐だ。
だが、そんなことを口にできるはずがなかった。
「……見事です」
音楽監督は、額に汗を浮かべながら答えた。
「すぐに曲をつけさせていただきます」
「期待している」
レオナールは満足そうに頷いた。
「では、次だ。衣装は?」
仕立屋の老人が、慌てて布の束を抱えて進み出た。
「こ、こちらに……」
彼は、真っ白な絹を広げた。
最高級の生地だ。触れただけで、その滑らかさが分かる。
「これで、新しい外套を仕立てます。裏地には銀糸で百合の刺繍を……」
「銀糸?」
レオナールは眉をひそめた。
「金糸にしろ」
「で、ですが、白地に金糸では……」
「私が金糸と言ったら、金糸だ」
レオナールの声が、鋭くなった。
仕立屋は震えながら頭を下げた。
「か、かしこまりました……」
レオナールは立ち上がった。
「いいか、全員よく聞け」
彼は、一人一人を見回した。
「この祭典は、私の、そしてこの領地の名誉がかかっている。失敗は許されない」
誰も、声を発しなかった。
「完璧であれ。それ以外は、すべて罪だ」
レオナールは、踵を返して謁見室を出ていった。
残された者たちは、互いに顔を見合わせた。
そして、ため息をついた。
*
城の裏庭では、別の準備が進んでいた。
護衛たちが、檻を運んでいる。中には、何かが蠢いていた。
ジュリアンが、それを監督していた。
「慎重に運べ。中身を傷つけるな」
「はい」
護衛たちは、檻を地下室に運び込んだ。
ジュリアンは、その後を追った。
地下室は、薄暗く、湿っていた。壁際には、既にいくつもの檻が並んでいる。
檻の中には、人間がいた。
痩せ衰え、汚れた服を着た人々。
隣の領地から攫われてきた、浮浪者や孤児たちだった。
ジュリアンは、新しい檻を確認した。
中には、十代半ばの少女が二人。震えながら抱き合っている。
「これで、三十名か」
ジュリアンは呟いた。
「祭典の生贄としては、十分だな」
護衛の一人が、恐る恐る尋ねた。
「執事殿、これらの者たちは……」
「祭典が終わった後、処分する」
ジュリアンは、感情のない声で答えた。
「侯爵様の命令だ」
「処分……とは?」
「殺す」
ジュリアンは振り返った。
その目は、虚ろだった。
「祭典の準備を見た者は、生かしておけない。口封じだ」
護衛は息を呑んだ。
「で、ですが……彼らは何も……」
「何も悪いことはしていない。その通りだ」
ジュリアンは、檻の方を見た。
「だが、それが何だ?」
彼は、懐から小さな瓶を取り出した。
薬だ。
手が、わずかに震えている。
「この世界に、正義などない」
ジュリアンは、瓶を握りしめた。
「あるのは、力だけだ」
彼は地下室を出ていった。
護衛は、檻の中の人々を見た。
少女たちは、怯えた目でこちらを見ている。
護衛は、何も言えなかった。
ただ、扉を閉めて、鍵をかけた。
*
その夜、レオナールは寝室で鏡の前に座っていた。
だが、今夜の彼は違った。
顔に、薄く化粧を施していた。
白粉で肌を整え、頬に紅を差し、唇に色をつける。
女性のようではない。ただ、自分の美しさを、より際立たせるための化粧だ。
レオナールは、鏡の中の自分を見つめた。
完璧だった。
いや、完璧に近づいていた。
だが。
目尻に、小さな皺があった。
レオナールは、それに気づいた。
指で触れる。
確かに、ある。
わずかだが、確実に。
「……皺?」
レオナールは、顔を鏡に近づけた。
目を凝らす。
他にもある。
額に、薄く線が入っている。
口元にも、笑った時の名残が。
「いつから……」
レオナールの声が、震えた。
彼は立ち上がり、別の鏡の前に行った。
そこでも、同じだった。
皺が、ある。
小さな、だが確実な老いの証が。
「くそ……」
レオナールは、両手で顔を覆った。
深呼吸をする。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
だが、手を離すと、鏡の中には変わらず皺のある顔があった。
「これでは……祭典に……」
レオナールは、化粧台の前に座り込んだ。
そして、クリームを取り出した。
高価な、若返りの効果があるという魔法のクリーム。
帝都から、莫大な金を払って取り寄せたものだ。
彼は、それを顔に塗りたくった。
額に。
目尻に。
口元に。
すべてに。
そして、再び鏡を見た。
クリームが、顔を白く覆っている。
だが、皺は消えていなかった。
「消えろ……消えろ……」
レオナールは、さらにクリームを塗った。
何度も、何度も。
やがて、彼の顔は真っ白になった。
まるで、仮面のように。
レオナールは、息を荒げていた。
鏡の中の自分を見つめる。
そして、笑った。
低く、だが激しく。
「ハハ……ハハハ……」
笑い声が、部屋に響いた。
「老いる……この私が……老いる……」
レオナールは、化粧台を叩いた。
瓶が倒れ、クリームが床にこぼれる。
「許さない……」
彼は、再び鏡を見た。
「私は、永遠だ」
その目は、血走っていた。
「この美しさは、永遠に続く」
レオナールは、椅子から立ち上がった。
そして、部屋を歩き回った。
壁の肖像画を、一枚一枚見ていく。
若い頃の自分。
美しい自分。
完璧な自分。
「そうだ……私は、まだ美しい……」
