第13話 少年の帰還
鉱山の最深部は、光が届かない場所だった。
松明の炎だけが、岩肌を照らしている。湿った空気が肺に染み込み、埃が喉を刺激する。咳き込む音が、暗闇に響く。
リオ・サーランは、ツルハシを振り下ろしていた。
腕が痛い。背中が痛い。全身が痛い。
だが、止まるわけにはいかなかった。
止まれば、監督官の鞭が飛んでくる。
止まれば、食事が与えられない。
止まれば、薬を打たれる。
リオは、歯を食いしばって働き続けた。
あの日から、二週間が経っていた。
広場で晒し者にされた日から。
レオナール侯爵に、尊厳を踏みにじられた日から。
リオは、鉱山の最も過酷な場所に送られた。
他の子供たちとも隔離され、一人で働かされていた。
見せしめだった。
「侯爵に逆らえば、こうなる」
監督官は、他の子供たちにそう言った。
子供たちは、リオを見て震えた。
そして、より従順になった。
リオは、それを知っていた。
自分が、道具にされていることを。
だが、諦めなかった。
心の奥底で、炎が燃え続けていた。
復讐の炎が。
ツルハシが、岩を砕く。
破片が、顔に当たる。
痛みを感じる暇もなく、次の一撃を振り下ろす。
その時。
「おい」
背後から、声がした。
リオは振り返った。
そこに、フィンが立っていた。
久しぶりに見る顔だった。
「フィン……」
「久しぶりだな」
フィンは、痩せていた。以前よりも明らかに。
目の下には隈があり、頬はこけている。
だが、その目には、まだ光があった。
「お前、生きてたのか」
「ああ」
リオは、ツルハシを置いた。
「お前は?」
「なんとかな」
フィンは、リオの隣に座った。
「最近、薬を打たれた」
「薬……」
リオの顔が曇った。
「どんな感じだ?」
「最初は、楽だった」
フィンは、自分の腕を見た。
注射の痕がある。
「痛みも消えるし、疲れも感じない。夢みたいな気分になる」
「だけど?」
「効果が切れると、地獄だ」
フィンは苦笑した。
「体中が痛い。吐き気がする。何も考えられなくなる。ただ、次の薬が欲しくてたまらなくなる」
リオは、拳を握りしめた。
「侯爵の野郎……」
「ああ。あいつは、俺たちを実験台にしてる」
フィンは立ち上がった。
「でも、リオ。お前は違う」
「え?」
「お前には、まだ薬を打ってない」
フィンは、リオの肩に手を置いた。
「なぜだか分からないが、監督官がお前には慎重になってる」
リオは考えた。
おそらく、レオナールの指示だろう。
あの男は、リオが薬で壊れていく様を、じっくり観察したいのだ。
だから、焦らずゆっくりと追い込むつもりなのだろう。
「リオ」
フィンが、真剣な顔で言った。
「お前には、まだチャンスがある」
「チャンス?」
「ああ。逃げろ」
リオは目を見開いた。
「逃げるって……」
「この鉱山から。この領地から」
フィンは、坑道の出口を見た。
「お前なら、できる。まだ、体が動く。薬にも侵されていない」
「でも……」
「でも、じゃない」
フィンの声が、強くなった。
「ここにいたら、お前も俺と同じになる。薬に溺れて、人間じゃなくなる」
「……」
「行け、リオ。そして、生き延びろ」
フィンは、リオを押した。
「いつか、この地獄を終わらせるために」
リオは、フィンを見つめた。
その目には、決意があった。
「……分かった」
リオは頷いた。
「必ず、戻ってくる」
「ああ。待ってる」
二人は、握手を交わした。
それが、最後になるかもしれなかった。
だが、二人とも、それを口にはしなかった。
*
その夜、リオは鉱山を脱出した。
監督官が酒に酔って眠っている隙に、坑道を抜けた。
外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
星が、無数に輝いている。
リオは、久しぶりに見る夜空に見入った。
美しかった。
こんなにも、星は綺麗だったのか。
鉱山にいる間、忘れていた。
世界には、まだ美しいものがあることを。
リオは、森へ向かって走った。
追手が来る前に、できるだけ遠くへ。
だが、どこへ行けばいい?
