『寂しい人』3章

鈴木 優

第1話

    『寂しい人』三章

                鈴木 優


 冬の朝は、駅の空気をさらに静かにさせる。

 

 吐く息が白く浮かび、ホームの屋根からは霜がきらきらと落ちていた。


 彼は、いつものように売店へ向かった。

 

 グレーのマフラーを巻き、手袋を外してポケットにしまう。

 売店の前に立つと、彼女は変わらず缶コーヒーを二本差し出した。

 温かいのと、冷たいの。


 けれどその日は、彼が先に言った。


『温かいのをください』


 彼女は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んで缶を手渡した。

 その手は赤く、少し乾いていた。


『寒いですね』


『ええ。でも、去年よりは…あたたかい気がします』


 ふたりは並んでホームに立ち、電車を見送った。

 

 風が吹いた。

 

 マフラーが揺れる。

 でもそれは、どこか優しい風だった。


 その日、彼は小さな封筒を持っていた。

 中には、短い手紙と、駅前の喫茶店のチケットが入っていた。


『これ…よかったら今度一緒に』


 彼女は驚いたように目を見開いた。

 でもすぐに、静かに頷いた。


『ありがとうございます。嬉しいです』


 電車が通り過ぎたあと、ふたりは少しだけ歩いて駅の外へと向かう。

 

 冬の空は高く、雲がゆっくりと流れていた。

 それは、まるで二人の歩く早さに合わせるかのように感じられた。


 喫茶店の前で立ち止まると、彼女がふと口を開いた。


『私、売店の仕事、来月で辞めてしまうんです』


 彼は、顔が驚きで引き攣るのを感じて言葉がすぐには出てこなかった。


『実家のほうで、母がひとりで暮らしていて...戻ることにしました』


 彼は、しばらく黙っていた。

 けれど、やがて静かに頷いた。


『そうですか...それは、大切なことですね』

 

 本当は"大切なこと"ではなく"残念なこと"と言うのが正直な気持ちだった。


 彼女は少しだけ目を伏せたあと、顔を上げた。


『でも、また来ます。きっと。あのベンチに、花があった日を、私は忘れません』


 彼は、少しだけ笑った。

 それは、どこか懐かしい笑顔だった事を思い出した。


 その夜、彼はまた夢を見た。

 亡き妻が、遠くから見守っていた。

 何も言わず、黙って、ただ、彼女の方へと背中を押してくれたような。


 翌朝、彼は駅に向かう前に、もう一度花屋に立ち寄った。

 今度は、白い花に加えて、いくつか小さな黄色い花を添えて。

 それは、別れではなく、再会を願う色だった。


 遠くの雲の切れ目からは、少しだけ暖かな陽射しがさしているのが見えた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『寂しい人』3章 鈴木 優 @Katsumi1209

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る