レオナールは、自分に言い聞かせた。
「皺など、些細なことだ……化粧で隠せる……」
彼は、再び化粧台の前に座った。
そして、クリームを拭き取り始めた。
丁寧に、慎重に。
素顔が現れる。
皺も、一緒に。
レオナールは、深く息を吐いた。
「……祭典までに、なんとかしなければ」
彼は、侍従を呼んだ。
「はい」
若い侍従が、部屋に入ってきた。
「帝都一の美容師を呼べ」
「美容師……ですか?」
「ああ。金はいくらでも出す。今すぐ呼べ」
「かしこまりました」
侍従は退出した。
レオナールは、再び鏡を見た。
皺が、彼を見返していた。
まるで、嘲笑っているかのように。
*
翌日、城の広場では大規模な工事が始まっていた。
職人たちが、噴水の土台を作り、石畳を磨き、花壇を整えている。
レオナールは、バルコニーからその様子を見下ろしていた。
隣には、ジュリアンが控えている。
「順調か?」
「はい。予定通りに進んでおります」
「よろしい」
レオナールは、満足そうに頷いた。
「あと二週間。すべてを完璧にしろ」
「はい」
ジュリアンは答えた。
だが、その声には力がなかった。
レオナールは、それに気づいた。
「ジュリアン」
「はい」
「お前、また薬を使いすぎているな」
ジュリアンは、何も答えなかった。
「顔色が悪い。目も虚ろだ」
レオナールは、ジュリアンの方を向いた。
「祭典までに、倒れるな」
「……はい」
「薬は、祭典の後にたっぷりやる」
レオナールは、再び広場を見下ろした。
「だから、それまでは我慢しろ」
「かしこまりました」
ジュリアンの手が、震えていた。
汗が、額から流れている。
だが、レオナールは気にも留めなかった。
「それより、地下室の者たちは?」
「全員、健康です」
「そうか」
レオナールは、口元に笑みを浮かべた。
「祭典の夜、彼らを広場に連れてこい」
「広場に……ですか?」
「ああ。そして、使節団の目の前で、全員に金貨を配る」
ジュリアンは、予想外の言葉に戸惑った。
「金貨を……?」
「そうだ。『貧しい者たちへの慈善』としてな」
レオナールは笑った。
「使節団は、私の慈悲深さに感動するだろう。そして、帝都に戻って、それを報告する」
「なるほど……」
「その後、彼らを始末しろ」
レオナールの声が、冷たくなった。
「金貨を配った後、すぐにだ。毒を混ぜた酒でも飲ませておけ」
「……はい」
ジュリアンは、機械的に答えた。
レオナールは、空を見上げた。
青く、澄んだ空だった。
「いい天気だな」
彼は呟いた。
「祭典の日も、こうであってほしい」
*
その夜。
礼拝堂では、リオとアントニウスが密かに会合を開いていた。
テーブルには、あの紙が置かれている。
「祭典か」
アントニウスは、腕を組んだ。
「それは、好機かもしれない」
「好機……ですか?」
「ああ。城の警備が、祭典の準備で手薄になる」
アントニウスは、リオを見た。
「そして、侯爵は祭典に夢中で、他のことに注意が向かない」
「つまり……」
「帳簿を盗むチャンスだ」
リオは、目を輝かせた。
「本当ですか?」
「ああ。だが、危険だ」
アントニウスは、真剣な顔になった。
「城に忍び込むことになる。捕まれば、確実に殺される」
「それでも……」
リオは、拳を握りしめた。
「やります。これが、唯一のチャンスだ」
アントニウスは、しばらくリオを見つめていた。
そして、頷いた。
「分かった。では、準備を始めよう」
彼は、地図を広げた。
城の見取り図だった。
「まず、城の構造を覚えろ。そして、帳簿がどこにあるか……」
二人は、深夜まで話し合った。
計画を練り、細部を詰めていく。
リオの目には、希望の光が宿っていた。
そして、復讐の炎が、燃えていた。
*
祭典まで、あと十日。
城では、準備が佳境に入っていた。
職人たちは不眠不休で働き、侍従たちは倒れる寸前まで働かされた。
レオナールは、毎日のように現場を視察し、細かい指示を出した。
「その花の配置が気に入らない。やり直せ」
「音楽の音程が半音ずれている。最初からだ」
「料理の盛り付けが雑だ。作り直せ」
彼の要求は、果てしなかった。
そして、誰もが疲弊していった。
だが、レオナールだけは、輝いていた。
目は爛々と光り、頬は紅潮し、声には力がこもっていた。
まるで、祭典そのものが、彼の生命力の源であるかのように。
ある夜、レオナールは一人で広場に立っていた。
月明かりの下で、未完成の噴水や装飾が、影を落としている。
彼は、それを見つめた。
「もうすぐだ」
レオナールは呟いた。
「もうすぐ、私の栄光の日が来る」
彼は、両手を広げた。
「この祭典で、私は帝国中に名を轟かせる」
風が、彼の白金の髪を揺らした。
「そして、永遠に語り継がれる」
レオナールは、空を見上げた。
星が、無数に輝いている。
「私は、あの星のように」
彼は笑った。
「永遠に、輝き続ける」
その笑顔には、狂気が混じっていた。
だが、レオナール自身は、それに気づいていなかった。
彼は、ただ自分の幻想に酔っていた。
そして、その幻想が、やがて崩壊することも、知らなかった。
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