隣の領地? いや、そこも侯爵の影響下にある可能性が高い。
帝都? 遠すぎる。それに、子供一人では相手にされないだろう。
リオは、走りながら考えた。
そして、ある場所を思い出した。
礼拝堂だ。
マルセル神父がいた、あの礼拝堂。
もう神父はいない。捕まり、拷問され、おそらく殺された。
だが、そこには他の神官たちもいるはずだ。
彼らなら、話を聞いてくれるかもしれない。
リオは、方向を変えた。
礼拝堂へ向かって。
*
明け方、リオは礼拝堂に辿り着いた。
石造りの建物は、朝靄の中で静かに佇んでいた。
リオは、扉を叩いた。
しばらくして、扉が開いた。
老神官が、顔を出した。
「誰だね、こんな早くに……」
彼は、リオを見て目を見開いた。
「君は……鉱山の……」
「助けてください」
リオは、膝をついた。
「お願いします。話を聞いてください」
老神官は、しばらくリオを見つめていた。
そして、扉を開いた。
「中へ入りなさい」
*
礼拝堂の中で、リオは老神官に全てを話した。
鉱山での実験。
侯爵の悪事。
マルセル神父が持っていた帳簿のこと。
老神官は、黙って聞いていた。
時折、深く息を吐きながら。
「……そうか」
やがて、彼は言った。
「マルセル神父は、そんなことを……」
「信じてもらえますか?」
「ああ」
老神官は頷いた。
「私はアントニウスという。マルセル神父の師だった」
「師……」
「彼は、最近悩んでいた。侯爵のことで」
アントニウスは、窓の外を見た。
「私は、彼に言った。『真実を求めることは罪ではない』と」
「それで、神父は……」
「調べに行ったのだろう。そして、真実を知った」
アントニウスは、リオを見た。
「君が持っている紙。それを見せてくれないか」
リオは、服の中から紙を取り出した。
あの夜、拾った紙。
帳簿の一部。
アントニウスは、それを受け取り、じっくりと読んだ。
そして、深くため息をついた。
「これは……間違いなく、侯爵の筆跡だ」
「では……」
「ああ。これは証拠になる」
アントニウスは、リオに紙を返した。
「だが、これだけでは弱い。帳簿の一部では、侯爵は言い逃れるだろう」
「じゃあ、どうすれば……」
「帳簿の本体が必要だ」
アントニウスは言った。
「それがあれば、決定的な証拠になる」
「帳簿は、城にあります」
「ならば、取りに行かねばならない」
「でも、どうやって……」
「まだ分からない」
アントニウスは立ち上がった。
「だが、方法はある。必ず、ある」
彼は、リオの肩に手を置いた。
「君は、よく生き延びた。そして、ここまで来た」
「……はい」
「神は、君を見守っておられる」
アントニウスは微笑んだ。
「さあ、まずは休みなさい。体を癒やしてから、次のことを考えよう」
リオは、初めて安堵の表情を浮かべた。
ようやく、味方ができた。
一人ではない。
そう思うと、涙が溢れてきた。
「ありがとうございます……」
アントニウスは、優しくリオの頭を撫でた。
まるで、父親のように。
*
その頃、城では。
レオナールは、自室にいた。
鏡の前に立ち、自分の姿を見つめていた。
白金の髪。青灰色の瞳。完璧な顔立ち。
すべてが、美しかった。
「私は、世界そのものだ」
彼は呟いた。
壁には、巨大な肖像画が掛けられていた。
レオナール自身の肖像画だ。
白い外套をまとい、百合を手に持ち、天を見上げている姿。
まるで、聖人のような絵だった。
レオナールは、その絵を見上げた。
そして、口元を緩めた。
「見事だ」
彼は、絵に手を伸ばした。
指先で、額縁を撫でる。
「この絵は、五千金貨で描かせた」
レオナールは、満足げに呟いた。
「帝国一の画家に、三か月かけて描かせた」
彼は、絵の中の自分を見つめた。
「だが、本物には及ばない」
レオナールは低く笑った。
「本物の私は、もっと……」
彼は、再び鏡の前に立った。
そして、様々な表情を作ってみた。
笑顔。
悲しみの顔。
怒りの顔。
レオナールは、部屋の中を歩いた。
壁には、他にも絵が飾られている。
すべて、レオナール自身の肖像画だった。
様々な角度から描かれた、様々な表情の肖像画。
部屋は、まるで彼だけの美術館だった。
一枚の絵の前で、彼は立ち止まった。
そこには、幼い頃の自分が描かれていた。
十歳の頃だ。
既に、美しかった。
「この頃から、特別だった」
レオナールは、絵を見つめた。
「誰もが、私を愛した。母も、父も、兄も、姉も」
彼の目が、変わった。
「だが、邪魔だった」
レオナールは、絵から目を離した。
「だから、消した」
彼は、窓辺に歩み寄った。
「母は、毒を盛った」
淡々とした口調だった。
「父は、階段から落ちた。偶然、な」
「兄は、狩猟で矢が外れた」
「姉は、病で床に伏せた。そして、枕で」
レオナールは、月を見上げた。
「誰も、疑わなかった」
彼の顔に、歪んだ笑みが浮かんだ。
「なぜなら、私は泣いた。嘆いた。苦しんだ」
レオナールは、両手を広げた。
「悲劇の息子。不運な弟」
彼は、くるりと回った。
その動きは、まるで舞踏のようだった。
レオナールは、机に向かった。
そこには、日記が置かれている。
彼は、それを開いた。
最新のページには、こう書かれていた。
『リオ・サーラン、鉱山より脱走。現在、捜索中』
レオナールは、ペンを取った。
そして、書き加えた。
『興味深い。あの少年、まだ希望を捨てていないのか』
『どこまで逃げられるか。どこで諦めるか』
『すべて、私の掌で』
レオナールは、ペンを置いた。
そして、再び鏡の前に立った。
長い時間、彼は自分の姿を見つめていた。
髪の一本一本。
睫毛の長さ。
唇の形。
すべてを、確認するように。
やがて、彼は鏡に向かって囁いた。
「私が、支配する」
鏡の中の自分が、同じ言葉を形作った。
二人のレオナールが、互いを見つめ合った。
部屋は静かだった。
ただ、壁の肖像画たちだけが、レオナールを見つめていた。
無数の目が。
無数の笑みが。
すべて、彼自身の顔だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます